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絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

高校時代の思い出 14

2013-04-27 | 思い出
高校1年の思い出で、一つだけ自分でも訳のわからないキャンプの経験があります。

これは人から尋ねられたら、どうして行ったの?と聞かれても、相手を納得させるだけの答えができないことです。

あるとき、教室で友達同士数人で、キャンプの計画を話していました。
その友達は、熊谷から通っている人たちでした。

それを聞いていた私は「おい、いい事話しているじゃないか、そういうことは俺を外すなよな」というようなことを言った気がします。

そしたら、「お前も行くか?」と問われたのです。私は「もちろん」と答えました。
それで、一緒に行くことになったのです。

それは、男だけのものではありません。男女数名で話していることでした。

高校1年生の男女が、数名で自分たちだけでキャンプに行こうというのです。
先生の引率があるわけではありません。そういう経験は初めてのことです。
高校になると、こういうこともあるのかという感じで、楽しみになりました。

よくよく聞いてみると、それはこのクラスの友達だけではなく、他の学校の友達も一緒でした。
熊谷出身のR君を中心に、中学時代の友達も誘ってのものでした。

だから、一緒に行くメンバーの顔合わせが熊谷であり、熊谷女子高校の子もいたり、本庄高校の他のクラスの友達もいたりという具合でした。

場所は、秩父の裏山のキャンプ場でした。川の中州にテントが張ってあり、そこで寝るのです。
まず、どこで待ち合わせて、おそらく秩父線で行ったと思いますが、駅からキャンプ場までどうやって行ったのか、何をどうしたか?食べ物をどうしたか、全く覚えていません。

覚えているのは、夜、寝たような寝なかったようなということだけです。
というのは、テントはきちんと男女別々に、設定したのですが、夜中に一晩中川の石の上にすわりこんで話している一組のペアーがあり、
それが気になって、時々起きてはそこへ行って、話に加わったりして、なかなか眠れなかったことです。
その時、薄々気づきましたが、それはR君が一人の女の子が好きで、そういう時間を作りたくて、誘ったということでした。

そして、R君の狙いはそのことだったのですが、それと似たようなことが起こればいいなという期待を持って臨んだ男子もいたようで、
誰は誰と話したいというような感じになっていたようです。そんなことは、全く知らなかった私は、ただ単純にキャンプを楽しむということで行ったので、自分だけ川の中のテントに入って、すのこのような板の上で、寝ていました。ただ、そのテントの出入りが結構頻繁なので、私は眠れませんでした。

帰りに、R君から「お前は何のために参加したの?」と言われました。
その意味は、何だったのか?
せっかく、いろいろな女の子がいたのに、どうして夜中に外で話をしなかったのかと問われたような気がしました。

そういう意味からすると、今で言えば、合コンだったのでしょうか?

全く、熊谷という都会の人種は我々田舎者とは違うんだなと思いました。

そのR君というのは、学力も高く、通知表では私が勝ちましたが、旺文社の模擬テストではクラスで1位の人でした。
私は、中間期末などのテストは強いですし、美術と体育は誰にも負けない自信がありましたから、それを加えると私が勝つのですが、
旺文社のような模擬テストになると、1年生の時は、1位が取れませんでした。

このキャンプは、帰りもどこからどのように帰ったのか、記憶がありません。
ただ、参加したために、できた友達はいました。
応援団のK君とは、その後いい友達になりました。また、熊谷女子高校の子は、三年生の時に再会しますが、そのときはお互いに美術部に入って、絵を描いていたので、奇遇だねと語り合いました。

つづく












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高校時代の思い出 13

2013-04-26 | 思い出
本庄高校は、昼休みになると、外へ食べに出かける生徒がたくさんいました。

だるま食堂というのがあって、私も何度か行ったことがあります。
面白いのは、その食堂は本庄高校の生徒が来ることを想定しているお店でした。
メニューの中に、本高ラーメンというものがありました。
少し量が少なめだったかなとも思いますが、安いのです。
詳しく聞かなかったから定かではありませんが、本庄高校の生徒でないと注文できないものだったような気がします。
我々は、それだけではちょっと物足りないので、一緒にカレーも食べました。半カレーというメニューで、カレーの半分盛りです。
合わせて、180円くらいだったような気がします。

また、ちょっと距離がありましたが、本高通りを北に歩いて、高崎線の線路を渡るとすぐに石井のたい焼き屋というのがありました。
そこは、たい焼き屋ですが、焼きそばがおいしいので、たい焼きを一つ頼んで、食べながら焼きそばができるのを待つのです。
また、時にはところてんを頼んで食べました。

どちらのお店も、お昼時は本高生で一杯でした。

この外へ食べに行くということは良くないということで、学校から昼休み外出禁止令が出されたことがありました。
生徒たちは、一週間くらいはそれを守りました。しかし、その後は、徐々にまた出ていく生徒がチラホラ現れ、先生たちの様子を見ると
何も言わないことがわかり、大丈夫だという判断がくだされると、またみんな外へ食べに行くようになりました。

あの外出禁止令は何だったのかなと思いました。
何をやるにも、やるからには徹底しないとダメだなと思います。
教師の取り組みとして、だめな部分を学ばせてもらった一コマです。

ーーーーーーーーーー
本庄高校は、ある意味とても自由な学校でした。
この教師集団の甘さも、その一つなのでしょう。

なぜなら、取り締まれなかった理由の一つが、学校が終わりの時間にならなくても帰ってしまう生徒がたくさんいたからです。
例えば一つ自習があると、6時間目の先生が空いていないか聞きに行きます。もし空いていたらその自習時間に授業をやってもらうのです。
そうすると、5時間目が終わったところで帰れます。もし、そのパターンが二つあれば、4時間が終わったところで帰れます。だから、昼休みに出かけるどころか、昼休みで帰ってしまうのです。外へ食べに出かけるのを禁止するどころではありません。

また、サボって帰る生徒もいました。一番面白かったのは、自分の出席回数をメモしている生徒がいたことです。
出席は三分の二出ればいい。それ以上だと、評価不能になる。だから、この授業はもう休めないとか何とか言っていました。
一つ上の学年でしたが、私はそんなものか、まるで大学みたいだなと思いました。

あの頃、終礼というものは、どうだったのでしょう。やった記憶もありますが、やらなかったから帰れたのかなという気もします。

ただ、最後に一言付け加えたいのは、今述べたことが本高生全員にあてはまることではありません。
ほとんどの生徒は真面目な生徒で、昼休みに外へ出ることもなく、6時間目が終わるまでは学校にいて、教室に残って放課後勉強している生徒もいてという状況でした。
もちろん、私は部活がありましたから、帰るはずがありません。



つづく









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高校時代の思い出 12

2013-04-25 | 思い出
先輩がなぜ練習に出てこなくなったのか、詳しい理由がわかりません。

ただ、覚えているのは、二年と一年で勝負してみようかと言われたことです。
一年生のチームは、私と宿命のライバルと紹介している本庄西中出身のキャプテンのO君と副キャプテンのN君。
それと、県大会優勝経験のある荒川中出身のM君。そして、背の高い本庄東中出身のM君です。
かなり力のあるメンバーです。
それに対して、先輩たちは、中学時代本庄西中で夏の県大会で優勝したメンバー4人ともう一人です。
かなり、いい勝負にはなると思いましたが、やってみたら一年生が勝ってしまいました。

その後から、出てこなくなりました。一年に負けるようじゃしょうがないと思ったのか、後は任せたという感じでした。

そういえば、この部活に入ってから、3年生の記憶がありません。
やはり、2年生が1年のときに、先輩を負かしてしまったことで、先輩が出てこなくなったと聞いたような気がします。

変な伝統ができてしまったのかもしれません。
2年生の先輩たちは、県大会優勝経験者ですから、先輩たちを負かしてしまうのもわかる気がします。
しかし、その強い先輩たちに我々が勝てるとは思いませんでした。

これは、もしかすると仕組まれたことなのかと後で思いました。
ただ、その時は、私は実力で勝ったと思っていました。
なぜなら、私が自信があったからです。自分のプレーにうぬぼれていました。

前回もお話しした通り、私は絶好調で、相手チームからボックスワンをされたほどです。
それは、このチームで一番の選手だと認められたことでもあったのです。

ーーーーーーーーーー
それ以降、私たちは1年生チームとして、試合に出ました。
私は、絶好調で、スター選手の如く得点を重ねました。
1試合で、38点も一人で取ったことがあります。相手チームが私の存在を知らないために、私は思う存分動き回りました。

その時は、女子のマネージャーができていました。
どういう経緯でその二人のマネージャーが入ったのかわかりませんが、
その子たちの、「キャー、かっこいい!!」という黄色い声に乗せられて、私は余計に調子づきました。

ーーーーーーーーー
あるとき、本庄市の大会がありました。それは、高校の試合ではなく、社会人チームと対戦するものでした。
本庄には、会社とか、市のチームとかがあったようです。
そこでも、私はものすごい活躍をしました。打つシュートが悉く入りました。
あまりに、シュートが入るので、途中から相手チームが本気になり、
一人の選手が私に付きました。

その人は、後で聞いたことですが、国体選手でした。埼玉県代表の選手だそうです。
その人の、ディフェンスはすごかったです。

「よーし、このやろう」と言って私に自由にやらせないぞと向かってきました。攻撃的なディフェンスです。

私が一番驚いたのは、その人の本格的なディフェンスでした。
その後、私はかなり封じ込められました。

その一つに、私はバスケットを始めて以来、初めてのチャージングというものを経験しました。
チャージングとは、攻撃をしている側の反則です。

私は、完全に相手を振り切ってシュートに持ち込んだつもりでした。しかし、ハッと気づいたら、
その人の胸にまっすぐ向かって突っ込んでいました。
なに??と思いました。

私が動くコースをしっかり読んで、その真正面に正対して、無抵抗のまま真っ直ぐ後ろに倒れたのです。
私は、まるで、その人の胸を正面から踏みつけるような格好になったのです。
これには驚きました。今なら、それがすばらしいディフェンスだとわかります。NBAを見ていると何度も出てくるからです。
しかし、初めての私はそれがわからず、まるで騙されたような、嵌められたような気がしました。

うまいディフェンスとはこういうのを言うんだなと思い知らされた感じでした。

これが、1年生チームとして戦った一番強烈な思い出になりました。

つづく















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高校時代の思い出 11

2013-04-25 | 思い出
バスケット部の状況は、割と練習があまくて、このままではあまり勝ち上がっていくことは望めないなあという感じのチームでした。毎日練習はしていましたが、先にお話ししたように、先生が出てきた記憶がありません。

だから私も、ややなめていました。一度だけサボったことがあります。
その理由は、数学の問題集をやるためでした。数学の授業では、先生がサブテキストとして、入試問題を含めたような問題集を配っていました。それが、なかなか進まなかったので、気になりました。自分だけが遅れている気がしたのです。
その問題集は、授業の内容と一致していて併行して進めるものと思っていました。
後で、みんなに聞いたら、そんなのやってないよと言ったので、安心しましたが授業では、先生がよくその問題集を使いました。

私は次の日、先輩に昨日休んだ理由を言いました。すると、先輩は勉強していたんならいいよというような反応を示し、てっきり叱られるかと思った私は、意外でした。
ほおーー、この学校は勉強していたという理由なら、部活を休んでも叱られないのかと思いました。
まあ、その程度の意識の部活だったということなのですが、私はこの学校の勉強に対する意識の高さと思いました。

ただ、自分では、この学校はいいなと思った理由の一つに、勉強に対する感覚が、自分に合っていると思いました。
これは、私の思い過ごしかもしれませんが、中学までの自分は、休み時間に勉強していたりすると、がり勉というイメージで見られ、そう見られることを嫌がっていました。
だから、家では勉強しても、人前では勉強している所を見せないという人間でした。

しかし、本庄高校に行ったら、休み時間に勉強している人がいます。放課後もいます。
そして、そうしている人間をがり勉の嫌な奴という見方をしないように思いました。
そういう光景が自然と見られるのです。それがいいなと思ったのです。

ただ、心の中は複雑で、がり勉というイメージの強い奴には、反発したい気持ちもありました。高校生なら、部活もやれよという気持ちです。だから、俺はバスケットをやっていても、勉強だけをしているがり勉には負けたくないという気持ちがありました。
それで、クラス順位に拘ったのです。

ーーーーーー
バスケット部は、夏休みを過ぎた頃、先輩が練習に出て来なくなりました。
それで、その後は、一年生だけで練習をやり、私はキャプテンになりました。

つづく








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高校時代の思い出 10

2013-04-24 | 思い出
クラスの4人組

私は、美術部でもないのに、休みの日に一人で風景画を描くことがありました。

あるとき、東小平の観音様の下の畑で、絵を描いていたら、I君とN君とO君がバイクでやってきました。
たぶん、私の家に来て、絵を描きに行ったと聞いて探したのだと思います。
この光景は、面白いと思いませんか?
バレー部のI君、バスケット部の宿命のライバルの二人が、高校1年なのでバイクの免許を取って、休みの日にツーリング。
私は、バイクの免許は取らず、自転車で山の方へ、風景画を描きに来ている。そこへ三人が現れる。

その時に描いた絵が、N君の両親に頼まれた水彩画で、その絵は、ずっとN君の家に飾られることなりました。

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また、別の日ですが、三人が私の家に来て、私の部屋でしばらく話していったこともありました。
そのとき、何を話したのか、全く覚えていませんが、ラジオを聴いていて、何度も「花嫁」という歌がかかっていたのを覚えています。
あれは、はしだのりひこだったかな。「はなーよめはーーーーよぎしゃーーにのってーーー」という歌です。
それから、由紀さおりの「手紙」も流行っていました。ルンルルルルーーとかランラララーとかしか歌えないのかと思ったら、急に「死んでもあなたとーー暮らしていたいとーーー」と歌いだしたので、驚きがありました。

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当時は、まだフォークソングが流行る前、グループサウンズが下火になって、フォークに移行する移行期というのかもしれません。
「受験生のブルース」と「帰ってきた酔っ払い」などの時期かな、そのあと辺りです。
私は、スポーツと勉強と絵と将棋とギターといろいろ意欲的で、体は思うように動くので、絶好調でしたね。

母親に、森田健作が風邪ひいたような顔をしていると言われました。
明るく爽やかであったと思います。「友達よなくんじゃない」「さらば涙と言おう」をよく歌いました。
外国の歌では、「悲しき天使」が流行っていたかな?

あるとき、私が、4人でフォーリーブスをやろうかといったことがありました。
本当に、歌をやるとかではありませんが、俺たち4人組みたいになったから、人気者グループを結成しようかといったのです。
しかし、I君に菅野とN君はだめだと言われました。見かけがそこまでのレベルじゃないというのです。確かに。

ただ、I君はハンサムで爽やかですし、O君は後に生徒会長になります。N君は、なんとも魅力のある人間で、女の子にはとてもモテます。
一番該当しないのが、私だと思いますが、私は信じられないことに、全校を対象に人気投票を女子がひそかに行ったとき、1位になったことがあるのです。そう数え上げたら、最高の4人なんですけどね。4人とも運動神経抜群ですし。キャプテン経験者ばかりです。

まあ、高校1年のクラスのムードメーカーにはなっていましたし、とにかく目立つ4人だったことは確かです。

つづく







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