平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

キリストにある自由と平安

2011-03-09 17:10:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年3月6日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「キリストにある自由と平安」 使徒言行録16章16-34節
 
 どんな伝道も困難なしには成長しない。ピリピの伝道も同じ。確かにピリピの伝道は、有利な点が多く、大変良い教会ができたが、しかし、それだからといって、何の苦しみも妨げもなしに、すべてが調子良く進んだわけではない。いや伝道に限らず、何事でも調子の良い時、必ずその正反対のことが起こるものである。
 
 今、女奴隷が占いの霊から解放され、そのために利益を得る望みのなくなった女奴隷の主人たちは、パウロたちをローマの高官に訴えた。片方で、悪い霊が解放されるが、また片方で、そのことで二人は捕らえられ、投獄されるはめになった。このように世の中の現実は、なかなかうまく行かない。

 しかし、パウロとシラスは、決して運命の虜にはならない。状況に振り回されない。なぜか?「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(第二テモテ2:9)とあるが、パウロたちはこの苦しみが福音のために起こったことであることを承知していた。生きる意味をしっかりとつかんでいた。「神の言葉はつながれていません」という、神への信頼、確信があった。真夜中に神に祈り、賛美を歌い続けたこのパウロとシラスの二人は、目に見える状況よりも、神の約束、神のみ言葉のほうが確かであるという信仰に生きていたのである。
 
 パウロは血にまみれ、足かせをはめられ、身動きもできず、身体は傷だらけ、まさに身を伸ばすことも、動くこともできないでいる。その時、主に祈り、神を賛美するのである。そしてこのことだけは、どんなに私たちがひどい境遇におかれても出来る、ただ一つのことなのである。そしてこのように神への賛美と祈りが苦悩のどん底で起こるとき、勝利が、私たちのもとに起こるのである。苦難の中の神への賛美と祈り、それは私たちに自由と平安を与える。
 
 パウロたちの、この必死の祈りに答えるように、その時、地震が起こった。地震はしばしば神の現臨のしるしである。地震とは、私たちが確実だと思っているものが、私を支えている大地が、ゆるぎだすことにほかならない。しかし、ここで起こっている真の奇跡は、地震でも、パウロの賛美でもない。列王記上19:11-12に次のような御言葉がある。「地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」とある。真の奇跡は「神の静かな細い御声」である。
 
 私たちも神に祈り、「神の静かな細い御声」を聞き、神の導きに従うなら、決して行く手にあるどんな妨げも恐れる必要はない。ここには何ら英雄主義はない。自分の力を全く持たない、ただ体の苦痛のためにうめき、痛み嘆きを覚えるに過ぎない一人の人間がいるだけである。だがしかし、その人は主イエス・キリストから慰めと勇気を頂くのである。詩編84:6-7「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。/嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」。
 
 パウロは何一つ出来ない人、全く何もできず、この世に対しても、自分に対しても死んだ人、それゆえに、今、主は、彼らの中に力強く働き、彼ら自身負うことのできないものを、主ご自身が彼らのために負いたもうのである。それが十字架の出来事である。主にゆだね、主に期待して歩もう。