平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

困難にある人々のため

2011-03-21 10:29:04 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年3月20日 困難にある人々のため

 以下は、アイオナ共同体の牧師ジョン・ベルの祈りです。この祈りに合わせ、さらに私たちの祈りも加えて、被災地の方々、救援に当たっておられる方々のために祈りましょう。

 主なるキリスト/昔も今も、あなたは人々の信仰をお受けになり、平安と癒しをお与えになりました。私たちの信仰がたとえ弱くても、私たちを顧み、よき業に当たらせてください。/心と体に大きな痛みを負っている人々、苦しみの中にある人々、私たちが知っている以上にひそかに苦しみを抱いている人々、夜、朝だったらよい、朝、夜だったらよいと嘆く人々がいます。主よ、覚えてください。/その苦しみが体の痛みでなく、過去の悪夢や、未来の亡霊にまとわれている人々、ノイローゼ、抑うつ状態、恐怖感に襲われ、しばられている人々、何が誤りであり、何を祈るべきか、分からない人々、主よ、癒しをお与えください。/光が闇に変わった経験をしてしまった人々、人間関係が破れ、衝撃を受け、言葉を交わすことがなくなってしまった人々、生きる目標が何であるか、分からなくなった人々、主よ、平安をお与えください。/私たちに悩みを語らない人々、私たちがその人の名を敢えて挙げない人々もいます。主よ、あなたはお分かりですか。私たちの知らない時にも所でも、苦しむ者、悩む者を顧みてください。愛の主よ、癒しと平安をお与えください。

 第一テサロニケ5:14-15「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。

 アイオナ共同体は、1938年より始められたスコットランドにあるエキュメニカルな共同体。社会と積極的に関わり、失業者たち、青少年や女性の問題、エイズなど、現代社会の様々な課題と取り組んでいる。同時に礼拝を大切にし、新しい祈りや賛美を模索し続けている。

逃げまわるパウロ

2011-03-14 12:17:05 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年3月13日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「逃げまわるパウロ」 使徒言行録17章10-15節      
 
 16章から17章、18章と読んでいくと「一難去ってまた一難」という言葉が頭に浮かんでくる。パウロたちは、フィリピで投獄、釈放、テサロニケではユダヤ人たちによる騒動、つかまりそうになる。ベレアに逃げる。テサロニケのユダヤ人が来てまた騒動。またまたアテネまで逃げる。落ち着いて伝道なんかできない。また、ここは条件がいいとか、恵まれているとか、そんなことを考えてやってきたわけではない。ただ、逃げ回っていただけのように見える。

 10節に「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをべレアへ送り出した」とある。「夜のうちに」、まさに闇の時。パウロたちはベレアへ逃げた。しかし、そこでは、はるかに善良な人々がいた。それで伝道は、ただちに進展した。神は、苦難の後に、もっと豊かなところへパウロたちを導いたのである。第一コリント10:13「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とある。
 
 しかし、またテサロニケのユダヤ人がやってきた。決して平穏無事ばかりを願うことはできない。何とせわしないことだろう。こうしてパウロたちは、逃げまわらなければならなくなった。そんな中にあっても、パウロたちは伝道をした。パウロの説教は、ほとんどすべてが聖書からの引用であった。パウロはベレアの人々が聖書を探求していくように仕向けた。パウロはベレアの人々に、イエスの御業について預言されている箇所を調べるようにさせた。それはイザヤ書53章であったと思われる。そこには苦難の僕について書かれている。

 もう一つ、パウロたちは逃げまわっているように見えるが、考えてみるに、パウロたちは難を逃れていくが、決して逃げてはいない。むしろ、パウロの勇気が際立って見えてくる。パウロはフィリピで牢獄に入れられていた。さらに命からがらに、闇に乗じて、テサロニケを脱出した。そして、ベレアでもまた、危機一髪で逃げねばならなかった。たいていの人なら、逮捕とか、死が身近に迫ってくるような苦難をいつまでも続けようとは思わないだろう。しかし、パウロは引き返すという考え、逃げ出すという考えは、一度も思い浮かばなかったようである。前へ前へ、前進のみという姿勢である。困難を困難と思わない、伝道スピリッツをここでみることができる。

 しかし、迫害のためにどこでも念入りにというわけにはいかなかったのも事実である。しかし、パウロの出来なかったことをしてくださるお方がおられるのである。つまり主の手が残りをしてくださったのである。逃げ回りながらだから、落ち着いて伝道できないし、十分な牧会はできなかっただろう。それでも、テサロニケやフィリピは後に立派な教会が形成されていった。それは、パウロの働きというより、主の働きによるとしか言いようがない。

 私たちも困難のある時、必ず神の助けも、聖霊の導きもいっそう豊かで、現実的であることを信じよう。そして結果は神に委ねていこう。大胆に決断し前へ進もう。結果は後でついて来る。いや、すでに約束されている。

探 す

2011-03-14 07:06:13 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年3月13日 探 す

 あなたの探し物は何ですか?探し物は見つかりましたか?えっ、ジグソーパズルのピースだって?あと一つで完成なのに、その一つがない?それは残念ですね。他人はそんなのんきなことを言っているが、当事者は必死で探し回る。机の下、畳のヘリ、カーペットをめくったりと、それこそ血眼で探すはめになる。これがよくあることらしく、パズルにはちゃんと「紛失ピースの探し方」などというテキストがついている。例えば、「ソファーのすき間、掃除機の中も確認しましょう」なんてことまで書いてある。

 そんな中でも極めつきが、「自分のズボンの裾の折り返しの中も要注意」という項目。なるほど、ありそうなことだ。自分が持っていれば、家中捜しても見つかるはずはない。探すことの一番の盲点は、自分自身にあるというわけだ。

 幸せの青い鳥の物語や鼻の上のメガネを持ち出すまでもなく、探しているものが実はすぐ身近にあることが、確かにある。探し物が、心の平安や幸福や希望、人生の意味といった精神的価値になると、なおさらそうかもしれない。

 禅の言葉に「騎牛覓牛」というのがある。牛に騎(の)って牛を覓(もと)む、と読む。文字通り、牛の背に乗っていながら、牛を求めて探し歩く滑稽な様子を表わしている。ここでいう牛とは、悟りを求める修行僧が手に入れたい仏性とか真理のこと。もうすでにあなたの手の内にありますよ、それに気づかなければ、たとえ世界中探しまわっても無駄ですよ、ということである。

 人間関係に疲れて悩んでいるとき、解決の道は自分自身にある。困難にあって立ち直れないとき、救いの鍵は自分自身の中にある。解決の道が相手にあると思っている人は相手を責め、他人の幸福をうらやむ人は、幸福を求めても与えてくれない世の中を恨む。自分の中を探せば、あれほど求めていたものが、すぐに見つかるというのに。御言葉はあなたの心のポケットに入っていませんか。 *この文章は晴佐久昌英著『星言葉』(女子パウロ会 1997)の46~47頁を要約して引用しました。

キリストにある自由と平安

2011-03-09 17:10:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年3月6日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「キリストにある自由と平安」 使徒言行録16章16-34節
 
 どんな伝道も困難なしには成長しない。ピリピの伝道も同じ。確かにピリピの伝道は、有利な点が多く、大変良い教会ができたが、しかし、それだからといって、何の苦しみも妨げもなしに、すべてが調子良く進んだわけではない。いや伝道に限らず、何事でも調子の良い時、必ずその正反対のことが起こるものである。
 
 今、女奴隷が占いの霊から解放され、そのために利益を得る望みのなくなった女奴隷の主人たちは、パウロたちをローマの高官に訴えた。片方で、悪い霊が解放されるが、また片方で、そのことで二人は捕らえられ、投獄されるはめになった。このように世の中の現実は、なかなかうまく行かない。

 しかし、パウロとシラスは、決して運命の虜にはならない。状況に振り回されない。なぜか?「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(第二テモテ2:9)とあるが、パウロたちはこの苦しみが福音のために起こったことであることを承知していた。生きる意味をしっかりとつかんでいた。「神の言葉はつながれていません」という、神への信頼、確信があった。真夜中に神に祈り、賛美を歌い続けたこのパウロとシラスの二人は、目に見える状況よりも、神の約束、神のみ言葉のほうが確かであるという信仰に生きていたのである。
 
 パウロは血にまみれ、足かせをはめられ、身動きもできず、身体は傷だらけ、まさに身を伸ばすことも、動くこともできないでいる。その時、主に祈り、神を賛美するのである。そしてこのことだけは、どんなに私たちがひどい境遇におかれても出来る、ただ一つのことなのである。そしてこのように神への賛美と祈りが苦悩のどん底で起こるとき、勝利が、私たちのもとに起こるのである。苦難の中の神への賛美と祈り、それは私たちに自由と平安を与える。
 
 パウロたちの、この必死の祈りに答えるように、その時、地震が起こった。地震はしばしば神の現臨のしるしである。地震とは、私たちが確実だと思っているものが、私を支えている大地が、ゆるぎだすことにほかならない。しかし、ここで起こっている真の奇跡は、地震でも、パウロの賛美でもない。列王記上19:11-12に次のような御言葉がある。「地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」とある。真の奇跡は「神の静かな細い御声」である。
 
 私たちも神に祈り、「神の静かな細い御声」を聞き、神の導きに従うなら、決して行く手にあるどんな妨げも恐れる必要はない。ここには何ら英雄主義はない。自分の力を全く持たない、ただ体の苦痛のためにうめき、痛み嘆きを覚えるに過ぎない一人の人間がいるだけである。だがしかし、その人は主イエス・キリストから慰めと勇気を頂くのである。詩編84:6-7「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。/嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」。
 
 パウロは何一つ出来ない人、全く何もできず、この世に対しても、自分に対しても死んだ人、それゆえに、今、主は、彼らの中に力強く働き、彼ら自身負うことのできないものを、主ご自身が彼らのために負いたもうのである。それが十字架の出来事である。主にゆだね、主に期待して歩もう。

タラの芽促成栽培生育観察①

2011-03-08 09:36:34 | サポーティングハウスひだまり
ひだまり農園はサポーティングハウス「ひだまり」が運営しています。ひだまり農園では化学合成農薬は使いません。自然の循環を大事にした農法で野菜などを育てています。
その「ひだまり農園」から分けていただいた「タラの芽」です。
これにビニール袋などで覆って育てます。暖かいところに置くと、40~50日で芽が出るそうです。今から楽しみです。楽しみながら育てていきます。生育観察の写真を順次載せます。お楽しみに。

人生の意味の発見

2011-03-07 06:41:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年3月6日 人生の意味の発見

 「人生に意味なんかあるのか」と、ある人は言います。しかし、有名な『夜と霧』を書いたビクトル・フランクルは「人は意味なくして生きることはできない」と言います。皆さんはどう思われますか。「そんなこと考えたこともない」でしょうか、はたまた「難しくてわかんない」でしょうか。

 フランクルは、人は生きるために意味を求めると言います。なにをするにも意味なくしては空しい気持ちが付きまといます。しかし彼は、自分の方から置かれた状況に向かって、いったいどのような意味があるのかと問いかけても、意味を発見することはないと言います。意味を発見するには、状況そのものが問いかけてくる声に耳を傾けなくてはならないと言うのです。状況そのものが主人公であって、その状態が語りかける声にじっと耳を傾けるのです。そうすると、そこを生き抜くための意味が見えるのです。

 しかし、私たちは一喜一憂という言葉があるように、ともすると「状況(出来事)」に舞い上がったり、落ち込んだりして、状況に振り回されてしまいやすいものです。どうすればいいのでしょうか。

 聖書に「軛(くびき)を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい」(哀歌3:28)とあります。辛い思いを抱え込むようなとき、あえてその辛さの中に黙って身を置き、軛(くびき)そのものが語る声に聞けと勧めています。私は、それは神の沈黙を聴くことと同じで難しいことだけれど、聞く意義はあると思います。

 そして、もし問題を抱えて辛い思いをするなら、その時こそ、新しい意味があることを発見していただきたい。そこから生きる勇気が出てくるに違いありません。

*ビクトル・フランクル(1905~1998)オーストリアの精神科医。ユダヤ人強制収容所での過酷な体験をもとに『夜と霧』を書き、そのなかで人は意味への意志を持つことを主張。
(この文章は賀来周一『気持ち整理&生き方発見』(キリスト教視聴覚センター発行 2004)の23~24頁「どのような経験にも意味がある」を参考にしました)