壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

神の顔

2010年04月08日 22時49分29秒 | Weblog
          葛城山
        なほ見たし花に明け行く神の顔     芭 蕉

 伝説を心にした芭蕉が、花の中にようやく明けて行こうとする曙の色を見ていると、この美しい景色の葛城山(かずらきやま)に棲(す)む一言主神(ひとことぬしのかみ)が、そんなに醜いはずはないという気持をとどめえなくなったのであろう。
 「なほ見たし」という気持は、「醜かろうはずはない。なぜ人をおそれてそうはにかむのであろう。なおのことそうでないことをこの目でたしかめたい」というので、芭蕉の力が精妙に生きた一つといえよう。
 「花に明け行く神の顔」は、謡曲「葛城」の終段で、
        「名に負ふ葛城の神の顔かたち、面なやおもはゆや。恥ずかしやあさましや。
         あさまになりぬべし。明けぬ前(さき)にと葛城の明けぬ前にと葛城の夜の
         磐戸にぞ入り給ふ……」
 や、『拾遺集』の、
        「岩橋の 夜の契りも 絶えぬべし
           明くるわびしき 葛城の神  (春宮女蔵人左近)」
 あたりが心にあっての発想ではなかろうか。

 『泊船集』に、
        「大和の国を行脚(あんぎゃ)して、葛城山の麓を過ぐるに、四方(よも)の花は
         盛りにて、峯々は霞みわたりたる明ぼののけしき、いとど艶なるに、彼の神
         の御容貌(みかたち)悪しと、人の口さがなく世にいひ伝へ侍れば」
 と前書きがあり、発想の事情をよく伝えている。貞享五年春の作。

 「葛城山」は、役行者(えんのぎょうじゃ)の籠った山。奈良・大阪の境にあり、金剛山地の一峰、九百五十九メートル。修験道の霊場。『奥義抄(おうぎしょう)』などによると、役行者が、葛城山と吉野金峰山(きんぶせん)との間に岩橋を架けようとしたとき、この葛城山の一言主神にその役(えき)を命じたが、神は容貌の醜いのを恥じて、夜の間だけしか働かなかったので完成しなかった、という伝説がある。
 「花」が春の季語。

    「葛城山の麓を過ぎつつ、花に明けゆく曙の美しい色を見ていると、醜い顔だという
     この葛城山の神もそんなに醜いはずがないと思われて、夜明けとともに身を隠すと
     伝えられるその顔を、なおいっそう見たくなることだ」


      絵の奥のこころや富士に山桜     季 己

     ※ 東京・銀座「画廊宮坂」、『中嶌虎威 日本画展』に心ふるえて。