(先週の説教要旨) 2014年3月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「主告白に生きる」 マタイによる福音書22章15-22節
まず確認しておきたいことは、この世に存在するもので神の支配下にないものはない、ということ。国家といえどもそうだ。だから、私たちは、「神の支配」を厳密に「キリストにおける神の啓示」ととらえた上で、教会の主であるキリストがそれ以外の領域においても、国家においても、主であると告白する。
教会はキリストを主とし、告白する信仰共同体であり、見えざる神の国のしるしであり、恵みの先取りであるが、国家は市民共同体である。だから、政府の役目は、この市民共同体のメンバーがすべて人間らしく生きていくための生活条件を整えることである。その意味で、人間性を外的に・相対的に保護することである。すべての人間に備わっている基本的人権を尊重しなければならない。何ものも、その人権をおかすことはできない。
ところが、もし国家が市民共同体の外的保護という枠を越えて、それ自体で神の国のしるしになろうとしたら、国家の宗教化が生じてくる。そして国家が、人々の「良心の主」となろうとする。この過ちを戦前・戦中の日本に見ることが出来る。そこでは神道が、すべての宗教を越える「超宗教」として、日本の「国体」を規定した。こうして「国家神道」が出来上がり、国家は宗教化された。
これに対して、国家は限界を守るべきであって、疑似宗教となってはならないという主張が政教分離の原則である。日本は、国家が宗教化しやすい精神風土を持っている。かつては神道は超宗教であるといったが、今度は神道は宗教ではなく習俗であるという言い方で、国家と神道の癒着が計られようとしている。さらに、今、巧妙に出してきているのが「公益」、「公」という言葉。自民党の憲法改正草案では、いろいろなところでこの文言が出てきて、私たちの人権に縛りをつけている。
市民として国や地方の政治に参与するのは信仰者にとっても当然のことであり、国が再び同じ誤りを犯さないように見守るのは、私たちのつとめであろう。「神のみ旨に反しない限り」という言葉は、信仰者の政治参加が場合によっては、批判的・抵抗的なものでもあり得ることを意味している。
政教分離の原則は近代においてバプテストの先達が勝ち取った重要な嗣業であり、世の終わりに至るまで私たちの課題であり続ける。宗教と政治の混同、教会と国家の癒着は人権を抑圧し、批判を許さぬ国家権力の神聖化と教会の世俗権力化をもたらす。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。