壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

さびしさ

2010年04月23日 22時35分09秒 | Weblog
          明日は檜とかや、谷の老木(おいき)の
          いへる事あり。きのふは夢と過ぎて明日
          はいまだ来たらず。ただ生前一樽の楽し
          みの外に、明日は明日はといひ暮らして、
          終(つい)に賢者のそしりをうけぬ。
        さびしさや華のあたりの翌檜     芭 蕉

 この句は『笈日記』所収のものであるが、『笈の小文』にこの句の初案と思われる「日は花に暮れてさびしや翌檜」がある。(昨日の当ブログ参照) 
 これが旅中実景に触れての実感であろう。花の咲き満ちている中に日が暮れ落ちて、その中に翌檜(あすなろう)が、蒼然と立っていることをさびしく思ったのである。
 しかし、「さびしさや」の方は、その淋しさの中心にうがち入り、その感じを純化して、写実的な要素を高めて、象徴の域まで達することに成功している。
 前文もいちじるしく述懐の趣が濃厚で、この改案を促したものが何であったかを示している。「さびしさや」の句では、翌檜に明らかに芭蕉自身の姿がみつめられている発想なのである。

 「翌檜」は、‘あすはひのき’・‘あすわひ’・‘あすひ’・‘しろび’・‘あて’・‘ひば’などといい、羅漢柏(らかんはく)のこと。
 『枕草子』に、「あすは檜、……何の心ありてあすは檜とつけけむ、味気なきかねごとなりや……」とある。‘あすわひ’とか‘あすひ’とかいうのは、「明日は檜になろう」との意で、見た感じがいかにも檜に似ていながら、檜より見劣りがして淋しげなところからきたもの。どこかあわれな感じのする名である。
 「華のあたりの」は花のあるあたりの、の意で、やや距離を置いて眺めている気持が出ている。門人の許六(きょりく)によれば、『撰集抄(せんじゅうしょう)』の「花のあたりのみ山木の心地して心とめ見る人もなかりけり」が心にあったもの。

 季語は「花(華)」で春。翌檜それ自体でなく、「花」との関連で「さびしさ」をつかんでいる。花は背後からはたらくのである。
 前文の「生前一樽の楽しみ」は、白居易の「勧酒」の一節によったもの。

    「花が今を盛りと咲いているあたりに、ぽつんと一本の翌檜が立っている。花の美しさの中に、
     常緑の色を変えることがなく、明日を夢見がちに空しく老いてゆくその姿には、しみじみした
     淋しさが感じられる」


      濡れ傘に紛れ込んだる花の屑     季 己