goo blog サービス終了のお知らせ 

絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 4

2013-04-19 | 思い出
試合に勝った相手がどこだったのか、うろ覚えでは熊谷工業だったような気がしますが、違うかもしれません。
ただ、私は自分が試合に出ることは考えていなかったので、先輩たちには叱られそうですが、勝っても負けてもどっちでも良かったのです。だから、相手が強いのか弱いのかも知りませんでした。

中学時代の私は、キャプテンをしていました。
強いのは本庄西だけ、そこに勝てば県大会出場という構図ができていました。
他は相手になりません。大差をつけてそのあとは、サブメンバーでも戦える相手でした。
だから、相手のことがわかり、自分たちの力もどのくらいかがわかっていて、自分の責任もわかっていました。

しかし、高校になったら、気楽なものです。相手のことは全くわかりません。
先輩たちがやるんだからという感じでした。自分にプレッシャーもなにもなかったのです。
だからですね。ロングシュートを気楽に打ったのも、入って特に特別なことをしたつもりがなかったのもです。
もし、シュートを落としても、どうってことなかったからです。

ただ、雰囲気としては、先輩たちは勝つなどということは考えてなかったようです。
相手チームも、まさか負けるとは思わなかったのでしょう。だから、先輩たちは私の想像以上に喜んでいました。

ーーーーーーーーーーーーーー

私はこの日、熊谷の友達の家に泊まります。
だから、この試合は熊谷で行われたのだなと思います。
そのとき、一つだけ記憶に残っているのは、友達が見せてくれた手紙でした。
彼女からの手紙だそうです。引出しに20通くらいありました。

へええ、と思いました。私は手紙のやりとりは、小学生の時に、文通をやったことがありますが、すぐに飽きてしまい
何通も書かないで終わりました。だから、一人の人とそんなに何通も手紙の交換をするということは意外なことでした。

ラブレターということは知っていましたが、そういうものは、1~2通のことかと思っていたので、なんで?と思いました。

なかなか会えないから、手紙で話しているんだということだったのでしょう。
でも、私には、一つのカルチャーショックみたいなものでした。

泊めてもらって、一晩お世話になったのだから、お母さんやその他の家族の方にお会いして、ご飯をご馳走になったりしただろうと
思うのに、全く記憶にありません。今思うと失礼な話ですね。お礼なんて何もしてないんじゃないかなと思います。
しかし、なぜか、今になっても忘れないのは、その手紙のことでした。
私は、この印象があったからかもしれませんが、後に一人の女性に200通もの手紙を書くことになります。
それは、高校を卒業してからのことですから、ここでは関係ありません。

泊めてくれた友達というのは、荒川中学出身のMくんです。中学時代、夏の県大会で優勝したチームのメンバーです。
県北大会で、コチャンに負かされたあの荒川中です。だから私は彼と試合で出会っているのです。そう考えると面白いですね。
あのとき、いたんだねという話ができました。

ーーーーーーーーーーーーーーー
次の試合は、相手が更に強いチームでした。これもうろ覚えですが、大宮工業だったような気がします。

この試合は、私は試合の途中から出されます。
先生が、昨日の試合で私のシュートを見て、使えると思ったのでしょう。
先輩が5ファールで退場をする前に、前半の途中から出してくれました。

私は例によって、きらくなシュートを放ちます。
そのロングシュートがことごとく入りました。立て続けに4本くらい決めた気がします。

初めのうちは、前チームと同じように私にディフェンスが付きませんでした。あまりに遠いので、シュートを打つとは思われないところでした。しかし、3本連続で決めたとき、これは打たせてはいけないと判断したようです。タイムアウトがかかり、その後からは、私をピッタリマークする選手が設定されました。

あのボックスワンです。

中学時代、私は本庄西が編み出したボックスワンをやられたことがあります。
それは、私がどこにいても、その選手は私の腰にぴったり食いついて離れないというディフェンスでした。
要するに、私さえ抑えれば勝てると思うからやった戦術でした。

私のチームは、得点の大部分を私が取るチームだったのです。
ワンマンチームという言葉があると思います。まさにそれでした。

ただ、もう中学ではありません。まさか高校でそれをやられるとは思いませんでした。
ということは、相手チームは、とにかくあいつにシュートを打たせてはいけないと判断したこと、また、私さえ抑えれば勝てると考えたのです。おいおい、と思いました。不思議なことに、私は自分のチームの監督や先輩たちよりも、相手チームから力を認められてしまったのでした。

その試合では、私はかなりのシュートを決めたと思います。私が打つたびにシュートが決まるものだから、ある先輩は「どんどん打っていいよ」と試合中に言いました。その先輩というのは、中学時代県大会で優勝したメンバーです。しかし、練習中などでは、一年生がシュートを打って落としたりすると、結構激しく怒る人でした。「下手なくせに勝手にシュートを打つんじゃねえよ」という言葉を仲間が言われている場面を見ています。その先輩が私におべっかを使うような感じで言ったものだから、私は笑ってしまいました。それと、そうは言っても、打てるタイミングがつかめたら打つのだから、なんでもかんでも打てるわけじゃないのにと思いました。

その試合は、負けてしまいました。得点差がどのくらいだったのかも全く覚えていません。
しかし、結構いい勝負をしたような気がします。
なぜなら、先輩たちは中学時代に県大会の優勝経験があるのです。
しかも、まさか優勝するとは思われないチームが優勝したのですから、戦いながら強くなっていったという経験です。
調子に乗れば、奇跡もありうるという経験者なのです。
前日の試合も勝てないはずが、勝ってしまった。だから「俺たち優勝するんじゃあねん」などということも冗談のような感じで言っていました。

ーーーーーーーーーーーーーー
この試合を通じて、私のチーム内での存在力がアップしました。

それと、クラスでの私の存在力もアップしました。
なぜかというと、私は1年9組でしたが、同じクラスにバスケット部の仲間がいて、その仲間が私の活躍を語ったからです。
そして、彼らの私を見る目が変わったからです。

つづく



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代の思い出 3

2013-04-17 | 思い出
本庄高校のバスケット部は、あまり強くありませんでした。

しかし、一つ上の学年は、本庄西中学のメンバーが4人入っています。県大会で優勝したメンバーです。
だから、しっかり練習していれば、かなり強くなれるはずでした。
しかし、それがあまり強くならなかったのは、やはり顧問が素人だったからでしょう。
練習に先生が出て来たことはほとんどありません。試合の時だけ来てくれる先生でした。

実は、この先生も面白いことに、後に麓原会のメンバーになるのです。
本庄高校は、古川先生がいて、教員の仲間にも絵を教えていました。
バスケット部の顧問の先生は、物理の先生なのに、趣味は絵でした。
教員の仲間で絵の会を作って、柏美会という名前で活動し、文化祭などではその会で展示をするくらいでした。
古川先生のようなすごい先生がいると、そういうこともあるのですね。

尤も、高校1年の私にとっては、そのことは全く関係ありません。
まだ、私は絵のことがなにも始まっていないのですから。


私が1年で、バスケット部に入ったとき、先輩たちは「どれどれ君はどんなシュートを打つのかな?」と言って、私にシュートをさせようとしました。私が0度から、きれいなジャンプシュートを放つと、「ホー、なかなかやるじゃん」という反応でした。しかし、ややなめた反応です。この時点では、それが脅威に感じる日がくることを、先輩たちはまだ知りません。

ちょっと変わった人がいました。その人はびっこを引きながらプレーをしていました。
先輩たちの中では、れっきとしたレギュラーですが、生まれつきなのか、片足が長さが違うのです。
だから、走り方もとても大変そうなのですが、プレーはできるのです。私はあまりそのことに触れてはならないのかなと思って、避けましたが、あのような人でも極普通にバスケットをしていることに感動しました。

バスケットの練習については、特にお話することはありません。
大した練習もしないで試合に行ったような気がします。

一番覚えているのは、私が初めて試合に出たときのことです。
我々1年は、レギュラーなどとは程遠く、先輩たちの試合を見ているだけのような存在でしたが、
あるとき、先輩たちが5ファールで退場してしまい、1年生が出なければならない状況になりました。
その時、なぜか私が指名されました。
だから、練習を見ていて、1年で一番うまいのは菅野だと先輩たちが見ていてくれたのでしょうか。
試合に出ろと命じたのは先生ですから、先生は先輩たちに聞いていたのだと思います。

相手のチームは、強いチームで、先輩たちは今まで勝ったことがなく、負けるのが当たり前の感覚で臨んでいたようです。

私はそんなことは、全く知りません。出てすぐ、45度でパスをもらいました。すると、相手チームは私に付いていません。リングからかなり離れていたので、まさかシュートを打たないだろうと油断していたのだと思います。そこで、私はパスをもらった瞬間にすかさず打ってしまいました。

みんなアッと言ったと思います。

おいおい、試合に出たことがないやつが、いきなりシュートを打つなよというのが、味方の反応です。
相手チームは、そんな遠いところからシュートを打つのかよと思ったでしょう。今で言えば3ポイントシュートかもしれません。
それが、見事に入ってしまいました。

これは、敵も味方も驚きました。
入った途端に、みんながびっくりしている様子がわかりました。

しかし、打った私は何が起こったのか、別にいつものシュートを打っただけなのに、どうして?と思いました。実は、シュートというのは、入らなければ相手のボールになる可能性が高いのです。だから、ここぞという大事な場面では、なるべく確実なシュートになるように、工夫してパスを回して、相手をくずしてからうつように持っていくべきなのです。ロングシュートは入る確率は低くなります。それだけリスクのあるシュートなのです。それを平然と打つものだから、打った瞬間は、あのやろうばかやるんじゃねえという感じだったのでしょう。

それが、入ってしまい、しかもさも当然のような顔をしている私を見て、みんながあっけにとられていました。その後、私のシュートで勢いに乗ったのか、先輩たちも勢い付き、いつもなら入らないようなシュートが入ってしまったりしました。そして、全く勝てなかった相手を負かしてしまったのです。

その日の帰りは、先輩たちは大喜びで、私のシュートが語り草になりました。
ある先輩は、「菅野のやろう、あんなところで、平気でシュート打つんだもんな、俺は驚いちゃったよ」と笑いながら言いました。「しかも、当たり前の顔してんだかんな」と。

「もう、今日でおしまいのはずが、明日も来ることになっちゃったよ」「俺なんか、明日の予定をキャンセルしなきゃならねえや」と。嬉しそうに言っていました。

つづく











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代の思い出 2

2013-04-17 | 思い出
高校時代のことを書こうと思ったら、本庄高校を選んだ理由を書かなければと思って、成績の話になりました。

私は、成績で選んだことになりますね。

ただ、いくらかですが、自分は美術系の大学に行きたいという希望も持っていました。
そこには、古川先生がいたのです。本庄高校へ行けば、古川先生に教えていただける。そうすれば美大に行くには
都合がいい。という判断です。なかなかの考えですね。

しかし、入学の時点では、そこまで考えていたわけではありません。
その先の進路は、高校2年生の時に選びました。

私は器用貧乏という言葉が当て嵌まります。
成績はオール5に近かったといいましたが、しかし、これという秀でたものはありませんでした。
もし、順位をつけたら体育と美術でしょうか。

友達は、私の数学のセンスがいいので、「菅野は数学へ行くのかと思った」といいました。
その友達というのは、理科大の数学科へ現役合格をした友達です。
中学時代に同じバスケット部にいたH君です。
トップでパスを回す司令塔のような役割ですが、サブメンバーでした。
しかし、彼は高校の教員になってから、バスケットの顧問になり、県でもベスト4まで持って行ったすばらしい監督です。
我々の仲間で、バスケットへの貢献は一番の人です。
今は、高校の校長をしています。

だから、自分の高校の後の進路は、体育か美術か数学ということだったでしょうか。
しかし、まだ入学の時点では、決めていませんでした。
もし、本庄高校がバスケットが強かったら、私は体育の先生を選んでいたかもしれません。

ここからは、高校時代のバスケットの経験を書きたいと思います。

入学式の日、学校へ入っていく道を歩いていたら、ブロック塀のところに、見たことがある人がいました。
それは、1学年上の本庄西中のキャプテンをしていたS先輩でした。
なぜ、その人がそこにいたのかは、わかりませんが、見たことがある人だったので、挨拶をしたのを覚えています。
その挨拶が、私は「こんにちは」ではなく、「オッス」だったような気がします。
後で考えたら、冷や汗ものの挨拶でした。

というのは、その人は本庄高校でもバスケット部のキャプテンをしていたからです。
その人の中学時代というのは、バスケットの思い出でも書いたように、夏の県大会で優勝したのです。
予選では、我が児玉中と前半はいい勝負をしたくらいのそれほど大したことのないチームに思われましたが、
10人の選手が誰が出ても力が落ちないすごいチームを作り上げました。
私は自分のチームもそうなればいいなと思っていたのです。

そのチームのキャプテンですから、一番すごい人なんですよね。
それを、私は知っていながら、しかし、S先輩は私をよく知らないだろうと思って、調子づいてふざけた挨拶をしてしまいました。

そうしたら、後でわかったことですが、その人の父親が麓原会の会員で、私の父を兄貴と読んでいるくらい親しい人でした。
自分にとっては、バスケットの先輩で、父親同士が同じ絵の会の仲間だったわけです。

つづく






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校時代の思い出 1

2013-04-16 | 思い出
私が高校に入学したのは、昭和45年です。
私の頃は、児玉中学の成績トップは、埼玉県なら熊谷高校、群馬県なら高崎高校に行くのが一般的でした。
埼玉県の県北の一番は、熊谷高校だったからです。
しかし、私の学年はだれも熊谷高校にはいきませんでした。
高崎高校には、二人行きましたが、それ以外はみんな本庄高校に行ったのです。
私もその一人でした。

本庄高校は、熊谷高校に行かない(もしくは、行けない)生徒が二番目に選ぶ学校でした。
だから、二番手ではあるけれど、成績上位の子が行くということで、ある程度はプライドが持てる学校でした。

私も担任の先生から、熊谷高校に行かないのか?と一度は言われましたが、
そこまで優秀ではないと自覚していましたので、無理ですと言ったと思います。
私は、時にはクラスでトップのこともあり、学年でも4番になったことがありましたが、会場テストで、とんでもない悪い点を取ったことがあり、会場テストは実際の受験に近いと聞いていたのでやめたのです。 

私は、バスケットの思い出で書いたように、キャプテンをしていましたし、顧問の先生がバスケットの素人だったので、練習計画まで考えて、仲間の指導までしていましたから、勉強よりそちらの方に力を注いでいました。
部活と勉強の両立をしていたわけですが、勉強においてはバスケットほど夢中になれませんでした。

本庄高校には、児玉中学から25人が行きました。しかし、この25人が成績上位25番目までかと問われるとそうでもないのです。なぜなら、成績が良くても児玉高校に行った生徒もいたからです。
だから、そういう数名を除くと、大体上位30名くらいが本庄高校に行ったのかなと思います。

自分の成績について、触れていますが、私は割と真面目な生徒だったと思います。
受験だからと言って、がり勉にはならず、何でもよくやりました。
主要五教科と言われた科目だけでなく、音楽、美術、体育、技術なども全て5をもらいました。
だから、受験のためだけの絞った勉強をしなかったのです。
我々の頃は、今と違って、相対評価ですから、全ての科目で5を取るのは結構大変でした。
一度、オール5を取り損ねたことがあります。
社会だけ4でした。

テストの採点が間違っていて、間違っているのに、丸がついていたのです。
私は、自分から申し出ました。「先生採点が違っています」と。すると、それは先生の間違いだからいいよと言ってくれました。
しかし、私は、それでは正確な順位にならないということにこだわり、正しい点数にしてくださいと生意気にも言ってしまいました。先生は、そうかと言いながらしかたなく直したようでした。

もし、その時の一問で、順位が逆転していたら、私はオール5という成績が実現できたのかなと後で思いました。
たった1問で逆転にはならないかもしれませんが、その可能性はあったかもしれないのです。
この私の馬鹿正直は、後の人生でもときどき出てきます。
教員試験で、健康診断のときに、病気をしたことがありますかと問われて、正直に答えたところ、採用がなしになりました。
児玉郡の先生から、「あいつは馬鹿正直だから」と言われたそうです。「黙っていれば教員になれたのになあ」と。

もし、黙っていても、いずれはばれることですから、嘘をつくのが嫌だったのです。
しかし、嘘をついていたら教員になれたのでしょうか。そうしたら、いまの本庄第一の美術部はなかったのですね。

通知表の成績でいけば、どこの高校でも合格できそうな学力でしたが、北辰テストという模擬試験では、そうはいきませんでした。
特に、範囲がなくなった時点では、私はだめでした。範囲が決められている場合はそこだけ必死に勉強すればなんとかなるのですが、範囲がないと私はすぐに忘れるタイプなのです。記憶力が鈍いのかなと思います。

それでも400人以上の学年で何とか10番前後にいたのですが、熊谷高校に行くには、5番以内にいないとダメかなと思っていました。だから、無理ですという発言になったのです。

私は、この中学の体験が、その後の人生に影響していきます。
一番になってやろうという気持ちがまだないのです。

バスケットで一番になれなかった。県で優勝できなかった。県北でも優勝できなかった。
学業でも、熊谷高校にいけるほどにならなかった。

だから、東大を受けようとはならず、芸大を受けようともならなかった。
自分は、一番ではないと思い、二番手か三番手を選ぶ人生を始めるのです。
きれいに言えば、身の程をわきまえた選び方というのでしょうか。
自分には無理だなと早めに結論を出すのです。

それが、違ってくるのはいつからでしょう。
どうせやるなら一番になってやるという熱い思いです。

つづく


























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラス通信

2010-07-27 | 思い出
クラス通信

先日、最後に担任をしたクラスの生徒から、暑中見舞いのはがきをいただきました。
そこに、クラス通信を久しぶりに見つけて、読んでみてなつかしくなりましたと書いてありました。

そのクラスは、私が途中で胸膜炎という病気になり、その後休職になってしまったので、最後まで面倒をみることができなくなったクラスでした。
できるなら、三年まで担任をして、卒業させたいと思いましたが、駄目でした。
しかし、担任をしていた4月から11月まで、クラス通信を作っていました。
巨人の松井選手と競争などと言って、松井選手のホームランに負けないように出せたらいいなあとみんなにも宣言して行ないました。そして、多分私が勝ったと思いますが、55号くらいまで、出したのではないかと、記憶しています。

しかし、11月に入院になって、それきりになってしまいました。

中には、保護者の方も通信に記事を寄せてくれて、それを掲載したこともありました。
学校での様子が保護者の方たちにも見える形にしたいと思ったり、生徒の歩んだ日々を記録に残して、後で振り返れるといいなあと思ったり、いろいろな思いを込めて作った気がします。
そのクラスは、芸術コースだったので、美術、書道、吹奏楽の三部活のメンバーで構成されていました。授業態度も良く、とても授業のやりやすいクラスでした。しかし、芸術の授業はそれぞれが、自分の部活へ行ってしまうため、私は直接このクラスでの授業がありません。そのために、私は、クラス通信を作りました。

みんな放課後は、自分の部活に急いで行くため、帰りのホームルームも長くやるわけにはいきません。それもありました。私は以前担任をしていたときは、終礼に30分かける担任でした。その時間に様々な話をしました。ロングホームルームを毎日やっている感じでした。

生徒たちに話してやりたいことは、たくさんあるのです。

それができないので、通信にしたのです。

半年で、50号とすると、3日に一回くらいだったかな?いや、出すときは2日に一回くらいだったような気がします。それと、一枚で済まない時は、2枚になったこともあります。

内容をここで詳しく紹介できませんが、後で読み返したら、いろいろな考える材料が含まれていると思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このはがきをくれた生徒は、私の部員ではありませんが、この通信を宝にしたいと言ってくれました。とても有難く、うれしくてたまりません。

だれか、一人でもそのように思ってくれたらいいと思って作りました。

私もファイルにして、保存してあります。また読んでみようと思います。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする