芳 野(よしの)
花盛り山は日ごろのあさぼらけ 芭 蕉
花の盛りの吉野山中に立って、‘あさぼらけ’にあう趣である。
山はこの万朶(ばんだ)の桜の中で、常とは何か異なった様子で明けてくるかと期待したのである。しかし、いよいよ明けてゆくさまは、いつもとかわらぬ静かでさわやかな朝ぼらけであったという、かるい期待はずれの声である。この「日ごろの」という発見に、実に感覚の鋭い把握が感じられる。
『笈の小文』に、
「吉野の花に三日とどまりて、……いたづらに口を閉ぢたる、いと口惜し」
とあり、『去来抄』に、
「杜国が徒(ともがら)と吉野行脚(あんぎゃ)したまひける道よりの文に」
と伝えるが、季・場所から推して貞享五年の作。
「日ごろ」は、いつもながら、ふだんの意。
季語は「花盛り」で春。「花盛り」が、「日ごろのあさぼらけ」を生かす感動の軸になっている。
「ここ吉野山は、桜が今を盛りと咲き満ちている。けれども、みごとな花盛りにもかかわらず、
山は常と少しも変わらぬ姿に明けてくることだ」
東京の桜もいよいよ満開。しかし、桜を詠むことはむずかしい。
芭蕉は、「桜」として30句弱、「花」として60句強の句を残している。
「花」はその成り立ちから、抽象語としての性格を持ち、類題も幅広く、時候・天象・人事・心理と変化の妙を見せる。だが「桜」は具体名であり、ズバリと決まっている。
「花」の、より感覚・ムード的なのに対し、「桜」は視覚・描写的に詠みたいのだが……。
花盛り象の鎖を長くせよ 季 己
花盛り山は日ごろのあさぼらけ 芭 蕉
花の盛りの吉野山中に立って、‘あさぼらけ’にあう趣である。
山はこの万朶(ばんだ)の桜の中で、常とは何か異なった様子で明けてくるかと期待したのである。しかし、いよいよ明けてゆくさまは、いつもとかわらぬ静かでさわやかな朝ぼらけであったという、かるい期待はずれの声である。この「日ごろの」という発見に、実に感覚の鋭い把握が感じられる。
『笈の小文』に、
「吉野の花に三日とどまりて、……いたづらに口を閉ぢたる、いと口惜し」
とあり、『去来抄』に、
「杜国が徒(ともがら)と吉野行脚(あんぎゃ)したまひける道よりの文に」
と伝えるが、季・場所から推して貞享五年の作。
「日ごろ」は、いつもながら、ふだんの意。
季語は「花盛り」で春。「花盛り」が、「日ごろのあさぼらけ」を生かす感動の軸になっている。
「ここ吉野山は、桜が今を盛りと咲き満ちている。けれども、みごとな花盛りにもかかわらず、
山は常と少しも変わらぬ姿に明けてくることだ」
東京の桜もいよいよ満開。しかし、桜を詠むことはむずかしい。
芭蕉は、「桜」として30句弱、「花」として60句強の句を残している。
「花」はその成り立ちから、抽象語としての性格を持ち、類題も幅広く、時候・天象・人事・心理と変化の妙を見せる。だが「桜」は具体名であり、ズバリと決まっている。
「花」の、より感覚・ムード的なのに対し、「桜」は視覚・描写的に詠みたいのだが……。
花盛り象の鎖を長くせよ 季 己