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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 9

2013-04-23 | 思い出
私は、児玉から本庄まで通学はバスでした。
友達は、天気が良い日は、自転車で通う子もいましたが、私はほとんどバスでした。

あるとき、私は定期券を忘れました。そして慌てていたら、古川先生が貸してくれたことがあります。
50円だったことを覚えています。当時のバス代がいくらだったかということは、忘れてしまうことですが、
そのことがあったために、記憶に残っています。児玉から本庄高校入口までが50円だったんですね。

そのことを、帰宅してから父に話すと、父がお金を返しに行きました。
すると、先生が「わざわざ返しに来なくもいいのに、あれはあげたんだから」と答えたそうです。

我が家は古川先生の家の隣です。私が中学二年生のときに、先生が引っ越してきました。
私は本庄高校の美術部の先輩たちからはうらやましがられます。
家が隣で、同じバスで通っていたということで。

だからその日は、私はたまたま先生と隣に座っていたのです。
そのことだけでも、うらやましいと思う先輩もいるでしょう。

通学の思い出で覚えているのは、よく周りの友達のカバンを持ってやりました。
私が乗るバス停が他の友達より手前なので、私はバスが混む前に乗れました。そのため座れるのです。
通学時間なので、毎日バスは混雑します。だから立っている人が多いので、私はその友達のカバンを持ってやりました。

バスには、本庄高校だけでなく、隣の女子高の子もいます。みんな同じ中学出身だから顔なじみです。
私は、その女子高の生徒たちのカバンも持ってやりました。だから毎日私の膝の上には、カバンが2つか3つ置かれました。
時には、それが首くらいまで積まれて、私は顎で抑えていたこともあります。
私がそうしていると、となりに座っている友達もそうせざるをえなくなって、付き合って同じように他の子のカバンを持ってやりました。

通学に関わる話題では、帰りのバスを待っているとき、待ち時間がちょっと長いときには、次のバス停まで歩くこともあります。
気晴らしと遊び半分です。そうしたら歩いている途中でバスが来てしまって、結局その次のバスになってしまったこともありました。そして、もっと面白いのは、そうやっているうちに、このまま歩いて帰ろうかなと思ったことでした。
本庄高校から児玉までは、約8キロです。二時間もあれば帰れるかなという感じです。
そうやって、四方田辺りまで来たとき、車が泊まりました。
2つ年上の先輩でした。「どうした?定期をわすれたか?」と言って、「乗せてくよ」と言ってくれました。
私は、歩いて帰る愉快さを味わっていたのですが、この状況は乗せてもらった方がいいかなと思って、歩くことを諦めました。

また、怖い経験もしました。
私がバス停で待っていると、友達のバイクが停まりました。
「乗せてくよ」と言うのです。
私はちょっと躊躇しましたが、乗せてもらいました。
その当時、ヘルメットのことはあまりうるさくなかったのか、私はヘルメットがありません。そのままでした。

初めは良かったのですが、スピードが増すにつれて、段々目から涙が出て、辛くなりました。
また、友達は、途中からビュンビュン飛ばします。
途中で、車を追い越しました。
私がスピードメーターを見たとき、100キロになっていました。
そのあと、前の車を抜いたので、120キロくらいまで出たのではないかと想像します。
なぜなら、私は目を開けていられなかったのです。

児玉について、ホッとしました。そして、もう絶対バイクには乗せてもらわないと心に誓いました。
だからこの経験は、それ以降何度でも人に話しました。絶対バイクに乗せてもらわないようにと。

私が担任した子で、バイクに乗せてもらって事故に合い、4か月意識不明だった子がいます。
幸い、命は助かり意識も回復しましたが、完全には戻らず学校をやめました。
あの子は、今どうなっているかなあと思います。

バスの思い出では、もっともっといろんなことがあります。
知らない人から、贈り物が届きました。バスでよく出会うのだそうです。
私の友達と会社の同僚で、私の住所を聞いたとのことでした。

隣の女子高生で、ちょっと素敵な子がいました。私が1年生でしたから、私より先輩ではないかという気がします。
その人は、児玉行きのバスに乗るのに、私が知らない人ですから、おそらく児玉駅からまた電車に乗るのかなと思います。
何度か会ううちに、会うのが楽しみになりました。しかし、何も言葉を交わさないうちに、姿を見なくなりました。
通学方法を変えたか、それとも学校をやめたのかなと想像しました。

車掌さんと顔なじみになると、定期を忘れたときでも、「いいよ」と言ってくれる人もいました。

こんなことが、思い出されました。
書いてみると、いろいろ思い出すものです。

つづく






















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高校時代の思い出 8

2013-04-22 | 思い出
私に対するI君の態度は、私がどういう人間であるかを知るにつれて、態度が一変したとお話ししました。そのI君は、元々非常に面倒見の良いバレー部の選手でした。後にキャプテンになります。

彼の経歴をお話しすると、元々本庄西中学でバレーをやっていたけれど、家の引っ越しで北泉中学に転校になったそうです。そこには、同級生のバレー部員がいなくて、しかたなく下級生と一緒にチームを組んで、試合に出場しました。その時は、元いた本庄西には勝てなかったけれど、本庄市の大会で準優勝まで持って行った。その後彼が引退した後、その二年生チームは県大会に行って、優勝したと聞きました。
そのチームを育てたのは、彼だったというのです。

彼は、とてもハンサムで女の子が憧れるような明るいさわやかな男でした。
ただ、やや人をからかうようなところがあり、N君に言わせると、悪の部分もあるのだと言っていました。まあ、いじめっ子のようなことでしょうか。

だから、私を甘く見て、からかったのでしょう。

しかし、彼はバレーの教え方はとてもうまかったです。彼と一緒にバレーをやると、自分もバレー部員のようにできる気がするのです。
だから、信じられないかもしれませんが、バレー部でもない私がクイックができたのです。
クイックのアタックを打つタイミングというのは、普通の体育の授業ではやりません。
やったとしても、できるようになるのは、かなりの運動神経が要ります。

そのお蔭だと思いますが、私は大学でバレーの授業をやった時、バレーの先生から「君はバレー部か?」と言われました。バレー部の経験者でなければできないプレーができたのです。

本庄高校の体育館は狭いので、バスケット部とバレー部が一緒に練習していますが、バレー部がアタック練習になったときは、バスケット部は休憩するのです。そういう譲り合いをしながら練習しました。だから、面白がってバスケット部の私がバレー部に混ざってアタックをやらせてもらったりしました。そのときに、クイックを教えてもらったのです。

彼を見ていると、呼吸を合わせて、「ほれ、ここで入ってこい」というようなタイミングを教えてくれるのです。なんだか、その気になって、できちゃうんです。

これは、とてもいい経験でした。
教師になってからも、そういうことなんだよなと思います。その先生といると、なんだかできちゃう気がする。それが大事なんです。生徒をその気にさせる。県展に入選するのが当たり前という気持ちにさせてしまうこと。それが大事なんです。

このI君は、運動神経抜群で、どんなスポーツでも万能でした。
その点は、私と似ています。しかし、いろいろ総合すると私より少し能力が高かったかなと思います。どういう推薦理由かわかりませんが、スポーツの推薦で早稲田大学へ現役で合格しました。その後、高校の体育の先生になり、バレー部顧問として、活躍しています。

つづく




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高校時代の思い出 7

2013-04-21 | 思い出
私が高校1年の年は、1970年です。
例の大阪万博の年でした。岡本太郎の太陽の塔が思い出されますね。
それと、三波春夫さんの「1970年のこんにちは」という歌。

なぜ、そんなことを覚えているかというと、宿命のライバルのNくんです。
私は、夏休みにN君の家のアルバイトをしました。

たった一週間ほどでしたが、いろいろなことがありました。
そこには、おじさんという人がいて、私とNくんはそのおじさんの指導で、
一緒に働きました。私がアルバイトをしたというより、Nくんがやるのをつきあったという感じでした。
そのときに、そのおじさんが、車で大阪まで行くというのです。
万国博覧会を見るために車で行くと言っていました。
私は、一緒に連れて行ってもらえるような気になって、行けたらみんなに自慢できていいなと思いました。
しかし、結局、そうではなかったらしく、私とは関係なく行ってきたようです。
Nくんが、後で、行ってきたと話していたように思います。

そのアルバイトというのは、水道屋の仕事です。ほとんどが穴掘りでした。
しっかり覚えているのは、Nくんの家の隣にある本屋の水洗トイレの浄化槽の穴でした。
これは、N君と二人で掘りましたが、人間の背の高さくらいの深さです。結構大変でした。

このアルバイトでは、後で思い出しても、ぞっとする体験があります。
穴掘りの機械のようなものがあり、そのおじさんがエンジンをかけようとしたとき、
私は、それに気づかず、機械を触ろうとしていました。おじさんが気が付いたので、良かったのですが、
もし、気が付かなければ、私の指は飛ばされているところでした。

思い出すと、ゾーッとします。
もし、あの時、指なり手なりを落としていたら、私の人生はどうなっていただろうかと思うのです。

その後のバスケット人生はもちろん、美術部に入って絵を描くこともなく、もちろん埼大の美術に進むこともなく、本庄第一の美術部はないのです。そうなると、昨日も学校へ行って話してきましたが、もし私がこうでなかったら、君たちは出会っていないよと話しました。

たった一つのことですが、私だけでなく、多くの人のその後の人生が違うのです。
300人以上の県展入選がないのです、その部員全てがこの本庄第一へ来ていないかもしれません。

そのおじさんという人は、とても親切な人で、年齢もわれわれとそれほどは離れていなかったのでしょう。
気さくにいろいろ教えてくれる人でした。
付き合っていくうちに、いろいろなことを話すようになり、私が将棋をやるということを知ると、おじさんも大好きなんだということで、仕事が終わってから指しました。
アルバイトが終わると、汗をかくので、私はお風呂に入らせてもらい、そのあとで、バスの時間までやりました。友達の家でお風呂に入らせてもらったという経験は初めてのことでした。

将棋もやりだすと、私が結構強いので、おじさんもどんどん本気になっていき、決着がつかないと、「バスの時間なんかいい、俺が家まで送っていくから」と、勝負かつくまでやりました。
そのときの勝敗は覚えていないのですが、私の方が強かったような気がします。
それで、もう1回、もう1回とやったような。

また、私が絵がうまいということをN君が知って、両親に話したのでしょう。お二人とも絵が好きで、私の絵がほしいということになりました。それで、10号の絵を二枚プレゼントしました。そうしたら5000円くらいいただいた記憶があります。もしかしたら、もっと多かったかなと思いますが、きちんと覚えていません。

その後、私は美術部に入ったり、美術の道を歩み始めますが、その後もずっと、私の絵に注目してくれて、今でも時々私の入っている麓原会の展覧会に来てくれます。Nくんとは、その後の人生でほとんど付き合いがないのですが、やはり両親と同じように絵を見てくれています。

これが高校1年の夏休みの頃のNくんとその家族との思い出です。









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高校時代の思い出 6

2013-04-20 | 思い出
私をいじめたIくんが後悔を始めるのは、その後、段々と私の存在が変わって行くにつれてのことです。

まず、私が脚光を浴びるのは、美術の授業からでしょうか?
絵を描かせると、誰よりもうまいのです。

まだ、私は美術部ではありません。しかし、自分が一番だと思っていました。
実は、私はバスケットをしながら、美大に行こうかなと思っていたくらいです。
絵は、だれよりも自信があったのです。

ただ、本庄高校ですから、いろいろな中学から優秀な生徒が来るので、自分より絵がうまいやつがいるかもしれないとは、思っていました。しかし、授業をしてみたら、いないのです。
後で、同じように感じていた友達がいました。そうしたら、その友達にとっての私がそうだったらしく、
やっぱり、自分よりうまいやつがいたと思ったそうです。

しかし、私はいませんでした。
そして、周りの反応は、「へええ、菅野絵がうまいじゃん。勉強はだめでも絵はうまいんだな」でした。
私を馬鹿にしたIくんも、何をやっても自分より下だろうと見下していたつもりが、絵じゃ適わないと、まず一つ私を見上げた初めでした。

次に脚光を浴びるのは、私のバスケット部での活躍です。
試合に出て活躍したことを、宿命のライバルであるOくんとNくんが、クラスのみんなに話すのです。
それを聞いたIくんは、段々と私を認め始めます。
女の子たちも、OくんやNくんが、菅野はすごいと言っているので、そうなのかと思い始めます。

先日、美術部の卒業生と話していたら、その子の小学校一年生の時の担任の先生が、「菅野君はかっこよかったんだよ」と言っていたと聞きました。聞いてみると、その先生というのは、私の高校1年の時のクラスメートでした。
教員になって、その子を担任しましたが、その子が本庄第一の美術部に入ったことを知り、私がその顧問だということを知ったため、その子に、私の高校時代のことを話したということでした。

私は、クラスの女の子から、かっこよかったと思われていたことを初めて知りました。

私は、時間とともに、馬鹿なふりをすることに疲れました。
そして、そのうち、段々と本当の自分を出し始めます。

化学の時間でした。
先生が何かを質問した時、誰も答えられない時がありました。
そのとき、私が後ろの索引を調べていたら、「そうだな、まずわからなかったら、後ろの索引を見てみるのも、一つの方法だな」と
いち早くそうしている私を示して、そう言いました。
その時、先生は「菅野を見習え」という感じで言ったのでした。

そのときからでしょうか。私はできないふりをして、みんなを笑わせるのも面白いけれど、誰もできない問題ができるというのも面白いなと思ったのです。だから、数学の時間などは、その快感を味わう喜びを感じ始めました。みんなは「あれっ」と意外な感じがしたでしょう。
菅野は数学だけはできるんかなと。

二学期になると、私ができる生徒であることを先生方が認め始めます。先生方の私に対する態度が、できる生徒に対するものなのです。何かで、質問するとき、先生が「菅野いいか?」と尋ねます。私が「はい」と答えると、「じゃあ次に行こう」という具合です。みんなは、なんで菅野に尋ねるのだろうと思ったかもしれません。
先生にしてみると、クラスのリーダーの確認をしながら授業を進めるようなつもりだったのかもしれません。先に行っていいかなと。

最初は、私を見下していたIくんも、そのうち、実は勉強でも適わないんだと知って、態度が一変します。私に一目置き始めるのです。私は、クラスのみんなからも一目置かれる存在になっていきました。その証拠に、後期のクラス委員に選ばれたのです。
その後、私はIくんと大の仲良しになり、二年生でも同じクラスで、いろいろな意味で良い友達になるのです。

つづく

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高校時代の思い出 5

2013-04-20 | 思い出
教室での私

私のクラスには、同じバスケット部の部員が二人いました。
その二人とは、本庄西中学出身のキャプテンと副キャプテンです。
なんという巡り合わせでしょう。この二人は、私のバスケットの宿命のライバルです。

巨人の星で言えば、花形満と左門豊作です。
私のブログのバスケットの思い出をお読みの方は、ご存じだと思いますが、私の児玉中学と本庄西中学は、県大会出場をかけて、
常に決勝戦で顔を合わせ、お互いにしのぎを削ったライバルでした。
勝敗は、二勝二敗。県大会の出場において、二勝一敗で我々が勝ったという結末でした。

この二人は、本庄市児玉郡のスター的存在で、常に周りから注目をあびる選手でした。
それは、プレーもさることながら、顔もいいし、とにかくかっこいいのです。
キャプテンのOくんは、シュートを決めるたびに、長めの前髪を中指と薬指の間に挟んで、かっこよく横に流すのです。
しかも、嬉しそうな笑顔でやるから、かわいいというか、いかしているというか、今でいうジャニーズのような輝きで、
拍手喝さいを浴びていました。

プレーにおいては、私もスーパースターのつもりでしたから、負けているつもりはないのですが、なにせこちらは坊主頭です、
かき上げようにも髪の毛がありません。だから、真似をすることもできず、チキショウと思っていました。

そして、一番うまいのが、副キャプテンのNくんですから、そのスーパースターの二人と私は高校で一緒にプレーすることになったのです。
この二人は、バスケットということを外しても女の子によくモテました

ーーーーーーーーーーーー
すこし、違う話をしますが、高校に入った私は、中学とは違うキャラクターを演じました。
それは、冗談をいう私です。実は、高校に入って私は少し解放された気分になりました。
実は、中学時代は父親が、校内にいたのです。教務主任として、職員室にどっかと座っていました。
ですから、私はあの菅野先生の子どもという目で、全員の先生から見られました。
これは、ちょっと辛いことです。
だから、私は常に親の監視のもとにいたのです。
親の手前もあり、馬鹿なことはできないなという感じです。

そのため、真面目を通しました。私が何かをやることで、父親に迷惑をかけたくないということもありました。
だからということもないですが、私は冗談一つ言わない生徒でした。

あるとき、一回だけ冗談を言ったら、みんなが驚きました。「おい、菅野が冗談を言ったぞ、雨が降るな」と。

高校に入って、私はやっと親の監視から逃れた気分でした。これで、馬鹿がやれるぞ!という感じです。
まず、やってみたのが、教室の全員をいかに笑わせるかです。
これは、気分がよかったです。

誰も、私がどんな人間かを知りません。そのため、新しいドラマに出る俳優さんと同じように、その場だけの演技も可能なのです。
もちろん、同じ児玉中学出身の生徒もいましたが、私を詳しく知る人はいませんでした。だからその子たちでさえ、私が冗談一つ言わないということを知らなかったのです。

それで、いろいろなチャレンジをしました。手始めは、面白いことを言うキャラクターです。
そして、次は頭が悪い人間のキャラクターでした。
先生から質問されても、わからないふりをするのです。実は、これは、中学時代の友達がやったことでした。
答えがわかっているのに、わかりませんと言って、みんなを笑わせました。
私はそれをやってみたかったのです。

それも、みんなを笑わせる一つの手段でもありました。
しかし、それは、飛んでもない事態を引き起こす原因にもなりました。

みんなが私を本当に馬鹿なんじゃないのと思ったことです。
そして、私を舐めてかかる人間が現れました。
それは下手をすると、いじめということにもつながりかねないものでした。

同じクラスに、バレー部のIくんという友達がいて、そいつが私を舐めてかかりました。
あるとき、「菅野、口を開けてみ」と私に言いました。それで、私が口を開けると、いきなり泥を投げ入れました。
私は驚いて、すぐに口から泥を吐きだしましたが、ふざけたことをする奴だなと思って、怒りました。

参ったなあ、俺を誰だと思っているんだ!と思いましたが、その時はふざけんなよで済ませました。
結果的には、後で、Iくんもそのことを後悔する時が来るのですが、それは本当の私を知った後の話です。


しかし、これは、私が常に、教室で馬鹿を演じているための結果なのかもしれない。
馬鹿なことばかり言ったりしていると、こういう舐めたこともされてしまうのかと反省したのです。

しかし、馬鹿だと思われていると、いいこともありました。それは誰とでも親しくなれることでした。
中学時代は、私は成績の優秀な生徒と思われ、ちょっと近寄り難い、極端なことを言えば、世界が違う人という目で見られたことがありました。

そのことがあったので、頭が悪いと思われていると、だれでも気軽に声をかけてくれる気がしたのです。案の定というかそのように感じたこともあります。

ただ、先生は笑っていました。英語の授業で、簡単な質問が私に回ってきたとき、私は例によって「わかりません」と言いました。すると、周りの生徒は、「おい、そんなんがわかんねん、馬鹿じゃねん」と。
「そんなんで、よく本庄高校に合格できたな」と。

その時は、中間テストの後でしたが、テストを配った日でした。私は38点でした。
それは、40点満点の38点です。そして、このクラスの最高得点でした。
先生が、最高得点は38点ですと言った後でした。

そして、私が指されたときは、とても簡単な問題でした。先生は私ができなわけがないことを知っていました。
しかし、私は自分のキャラクターを演じたのです。だから、先生は笑ったのです。
私がわざと馬鹿を演じていることを知ったのでした。

中間テストをする前は、私の「わかりません」は、本当にわからないのかと思っていたかもしれません。
しかし、先生は、それが演技だと知りました。

私はクラスで、馬鹿を演じながらも、実は成績トップを狙っていました。
バスケットをしながらでも、がり勉に勝ってやるという気持ちでした。
本庄高校では、同じくらいの成績の人間が集まっているはずだ。そうであるなら、自分が一番になってもおかしくない。

実は、周りに馬鹿だと思わせておいて、本当は成績1番ということに面白さを感じたのです。
(能ある鷹は爪を隠すということわざを間違って使いましたね。却って嫌味です。)

これは、受験生のブルースでした。

    友達に勉強してるかときかれたら、全然してないよと答えとき、
    相手に油断をさせといて、その間に俺は勉強する

    テストが終われば、自信なげに、全然あかんと答えとき、
    相手に優越感与えておいて、後でショックを与えるさ

この歌詞と同じようなことをしようとしていたのです。

しかし、結果的に、一学期はクラスで2番でした。

実現したのは、二学期で、学年末も1番を取り、一年生はクラスの1番で終わりました。

つづく

















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