平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

逃げまわるパウロ

2011-03-14 12:17:05 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年3月13日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「逃げまわるパウロ」 使徒言行録17章10-15節      
 
 16章から17章、18章と読んでいくと「一難去ってまた一難」という言葉が頭に浮かんでくる。パウロたちは、フィリピで投獄、釈放、テサロニケではユダヤ人たちによる騒動、つかまりそうになる。ベレアに逃げる。テサロニケのユダヤ人が来てまた騒動。またまたアテネまで逃げる。落ち着いて伝道なんかできない。また、ここは条件がいいとか、恵まれているとか、そんなことを考えてやってきたわけではない。ただ、逃げ回っていただけのように見える。

 10節に「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをべレアへ送り出した」とある。「夜のうちに」、まさに闇の時。パウロたちはベレアへ逃げた。しかし、そこでは、はるかに善良な人々がいた。それで伝道は、ただちに進展した。神は、苦難の後に、もっと豊かなところへパウロたちを導いたのである。第一コリント10:13「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とある。
 
 しかし、またテサロニケのユダヤ人がやってきた。決して平穏無事ばかりを願うことはできない。何とせわしないことだろう。こうしてパウロたちは、逃げまわらなければならなくなった。そんな中にあっても、パウロたちは伝道をした。パウロの説教は、ほとんどすべてが聖書からの引用であった。パウロはベレアの人々が聖書を探求していくように仕向けた。パウロはベレアの人々に、イエスの御業について預言されている箇所を調べるようにさせた。それはイザヤ書53章であったと思われる。そこには苦難の僕について書かれている。

 もう一つ、パウロたちは逃げまわっているように見えるが、考えてみるに、パウロたちは難を逃れていくが、決して逃げてはいない。むしろ、パウロの勇気が際立って見えてくる。パウロはフィリピで牢獄に入れられていた。さらに命からがらに、闇に乗じて、テサロニケを脱出した。そして、ベレアでもまた、危機一髪で逃げねばならなかった。たいていの人なら、逮捕とか、死が身近に迫ってくるような苦難をいつまでも続けようとは思わないだろう。しかし、パウロは引き返すという考え、逃げ出すという考えは、一度も思い浮かばなかったようである。前へ前へ、前進のみという姿勢である。困難を困難と思わない、伝道スピリッツをここでみることができる。

 しかし、迫害のためにどこでも念入りにというわけにはいかなかったのも事実である。しかし、パウロの出来なかったことをしてくださるお方がおられるのである。つまり主の手が残りをしてくださったのである。逃げ回りながらだから、落ち着いて伝道できないし、十分な牧会はできなかっただろう。それでも、テサロニケやフィリピは後に立派な教会が形成されていった。それは、パウロの働きというより、主の働きによるとしか言いようがない。

 私たちも困難のある時、必ず神の助けも、聖霊の導きもいっそう豊かで、現実的であることを信じよう。そして結果は神に委ねていこう。大胆に決断し前へ進もう。結果は後でついて来る。いや、すでに約束されている。

探 す

2011-03-14 07:06:13 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年3月13日 探 す

 あなたの探し物は何ですか?探し物は見つかりましたか?えっ、ジグソーパズルのピースだって?あと一つで完成なのに、その一つがない?それは残念ですね。他人はそんなのんきなことを言っているが、当事者は必死で探し回る。机の下、畳のヘリ、カーペットをめくったりと、それこそ血眼で探すはめになる。これがよくあることらしく、パズルにはちゃんと「紛失ピースの探し方」などというテキストがついている。例えば、「ソファーのすき間、掃除機の中も確認しましょう」なんてことまで書いてある。

 そんな中でも極めつきが、「自分のズボンの裾の折り返しの中も要注意」という項目。なるほど、ありそうなことだ。自分が持っていれば、家中捜しても見つかるはずはない。探すことの一番の盲点は、自分自身にあるというわけだ。

 幸せの青い鳥の物語や鼻の上のメガネを持ち出すまでもなく、探しているものが実はすぐ身近にあることが、確かにある。探し物が、心の平安や幸福や希望、人生の意味といった精神的価値になると、なおさらそうかもしれない。

 禅の言葉に「騎牛覓牛」というのがある。牛に騎(の)って牛を覓(もと)む、と読む。文字通り、牛の背に乗っていながら、牛を求めて探し歩く滑稽な様子を表わしている。ここでいう牛とは、悟りを求める修行僧が手に入れたい仏性とか真理のこと。もうすでにあなたの手の内にありますよ、それに気づかなければ、たとえ世界中探しまわっても無駄ですよ、ということである。

 人間関係に疲れて悩んでいるとき、解決の道は自分自身にある。困難にあって立ち直れないとき、救いの鍵は自分自身の中にある。解決の道が相手にあると思っている人は相手を責め、他人の幸福をうらやむ人は、幸福を求めても与えてくれない世の中を恨む。自分の中を探せば、あれほど求めていたものが、すぐに見つかるというのに。御言葉はあなたの心のポケットに入っていませんか。 *この文章は晴佐久昌英著『星言葉』(女子パウロ会 1997)の46~47頁を要約して引用しました。