(先週の説教要旨) 2014年3月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「恵みによる救い」 ルカによる福音書18章18-30節
ここに登場する「ある議員」さんは、支配層に属し、おまけに金持ち。主イエスから十戒の話をされると「そういうことなみな、子どもの時から守ってきました」と答えるほどの模範的な信仰者だと自認している。
そのような人が、なぜイエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をしたのだろうか?どうも救われるという確信が持てないで、悩んでいたのではないか?
この男は「何をすれば」と聞いている。この男の価値観は「できる、できない」。できれば救われる、できなければ救われない、という価値観からどうしても離れられない。だから、できるという延長線にしか彼の未来は開けない。できない、または負ける、という挫折感を経験したこともないようだ。主イエスに「できないこと」をはじめて言われたので悲しくなったのだろう。ここで、彼の価値観は立ち行かなくなった。
そのあと主イエスは、「らくだが……」と言われる。これは人間にはできないことだ、と言っているようなもの。だから人々が「それでは、誰が、救われるのか」と思うのは当然。そこで、イエスは言われる。「人間にはできないことも、神にはができる」。救いは神の業だ、ということ。
そのことを、この話がルカ福音書18章においてどのような文脈に置かれているか、その直前と直後の話を見てみよう。戒めをきちんと守り、自分を神の前にふさわしい人間だと自任している「パリサイ人」と対置して、「取税人」「乳飲み子」「物乞いの盲人」が置かれている。いずれも戒めを守りようのない者であり、人々から見下され、主イエスに近づこうとすると「叱られて」いる。しかし、それらの一人ひとりを主イエスは受け入れ、神の国が彼らの上に臨んでいることを宣言する。
だとするならば、今日の聖書個所で「戒めをすべて守っている」と語る金持ちの男に「欠けていたもの」とは、次のように言えるのではないか。つまり「この世の財産を持ち、律法の戒めを守ることによって、神の国に入る資格が得られる」という彼の神の国理解が根底からひっくり返されたこと。そして、「貧しい者」にこそ神の国が宣言されていることを受け入れ、これまで「取税人」や「乳飲み子」「物乞いの盲人」を見下してきた自分の価値観を砕かれ、彼らの仲間に飛び込んでいくこと。それがこの金持ちの男に「欠けていた」ことであり、そのような「価値観の全くの転換」(悔い改め)に導かれて、エルサレムへ向かう主イエスに従うように招かれたのだ。
しかし、そうはいっても「自分のものを捨てて、あなたに従いました」と胸を張る弟子のペテロさえ、このあと主イエスに従いきれない自分を見出し、涙を流す(22:62)。しかし、そのように神に従い、隣人を愛しきれない自分の限界を思い知らされる時、「人にはできないことも、神にはできる」(26-27節)の言葉がまさに私に向けて語られていることを見出すであろう。
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