Straight Travel

日々読む本についての感想です。
特に好きな村上春樹さん、柴田元幸さんの著書についてなど。

「童話物語(上)大きなお話の始まり」向山貴彦著(幻冬社)

2009-02-24 | 児童書・ヤングアダルト
「童話物語(上)大きなお話の始まり」向山(むこうやま)貴彦著(幻冬社)を読みました。
世界は滅びるべきなのか?
その恐るべき問いの答えを得るために、光の妖精フィツは地上へとやってきました。
最初に出会ったひとりの人間を9日間監察して判断することがフィツの使命。
しかし、フィツがたまたま出会ったのは極めて性格の悪い少女ペチカでした。
単行本には未収録の設定資料「クローシャ大百科事典」が文庫化にあたり追加されています。
挿絵は宮山香里(かおり)さん。地図や独特の風物がやわらかい印象の絵で描かれています。厳しい作品の世界の中で、ほっと一息つかせてくれるページです。
ネタバレありますので未読の方はご注意ください。

ペチカの暮らす世界クローシャは、時間も貨幣も距離も、その単位すべてが私たちの世界とは異なるもの。
人々は「妖精の日」がくると金色の雨がふり、悪人はすべて滅びると信じています。

ペチカは貧しく小さな田舎町トリニティーに住む13歳の少女。
6歳のときに母親と死に別れ、それ以来孤児として教会の残酷な守頭に虐待を受け、周囲の子どもたちにいじめられてきました。
自分より弱いもの(子猫や、妖精フィツ)に怒りをぶつけるペチカ。
「あっち行け!」「死んじゃえ!」「私のものをとるな!」
ペチカが今までこういう言葉や仕打ちを受け、自分の心も体も傷つき損なわれてきたからなのだと思うと、本当に胸が痛みます。
大人たちも揃ってペチカをいじめるばかりで誰も助けてあげない・・・本当に可哀想。

「妖精は呪われたもの」と思い込んでいる住人がペチカとフィツがともにいるところを見つけ、家まで燃やされ、ペチカはその身を追われることに。
やがて盲目の老婆の馬車(正しくはロバ車)に助けられ、学問の都ランゼスへ。
そこで火の妖精ヴォーに出会います。
ヴォーはフィツと違って人間界が長い妖精。人間の虚栄心や猜疑心を利用し、面白半分に人間を翻弄します。
妖精も人間と同じで、いい面、悪い面どちらもあるんですね。

さらにペチカは老婆の馬車で西へ。
何も言わない老婆だけれど、温かい寝床をしつらえてくれて、スープを作ってくれて・・・少しずつではありますがペチカの気持ちは落ち着いてきます。
この老婆との「いつもと同じ」のやりとりは、ペチカが村で孤独な暮らしをしていたときの単調な辛い生活とはまったく違うもの。少しずつペチカの心がつくろわれつつあるのを読者である私たちも感じます。

しかし守頭は執拗にペチカを追っていました。
ペチカは老婆の馬車を逃げ出し、赤い森アウクライアの森へ逃げ込みます。
そして9日間が過ぎ、フィツとの別れが訪れます。

使われていない小屋を見つけ、自分で赤豆を摘んでだんごをつくり、天然の温泉で湯浴みするペチカ。残酷な人間社会と対照的に、この自然の中での暮らしはとても穏やかな理想郷のように描かれています。自然の秩序を乱すのはいつでも人間ばかりなり?
妖精の掟どおりフィツのことを忘れていくペチカ。今までのこともこれからのことも記憶があいまいなペチカは不安になり、一度町に出てみる決意をします。
北をめざしたペチカがたどりついたのは水路がはりめぐらされた観光都市アロロタフ。

ここの水門でペチカはヴォーと、彼が監察している人間イルワルドの図った罠に落ちてしまいます。人間たちを滅ぼす炎水晶のいけにえにしようとペチカを襲うイルワルド。逃れようとするペチカ。そしてフィツとの思わぬ再会。
決壊する水門。

濁流に呑み込まれたフィツの行方は??・・・のまま下巻につづく。



「石の思い出」A・E・フェルスマン著(堀秀道訳)草思社

2009-02-24 | エッセイ・実用書・その他
「石の思い出」A・E・フェルスマン著(堀秀道訳)草思社を読みました。
著者は20世紀ロシア(ソ連)の高名な鉱物学者。
彼が少年期からの石への情熱やロシア各地に鉱物資源調査に赴いた体験談を19の短文でつづった鉱物エッセイです。

冒頭の写真の孔雀石の小箱、伝説のダイヤモンド「シャー」など、うっとりとため息が出ます。ロシア、コラ半島のユージアル石からオルスクの碧玉まで、美しい文章で数々の石がつづられます。 

そして詩的な文章に加え、化学者ならではの独特な言い回しがあって面白いです。

たとえばこんな表現。
「オレンジやレモンの樹は結晶中の原子の配列のように生前と植えられている。」

あるいは、畑に蒔く二種類の肥料(燐灰石とマンガン)を元素番号で呼び(15番と25番)、そのふたつと結びつきやすい金属を「友達」と呼ぶ。
なんだか元素たちがワイワイ遊んでいるような想像がふくらみます。
小川洋子さんの「博士の愛した数式」に登場する博士をちょっと連想しました。

そして雪花石膏(アラバスター)の壷を描いたこの文章。
「ほのかな月光のような光は石を通して石の魂にまで染み渡っていくかに感じられた。」

「石の魂」!

これが感じられる、著者のすばらしさ。
石からよみとる地球の記憶、自然の法則に対する深い敬意と愛情が感じられます。

本の中では著者は「これまでに、私のことをドライだとか人間味が薄いという人々にしばしば出会ってきた。石が私を、希望を、夢までも支配していた。」と語っています。
もちろん著者は人間に興味がないのではなく、恩師や尊敬すべき化学者の名前をあげています。
でも個人的には、物言わぬひそやかな石の声を聞ける著者のような人は、なまなましい人間関係には「うとい」くらいでちょうどいいのではないかなあと思います。
「ドライ」という他人の方が、想像力が足りないような気もしますが。

そんな著者が語る、天青石(てんせいせき・淡い空色の石で、清く透明な空の色を持っている)を採りに行ったときの話。
とても繊細で美しい文章です。

「夕暮れがせまり、左岸の広大な地平線が紅く染まりだしたとき、僕たちにもよくやく幸運がほほえみはじめた。小さな晶洞の中に、空色の美しい結晶がいくつか、青い目のように光っていた。
ボルガ川の春の宵、この魅力を知らないものがいるだろうか。
夕焼けの最後の輝きが消え、家々に灯りがともりはじめる。大地の鼓動が聞こえるかと思うほど、静かになる。どこかで、曳船の煙突の火が単調な音をたてており、ときたま、客船とすれ違う筏舟の神経質そうな汽笛が響き渡る。家畜の群れが水のみ場へ下りてくる。そしてふたたび、静かに、静かになる。」

そして単に「美しい」ばかりではない、鉱石発見の苦労も。

「シーザーの名言「着いた、見た、勝った」で表されるほど、簡単に、やすやすと、とどこおりなく進むわけではない。その背後には驚くほど沢山の闘いがかくされていることが普通である。
それは、自分自身との闘い、たとえば自分の予想に個人的誤算が出たとき、また他人の不信やねたみとの闘いなどである。
「だれが発見したのですか」
よく聞かれる質問だが、この答えが一致することは少ない。発見は大勢の努力で登りつめた長い階段の最後の一段にすぎない。」

著者いわく、日本人が古木を愛するがごとく、ロシア人は石を愛するのだそうです。
以前に読んだロシアの民話「石の花」を思い出しました。

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