絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 15

2013-04-28 | 思い出
高校一年の思い出の一つに、将棋があります。

部活としても将棋部があったのですが、もちろん私はバスケット部ですから入れません。
しかし、休み時間になると将棋を指している人がいました。
たった、10分の休み時間に一局指してしまうのです。
それは、すごい早指しでした。

最初は、私も見ているだけでしたが、横から笑っていると、そんな馬鹿にしたように笑っていないで、お前やってみろと言われました。
よした方がいいよ、私は強いよと言ってやりました。
バスケット部のお前なんかに負けないよと言っていたのは、将棋部のS君でした。
しかし、やってみたら私の方が強かったです。

実は、私は中学時代、同級生にものすごく強い友達がいて、そいつにコテンパンにやっつけられました。
私は悔しくて、その友達の家に通いました。日曜ごとでしたが、行くと必ず3局はやりました。
しかし、何回やっても勝てません。私は負けず嫌いでしたから、バスケットの経験でもお話しした通り、同級生を相手にしていませんでした。
何をやっても負けるなどということはなかったのです。しかし、この将棋の経験は衝撃的でした。

結局、16連敗します。しかし、めげずによく通ったものです。中学3年の後半は、この将棋に明け暮れました。
というのは、熊谷高校へは行かないと決めてからは、勉強しなくも大丈夫などと、なめてかかりました。
それで勉強より将棋だったのです。

16連敗と書いたのは、その後、1回勝ったからです。
それは、相手が負けてくれました。
その友達は、無二の親友になるのですが、私が棒銀で攻めていったら、角と交換してくれたのです。
普通は、そんなことをしないのが、セオリーです。悪くても銀と銀を交換するのです。
しかし、彼は、言い訳をしませんでした。勝った時はすべての手が良い手に見えるからなあと言いました。
自分は、それでよいと思って指したのだけれど、結果が負けだったというだけだと。

かっこいいですね。男ですね。
わざと、ハンデを与えたんだとは、言いません。
すごいやつだと思いました。

その後も、また15連敗位するのですが、私もただ負けていた訳ではありません。
NHKの将棋講座を見たり、本屋へ行って、将棋世界という本を買ってきて読んだりして、研究をしました。
そして、負けは負けでも、かなり僅差になって行ったのです。
受験間際の一週間は、一応将棋を休もうと言って、その友達の家に行きましたが、将棋を指しませんでした。

しかし、そのお蔭で、私は将棋がかなり強くなりました。
おそらく初段くらいの力はあったと思います。

だから、友達の将棋を笑って見ていたのは、あながち冷やかしではなかったのです。

ーーーーーーーーー
私は、高校一年のこの時期、学校の中では、おそらく強い方の何人かの中にいたと思います。
自慢できる思い出は、将棋部の部長さんに勝ってしまったことです。
その部長さんは、指してみて驚いて、もう一局お願いしますと言いました。
そして、もう一度指したら、今度は私が負けました。
一勝一敗で、別れましたが、決着をつけないまま、その後やりませんでした。

私はクラスでは、馬鹿を演じていましたが、私が馬鹿じゃないと思われる材料がこんなところにもありました。

将棋部のS君は、後日談があります。
実は、大学が一緒でした。そして彼は大学でも将棋部に入るのです。
生協祭りというのがあって、そこで将棋大会が開かれていました。
その大会は、3人一組で戦う形式です。二勝した方が勝ちとなります。
そのS君は、チームメイトと決勝まで勝ち上がりました。
決勝の相手は、同じ将棋部のチームでした。

それは、そうですね。他の人がチームを組んでも、大学の将棋部には勝てません。
その時です。S君が私を見つけると、「菅野、代わってくれ」と言いました。
その相手というのは、毎日のように将棋部で戦っている人なのですが、勝ったことがないのだそうです。
とても自分には勝てないから、代わりに指してくれと私に頼んだのです。

「そんな正式な大会の決勝に代わりに出たりしていいの?」と私は聞きました。
そうしたら構わないというのです。どちらが勝っても身内なので、いいというのです。
それで、「じゃあ負けても知らないよ」と言いながら、やりました。

そして、指していたら、私の両脇が早く終わって、一勝一敗でした。
ということは、私が勝つか負けるかで、優勝か準優勝かが決まるのです。
参ったなあと思いました。しかし、やるしかありません。
そして、最後は私が勝ちました。
すると、S君は、「やったー、さすが菅野」と言いながら、優勝の商品である一升瓶を持って、どこかへ行ってしまいました。
私は、お酒が飲めないので、それは構わないのですが、終わってから相手の人たちと感想戦をやりました。
見ていた人が言いました。「最初から手つきを見て強いと思ったよ」と。
「銀を上げるとき、金にぶつけて滑らすように指したでしょ、その時に、もうこれはただ者じゃないと感じた」と言われました。

さすが将棋部ですね。そんなところで、強さがわかるなんて。

そのS君は、もうこの世にいません。児玉郡の中学の教員になりましたが、病気で死んでしまいました。
私は、告別式に行きましたが、大学の友達は来ていませんでした。

そのS君が、高校1年からの将棋の友達なのです。

高校二年生になったとき、私は同級生で将棋が強いと思われる11人を選び出し、リーグ戦を行いました。
そして、私は全勝して、優勝しました。その時は、私の将棋の先生ともいうべき、A君にも勝ちました。
だから、私は高校二年の時は、学年で一番強かった時期があるということです。

これも、後日談になりますが、私はもうA君にも負ける気がしなくなりました。
なぜなら、私は将棋連盟から3段の力があると認められたのです。
免状は取りませんでしたが、認定されました。
だから、もう負けないと思いました。

それで、A君に、「もう負けないよ」と言いました。
そして、指してみました。そうしたら、また負かされました。
私は、A君は一体何段の力があるのだろうと、思いました。
もう負けないよと言ったのは、わざとです。なぜなら、そういえば、彼が本気を出すだろうと思ったからです。
高校二年生の時は勝ちました。その後も勝ったり負けたりを繰り返すくらいになりました。
だから、もう力は五分五分と思っていました。そして、その後、私は3段を取ったので、もう負けないと思ったのです。
しかし、さにあらずでした。

将棋の思い出は、まだまだ他にもありますが、それはまたその時。

つづく
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