私が高校に入学したのは、昭和45年です。
私の頃は、児玉中学の成績トップは、埼玉県なら熊谷高校、群馬県なら高崎高校に行くのが一般的でした。
埼玉県の県北の一番は、熊谷高校だったからです。
しかし、私の学年はだれも熊谷高校にはいきませんでした。
高崎高校には、二人行きましたが、それ以外はみんな本庄高校に行ったのです。
私もその一人でした。
本庄高校は、熊谷高校に行かない(もしくは、行けない)生徒が二番目に選ぶ学校でした。
だから、二番手ではあるけれど、成績上位の子が行くということで、ある程度はプライドが持てる学校でした。
私も担任の先生から、熊谷高校に行かないのか?と一度は言われましたが、
そこまで優秀ではないと自覚していましたので、無理ですと言ったと思います。
私は、時にはクラスでトップのこともあり、学年でも4番になったことがありましたが、会場テストで、とんでもない悪い点を取ったことがあり、会場テストは実際の受験に近いと聞いていたのでやめたのです。
私は、バスケットの思い出で書いたように、キャプテンをしていましたし、顧問の先生がバスケットの素人だったので、練習計画まで考えて、仲間の指導までしていましたから、勉強よりそちらの方に力を注いでいました。
部活と勉強の両立をしていたわけですが、勉強においてはバスケットほど夢中になれませんでした。
本庄高校には、児玉中学から25人が行きました。しかし、この25人が成績上位25番目までかと問われるとそうでもないのです。なぜなら、成績が良くても児玉高校に行った生徒もいたからです。
だから、そういう数名を除くと、大体上位30名くらいが本庄高校に行ったのかなと思います。
自分の成績について、触れていますが、私は割と真面目な生徒だったと思います。
受験だからと言って、がり勉にはならず、何でもよくやりました。
主要五教科と言われた科目だけでなく、音楽、美術、体育、技術なども全て5をもらいました。
だから、受験のためだけの絞った勉強をしなかったのです。
我々の頃は、今と違って、相対評価ですから、全ての科目で5を取るのは結構大変でした。
一度、オール5を取り損ねたことがあります。
社会だけ4でした。
テストの採点が間違っていて、間違っているのに、丸がついていたのです。
私は、自分から申し出ました。「先生採点が違っています」と。すると、それは先生の間違いだからいいよと言ってくれました。
しかし、私は、それでは正確な順位にならないということにこだわり、正しい点数にしてくださいと生意気にも言ってしまいました。先生は、そうかと言いながらしかたなく直したようでした。
もし、その時の一問で、順位が逆転していたら、私はオール5という成績が実現できたのかなと後で思いました。
たった1問で逆転にはならないかもしれませんが、その可能性はあったかもしれないのです。
この私の馬鹿正直は、後の人生でもときどき出てきます。
教員試験で、健康診断のときに、病気をしたことがありますかと問われて、正直に答えたところ、採用がなしになりました。
児玉郡の先生から、「あいつは馬鹿正直だから」と言われたそうです。「黙っていれば教員になれたのになあ」と。
もし、黙っていても、いずれはばれることですから、嘘をつくのが嫌だったのです。
しかし、嘘をついていたら教員になれたのでしょうか。そうしたら、いまの本庄第一の美術部はなかったのですね。
通知表の成績でいけば、どこの高校でも合格できそうな学力でしたが、北辰テストという模擬試験では、そうはいきませんでした。
特に、範囲がなくなった時点では、私はだめでした。範囲が決められている場合はそこだけ必死に勉強すればなんとかなるのですが、範囲がないと私はすぐに忘れるタイプなのです。記憶力が鈍いのかなと思います。
それでも400人以上の学年で何とか10番前後にいたのですが、熊谷高校に行くには、5番以内にいないとダメかなと思っていました。だから、無理ですという発言になったのです。
私は、この中学の体験が、その後の人生に影響していきます。
一番になってやろうという気持ちがまだないのです。
バスケットで一番になれなかった。県で優勝できなかった。県北でも優勝できなかった。
学業でも、熊谷高校にいけるほどにならなかった。
だから、東大を受けようとはならず、芸大を受けようともならなかった。
自分は、一番ではないと思い、二番手か三番手を選ぶ人生を始めるのです。
きれいに言えば、身の程をわきまえた選び方というのでしょうか。
自分には無理だなと早めに結論を出すのです。
それが、違ってくるのはいつからでしょう。
どうせやるなら一番になってやるという熱い思いです。
つづく
私の頃は、児玉中学の成績トップは、埼玉県なら熊谷高校、群馬県なら高崎高校に行くのが一般的でした。
埼玉県の県北の一番は、熊谷高校だったからです。
しかし、私の学年はだれも熊谷高校にはいきませんでした。
高崎高校には、二人行きましたが、それ以外はみんな本庄高校に行ったのです。
私もその一人でした。
本庄高校は、熊谷高校に行かない(もしくは、行けない)生徒が二番目に選ぶ学校でした。
だから、二番手ではあるけれど、成績上位の子が行くということで、ある程度はプライドが持てる学校でした。
私も担任の先生から、熊谷高校に行かないのか?と一度は言われましたが、
そこまで優秀ではないと自覚していましたので、無理ですと言ったと思います。
私は、時にはクラスでトップのこともあり、学年でも4番になったことがありましたが、会場テストで、とんでもない悪い点を取ったことがあり、会場テストは実際の受験に近いと聞いていたのでやめたのです。
私は、バスケットの思い出で書いたように、キャプテンをしていましたし、顧問の先生がバスケットの素人だったので、練習計画まで考えて、仲間の指導までしていましたから、勉強よりそちらの方に力を注いでいました。
部活と勉強の両立をしていたわけですが、勉強においてはバスケットほど夢中になれませんでした。
本庄高校には、児玉中学から25人が行きました。しかし、この25人が成績上位25番目までかと問われるとそうでもないのです。なぜなら、成績が良くても児玉高校に行った生徒もいたからです。
だから、そういう数名を除くと、大体上位30名くらいが本庄高校に行ったのかなと思います。
自分の成績について、触れていますが、私は割と真面目な生徒だったと思います。
受験だからと言って、がり勉にはならず、何でもよくやりました。
主要五教科と言われた科目だけでなく、音楽、美術、体育、技術なども全て5をもらいました。
だから、受験のためだけの絞った勉強をしなかったのです。
我々の頃は、今と違って、相対評価ですから、全ての科目で5を取るのは結構大変でした。
一度、オール5を取り損ねたことがあります。
社会だけ4でした。
テストの採点が間違っていて、間違っているのに、丸がついていたのです。
私は、自分から申し出ました。「先生採点が違っています」と。すると、それは先生の間違いだからいいよと言ってくれました。
しかし、私は、それでは正確な順位にならないということにこだわり、正しい点数にしてくださいと生意気にも言ってしまいました。先生は、そうかと言いながらしかたなく直したようでした。
もし、その時の一問で、順位が逆転していたら、私はオール5という成績が実現できたのかなと後で思いました。
たった1問で逆転にはならないかもしれませんが、その可能性はあったかもしれないのです。
この私の馬鹿正直は、後の人生でもときどき出てきます。
教員試験で、健康診断のときに、病気をしたことがありますかと問われて、正直に答えたところ、採用がなしになりました。
児玉郡の先生から、「あいつは馬鹿正直だから」と言われたそうです。「黙っていれば教員になれたのになあ」と。
もし、黙っていても、いずれはばれることですから、嘘をつくのが嫌だったのです。
しかし、嘘をついていたら教員になれたのでしょうか。そうしたら、いまの本庄第一の美術部はなかったのですね。
通知表の成績でいけば、どこの高校でも合格できそうな学力でしたが、北辰テストという模擬試験では、そうはいきませんでした。
特に、範囲がなくなった時点では、私はだめでした。範囲が決められている場合はそこだけ必死に勉強すればなんとかなるのですが、範囲がないと私はすぐに忘れるタイプなのです。記憶力が鈍いのかなと思います。
それでも400人以上の学年で何とか10番前後にいたのですが、熊谷高校に行くには、5番以内にいないとダメかなと思っていました。だから、無理ですという発言になったのです。
私は、この中学の体験が、その後の人生に影響していきます。
一番になってやろうという気持ちがまだないのです。
バスケットで一番になれなかった。県で優勝できなかった。県北でも優勝できなかった。
学業でも、熊谷高校にいけるほどにならなかった。
だから、東大を受けようとはならず、芸大を受けようともならなかった。
自分は、一番ではないと思い、二番手か三番手を選ぶ人生を始めるのです。
きれいに言えば、身の程をわきまえた選び方というのでしょうか。
自分には無理だなと早めに結論を出すのです。
それが、違ってくるのはいつからでしょう。
どうせやるなら一番になってやるという熱い思いです。
つづく