壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

花の雲

2010年04月09日 22時41分39秒 | Weblog
          草 庵
        花の雲 鐘は上野か浅草か     芭 蕉

 この趣の中に、草庵の春、静かにあたりの自然に身を任せた姿が見られる。置かれた境遇に身をゆだねた人の大きな安らぎが、この句の調子の上に流れている。前年の、
        「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」
 と一連をなす味がある。ちなみに上野は寛永寺、浅草は浅草寺の鐘をさすものであろう。
 「花の雲」とは、桜の花の一面に咲き乱れたさまを、雲にたとえていう語。つまり、桜の花が爛漫と咲いたさま。

 季語は「花の雲」で春。この季語が、句を支える中心になっている。

    「花の雲を目にしながら静かに坐していると、花の中から鐘の音がゆるく響いてくる。
     あれは上野の鐘であろうか、それとも浅草の鐘であろうかと、聴きわけようとするが、
     その鐘の音は、駘蕩(たいとう)たる花の雲の中にとけこんでいて、なんとも聴きわ
     けがたい感じである」


 どいうわけか今日は抗ガン剤投与の予約者が少なく、十一時半ごろに投与が始まり、午後二時半ごろに終了した。こんなことは初めてである。
 おかげさまで、体調はよく、“しびれ”さえなくなれば快調そのものといえる。その“しびれ”の原因となるオキサリプラチンを、次回の投与から抜いてくれるという。もっとも4月12日のCT検査の結果次第という条件付きではあるが。
 芭蕉さんは、のどかな春の日和に誘われ、草庵の縁側から対岸の上野・浅草あたりを眺めわたした。変人は、駒込病院のベッドで抗ガン剤の投与を受けながら、右脳で花見のシーンのフラッシュバック。
 掲句は、花もおぼろ、鐘もおぼろの、駘蕩たる大江戸の春光を外にした、閑居の気味を読み取るのが、一句の勘所ということになる。鐘の音は、上野でも浅草でもどちらでもいいのだ。駘蕩たる春景色を詠みたかっただけなのだ。そう今は、上野も浅草も台東(たいとう)区なので……。


      花散らす木に寺町の薄日さす     季 己