一人居て喜ばば 二人と思ふべし
二人居て喜ばば 三人と思ふべし
その一人は 親鸞なり
(『御臨末の御書』)
『御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)』(伝親鸞)については諸説があるが、それはそれとして“釈秀友”のわたしにとっては、忘れられない聖語の一つである。独り身のわたしを、いつも支えて元気づけてくれる[いのちの言葉]と言ってもよい。
「ひとりぽっちでいるときでも、うれしいことがあったら、一人だけのよろこびと
思いなさんな、“もう一人のひと”が、ともによろこんでおるぞ。
二人してうれしいことがあったら、二人だけのことと思うでないぞ、“もう一人
のひと”も一緒によろこびをともにしておると思ってくだされ。
そう、“もう一人のひと”とは、この親鸞――」
親鸞の教えを信ずる人でなくても、この聖語を深く味わうことをおすすめしたい。
この聖語には、さらに
「一人(ひとり)居て悲しまば 二人(ふたり)と思ふべし
二人(ふたり)居て悲しまば 三人(みたり)と思ふべし
その一人(いちにん)は 親鸞なり」
の意が、当然ふくまれていると思う。
「うれしいときも、悲しいときも、決して、ひとりと思わないで! いつでもそばに親鸞がいるからね」親鸞さんは、そうおっしゃっているのだ。
“一人(いちにん)”は、親鸞聖人でなくてもいい。たとえば、父でも母でもいい。目に見えない“もう一人のひと”を見つめることが大事なのだ。その目がやがては、自分のこころの眼を開かせてくださるのだから。
冴返る二羽のインコの無愛想 季 己
二人居て喜ばば 三人と思ふべし
その一人は 親鸞なり
(『御臨末の御書』)
『御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)』(伝親鸞)については諸説があるが、それはそれとして“釈秀友”のわたしにとっては、忘れられない聖語の一つである。独り身のわたしを、いつも支えて元気づけてくれる[いのちの言葉]と言ってもよい。
「ひとりぽっちでいるときでも、うれしいことがあったら、一人だけのよろこびと
思いなさんな、“もう一人のひと”が、ともによろこんでおるぞ。
二人してうれしいことがあったら、二人だけのことと思うでないぞ、“もう一人
のひと”も一緒によろこびをともにしておると思ってくだされ。
そう、“もう一人のひと”とは、この親鸞――」
親鸞の教えを信ずる人でなくても、この聖語を深く味わうことをおすすめしたい。
この聖語には、さらに
「一人(ひとり)居て悲しまば 二人(ふたり)と思ふべし
二人(ふたり)居て悲しまば 三人(みたり)と思ふべし
その一人(いちにん)は 親鸞なり」
の意が、当然ふくまれていると思う。
「うれしいときも、悲しいときも、決して、ひとりと思わないで! いつでもそばに親鸞がいるからね」親鸞さんは、そうおっしゃっているのだ。
“一人(いちにん)”は、親鸞聖人でなくてもいい。たとえば、父でも母でもいい。目に見えない“もう一人のひと”を見つめることが大事なのだ。その目がやがては、自分のこころの眼を開かせてくださるのだから。
冴返る二羽のインコの無愛想 季 己