牧師室だより 2014年3月2日 会話から対話へ
先々週のこの欄で「対話力」の大切さについて書いた。そして最後に、「対話力」、時間をかけて取り組まなければならない宿題である、と反省を込めて決意を述べた。
そんな折、何よりも教会の中に対話がないのではないか、教会こそ対話を生み出す場であるべきではないか、という思いが強く起こされた文章に出会った。あるシンポジウムでの渡辺祐子先生(明治学院大学教授)の発題の記録である。
会話と対話がどう違うのかという問題を取り上げ、平田オリザ氏の言葉を引用して、会話とは同じような環境の中に生活する、似たような意見を持つ者同士によるもの、対話は、まったく異なる出自を持ち、考え方も立場もさまざまに異なる者同士の間で交わされるものと定義していて、日本社会には対話がないと言い切っている。
対話をする時に大事なのは、どんなふうにして相手に言葉を届けるか、自分の思いを伝えるかということ。言葉を相手に届ける努力。
対話を難しくしてしまうものとして、渡辺先生は、相手にレッテルを貼ることだと言われる。それは、対話どころか存在そのものを排除しようとすると指摘される。さらにレッテル貼りに人間観の貧しさと同時に硬直性を感じるという。その「精神のこわばり」(精神科医・野田正彰氏)を持っている人は、自分と異なる見解を持つ人、出自の違う人、宗教的背景が異なる人との間に対話が生まれる可能性が極めて低い、と言われる。対話の回路を自ら断ってしまうことになるからである。
では、対話で大切なことは何か。それは「心を込めて伝える」ことだという。私は本当にこのことをあなたに伝えたい、疑問があったら何でも言ってほしい、一緒に考えていこう、こんなふうにして、対話の回路を生み出すことだ。伝道って、そういうことなんじゃないだろうか。相手の言葉に耳を傾け、相手に届く言葉を探り続けて、自分自身が変わることなしに伝道はできないと思わされた。
*『この国はどこへ行くのか!?』(いのちのことば社 2014)参照。
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