平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

聞く信仰に立つ

2011-03-24 11:32:36 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年3月20日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「聞く信仰に立つ」 第二コリント12章1-10節      

 パウロは、自分の霊的体験については、どの書簡でもほとんど語らない。ここでも「主が見せてくださった事と啓示して下さった事について語りましょう」(1節)と言いながら、ほとんど何も語らない。「神の国を見てきた」とか「神の国はこんなところだ」と、教えてくれない。それはなぜか。
 
 その理由は、第一に、信仰とは、奇跡や幻や幽体離脱や忘我ではなく、「キリストとの出会い」だからである。パウロはキリストとの出会いを「第三の天」とか「楽園」と言っている。第二の理由は、パウロのこの体験が、「言い表しえない言葉」(4節)だからである。使徒言行録9章のパウロの回心体験でも、「天国を見てきた」と言わず、「光が見えて、サウロよ、なぜ私を迫害するのかという声が聞こえた」と言っている。パウロは天国を見てきたのではなく、聞いてきたのである。
 
 ユダヤ人は神の言葉を大事にした。自分の体験や見たことではなく、神の言葉、預言者の言葉に耳を傾け、それを受け継ぎ、宣べ伝えることが、彼らの使命であった。つまり、ユダヤ教から派生したキリスト教の神は、見えるものでも知識でもなく、聞いて信じるものなのである。神の言葉を聞く信仰なのである。あくまで語るのは神であり、私たちはただ聞くだけである。パウロは、回心体験や霊的体験において、「神を見た」のではなく、4節にあるように「言い表しえない言葉」を聞いたのである。
 
 では、神から御言葉をいただくためには、どうしたらよいのか。答えは祈りである。神の声に耳を傾けながら、パウロは三度同じことを祈ったとある。すると、願いは叶わなかったけれど、キリストから9節の御言葉をいただいた。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。すでに恵みは十分にいただいている。それゆえ、今ある試練は、神の力が実現するためなのだと。自分の現状、弱さ・愚かさを否定せずに、まず受け入れることこそ、神を信じることの初めなのだと、パウロは気づいたのである。

 パウロは謙虚である。7節「思い上がらないように」と2回繰り返している。パウロは「自分を誇らない」と言う。パウロの謙虚は「積極的な謙虚」である。何もしなくなるのではなく、神の愛や導きが自分の体を通して現れるように、積極的に行動するのである。「キリストの力が私の内に宿る」(9節)と言っている。だから、パウロは、霊的な体験や不思議な幻を語って、人々を惑わすことはしない。自分にいただいた神の言葉を、自分の体をもって味わう。この肉体も信仰にとっては大切なものなのである。なぜなら、そこに神の導きが現れるからである。

 神の導きが自分に現れる方法が、9節後半「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」である。自分を自慢するのではなく、自分の弱さを通して現れる神の愛を自慢することである。