(先週の説教要旨) 2011年3月13日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「逃げまわるパウロ」 使徒言行録17章10-15節
16章から17章、18章と読んでいくと「一難去ってまた一難」という言葉が頭に浮かんでくる。パウロたちは、フィリピで投獄、釈放、テサロニケではユダヤ人たちによる騒動、つかまりそうになる。ベレアに逃げる。テサロニケのユダヤ人が来てまた騒動。またまたアテネまで逃げる。落ち着いて伝道なんかできない。また、ここは条件がいいとか、恵まれているとか、そんなことを考えてやってきたわけではない。ただ、逃げ回っていただけのように見える。
10節に「兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをべレアへ送り出した」とある。「夜のうちに」、まさに闇の時。パウロたちはベレアへ逃げた。しかし、そこでは、はるかに善良な人々がいた。それで伝道は、ただちに進展した。神は、苦難の後に、もっと豊かなところへパウロたちを導いたのである。第一コリント10:13「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とある。
しかし、またテサロニケのユダヤ人がやってきた。決して平穏無事ばかりを願うことはできない。何とせわしないことだろう。こうしてパウロたちは、逃げまわらなければならなくなった。そんな中にあっても、パウロたちは伝道をした。パウロの説教は、ほとんどすべてが聖書からの引用であった。パウロはベレアの人々が聖書を探求していくように仕向けた。パウロはベレアの人々に、イエスの御業について預言されている箇所を調べるようにさせた。それはイザヤ書53章であったと思われる。そこには苦難の僕について書かれている。
もう一つ、パウロたちは逃げまわっているように見えるが、考えてみるに、パウロたちは難を逃れていくが、決して逃げてはいない。むしろ、パウロの勇気が際立って見えてくる。パウロはフィリピで牢獄に入れられていた。さらに命からがらに、闇に乗じて、テサロニケを脱出した。そして、ベレアでもまた、危機一髪で逃げねばならなかった。たいていの人なら、逮捕とか、死が身近に迫ってくるような苦難をいつまでも続けようとは思わないだろう。しかし、パウロは引き返すという考え、逃げ出すという考えは、一度も思い浮かばなかったようである。前へ前へ、前進のみという姿勢である。困難を困難と思わない、伝道スピリッツをここでみることができる。
しかし、迫害のためにどこでも念入りにというわけにはいかなかったのも事実である。しかし、パウロの出来なかったことをしてくださるお方がおられるのである。つまり主の手が残りをしてくださったのである。逃げ回りながらだから、落ち着いて伝道できないし、十分な牧会はできなかっただろう。それでも、テサロニケやフィリピは後に立派な教会が形成されていった。それは、パウロの働きというより、主の働きによるとしか言いようがない。
私たちも困難のある時、必ず神の助けも、聖霊の導きもいっそう豊かで、現実的であることを信じよう。そして結果は神に委ねていこう。大胆に決断し前へ進もう。結果は後でついて来る。いや、すでに約束されている。