今日、四月二十日は、二十四節気の一つ「穀雨(こくう)」である。穀雨は、百穀を生じ育てる雨をいう。今日の午後から降り出した雨のように、暖かい雨がしとしとと降り続き、やがて田圃に満ちて、萍(うきくさ)がただよい浮かぶようになる。苗代の早稲もようやく出そろって、日一日と草丈が伸びてくる。
萍や池の真中(まなか)に生ひ初むる 子 規
若草に薫る風が、池の水面(みなも)に漣(さざなみ)の小じわを寄せて吹き渡る。小さな萍がゆらゆらとただようようになると、もうそれは、闌(た)けた春というよりも、新鮮な初夏の感じに移っている。
孤独なれば浮草浮くを見にいづる 綾 子
「萍生ひ初む(うきくさおいそむ)」は春の季語で、冬の間中、水中に沈んでいた萍が、春になって水面に浮かび上がってくることをいう。
萍は、今は浮草とも書くが、単に萍・浮草とした場合は、夏の季語となる。また、根無し草と詠んでもよい。根無し草といっても、萍の葉の裏には、細長い髭根(ひげね)が垂れ下がっていて、根がないわけではない。
芽を出すや心をたねに無根草(ねなしぐさ) 鬼 貫
「和歌(やまとうた)は人の心を種として万(よろず)の言の葉とぞなれりける」という、紀貫之の『古今集』仮名序を、皮肉屋の鬼貫がもじって詠んだものだ。
穀雨の季節には、萍ばかりではない。金魚藻・石菖藻・菱・蓴菜(じゅんさい)・ひつじ草・河骨(こうほね)・蓮・慈姑(くわい)水葵(みずあおい)など、根のある水草も、どんどん新しい芽を吹いて伸びてくる。
池や沼や、川のよどみに、五月雨の頃とは違って、まだ底も濁らず澄み透った水の中で、ゆらゆら絶えず揺れ動いている早緑(さみどり)の水草。照る日、輝く波。地上の若葉とは違った、独特のすがすがしさを味わうことが出来る。
水草生ふ風土記の村をたもとほる 風 生
間もなく、この水草の林の中から、蜻蛉のヤゴや蛙のオタマジャクシが泳ぎ出すことだろう。
蛙の子 大きくなって鯨になあれ 季 己
萍や池の真中(まなか)に生ひ初むる 子 規
若草に薫る風が、池の水面(みなも)に漣(さざなみ)の小じわを寄せて吹き渡る。小さな萍がゆらゆらとただようようになると、もうそれは、闌(た)けた春というよりも、新鮮な初夏の感じに移っている。
孤独なれば浮草浮くを見にいづる 綾 子
「萍生ひ初む(うきくさおいそむ)」は春の季語で、冬の間中、水中に沈んでいた萍が、春になって水面に浮かび上がってくることをいう。
萍は、今は浮草とも書くが、単に萍・浮草とした場合は、夏の季語となる。また、根無し草と詠んでもよい。根無し草といっても、萍の葉の裏には、細長い髭根(ひげね)が垂れ下がっていて、根がないわけではない。
芽を出すや心をたねに無根草(ねなしぐさ) 鬼 貫
「和歌(やまとうた)は人の心を種として万(よろず)の言の葉とぞなれりける」という、紀貫之の『古今集』仮名序を、皮肉屋の鬼貫がもじって詠んだものだ。
穀雨の季節には、萍ばかりではない。金魚藻・石菖藻・菱・蓴菜(じゅんさい)・ひつじ草・河骨(こうほね)・蓮・慈姑(くわい)水葵(みずあおい)など、根のある水草も、どんどん新しい芽を吹いて伸びてくる。
池や沼や、川のよどみに、五月雨の頃とは違って、まだ底も濁らず澄み透った水の中で、ゆらゆら絶えず揺れ動いている早緑(さみどり)の水草。照る日、輝く波。地上の若葉とは違った、独特のすがすがしさを味わうことが出来る。
水草生ふ風土記の村をたもとほる 風 生
間もなく、この水草の林の中から、蜻蛉のヤゴや蛙のオタマジャクシが泳ぎ出すことだろう。
蛙の子 大きくなって鯨になあれ 季 己