摘みけんや茶を凩の秋とも知らで 芭 蕉
茶摘みを見て、茶の木が露呈してしまっているさまをいたむ心で発想したものであろう。けれども「摘みけんや茶を」と倒置したり、「茶を凩(こがらし)の」と掛詞的な措辞にしたりしているため、茶をいたむ心よりは、ことばの飾りのほうが浮き上がってしまい、深い味わいを生み出し得ていない。また、五・七・七のリズムもあまりよくない。
『東日記』に「茶摘み」として掲出。したがって延宝九年以前、芭蕉がまだ‘桃青’と名乗っていた頃の作かも知れない。
季語は「茶摘み」で春。「凩」は「木枯し」で、ふつうには冬季であるが、秋から吹くものとして秋にも扱った。
「茶摘女は無心に茶を摘んで、芽をこんなに摘み取ってしまった。茶摘みをすることは、
茶の木にとっては、木枯しの吹きまくる秋のように、無慈悲なしわざとも知らないで、
こんなにも摘み取ってしまったのだろうか」
焙炉場をのぞけば老いの茶揉唄 季 己
茶摘みを見て、茶の木が露呈してしまっているさまをいたむ心で発想したものであろう。けれども「摘みけんや茶を」と倒置したり、「茶を凩(こがらし)の」と掛詞的な措辞にしたりしているため、茶をいたむ心よりは、ことばの飾りのほうが浮き上がってしまい、深い味わいを生み出し得ていない。また、五・七・七のリズムもあまりよくない。
『東日記』に「茶摘み」として掲出。したがって延宝九年以前、芭蕉がまだ‘桃青’と名乗っていた頃の作かも知れない。
季語は「茶摘み」で春。「凩」は「木枯し」で、ふつうには冬季であるが、秋から吹くものとして秋にも扱った。
「茶摘女は無心に茶を摘んで、芽をこんなに摘み取ってしまった。茶摘みをすることは、
茶の木にとっては、木枯しの吹きまくる秋のように、無慈悲なしわざとも知らないで、
こんなにも摘み取ってしまったのだろうか」
焙炉場をのぞけば老いの茶揉唄 季 己