(先週の説教要旨) 2014年3月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「神のビジョン」 レビ記25章1-12節
今、イスラエルの人たちはシナイ山に居る。モーセを指導者として、エジプトを脱出して荒れ野の旅の途中。エジプトでの奴隷生活では当然自分たちの土地は持てない。土地を耕しては畑を作り、そこから作物を得て食べていくなど、自分たちのこととしては経験さえしていない。そんなイスラエルの民族に、神は夢のような約束を語る。土地を得ると言うだけではない。
約束の土地を得て、その生活が始まる前に、神がイスラエルの人たちに向かって、「約束の土地に入ったならば、あなたがたはこのように生きなさい」と語り、新しい生き方を示されたのである。奴隷生活と荒れ野の旅しか知らないイスラエルの人々にとって、土地を耕し、休みが得られる生活の姿は、想像の範囲を越えていたかもしれない。どのような社会をつくっていくのかを神から示されたからこそ、そのような生き方を持つことができたと言えるだろう。
さらに7年を7度数えて50年目は「ヨベルの年」とされ、すべての住民が解放される、土地が返却されるという約束が語られる。負債を負い、貧しく力を失った者が、もう一度人生をやり直すことができる自由と解放が与えられるのである。実際に聖書の記述の中に、「ヨベルの年」が行われたという形跡はない。しかし、その精神は、イスラエルの人々がエジプトから救い出され解放されたという事実が基になっている。人は、神の民として神のものであり、いかなる理由によっても、他者にその自由・自立を侵され続けることはあり得ないという神の意思がこの律法から感じられる。
神のビジョンは、私たちをプレッシャー(自分の力でなんとかせねばと思うこと)や傲慢(自分のものだから自分の好きなようにしていいはずだ)からも解放してくれる。なぜなら、与えられる土地は神のものだからである。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者に過ぎない」(25:23)からである。約束の地を与えられた民は、約束された土地を神が所有されるものとして取り扱わなくてはならない。神の所有する土地を生きることが、神の民に求められた自己認識だった。
資本主義・所有・自己責任が強調される社会において、土地を所有したり、財産を築いたり、または反対に土地や財産を失ったりする中で、私たちを自由へと解放する戒め、それがヨベルの年の規定である。この戒めは、自由と解放、復活のテーマを含んだキリストの言葉を想起させる。
主イエスが「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな」と語られた時も、「あなたがたの天の父は、これらのものがことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と教えられている。この天の父を信じることなしに明日のことを思い煩わないことは、蛮勇であって、信仰の業ではない。御言葉は神に対する絶対的な信頼なくして、誰も従うことのできるものではない。
私たちも「7年目に種を蒔くことができず、また産物を集めることができないならば、私たちは何を食べようか」とつぶきやきやすい。しかし、このことを命じたもう神は6年目に私たちを祝福してくださり、3ヵ年分の産物を実らせるお方なのだ。この主に信頼して初めて、私たちは御言葉に従う者となり得るのである。