「石の思い出」A・E・フェルスマン著(堀秀道訳)草思社を読みました。
著者は20世紀ロシア(ソ連)の高名な鉱物学者。
彼が少年期からの石への情熱やロシア各地に鉱物資源調査に赴いた体験談を19の短文でつづった鉱物エッセイです。
冒頭の写真の孔雀石の小箱、伝説のダイヤモンド「シャー」など、うっとりとため息が出ます。ロシア、コラ半島のユージアル石からオルスクの碧玉まで、美しい文章で数々の石がつづられます。
そして詩的な文章に加え、化学者ならではの独特な言い回しがあって面白いです。
たとえばこんな表現。
「オレンジやレモンの樹は結晶中の原子の配列のように生前と植えられている。」
あるいは、畑に蒔く二種類の肥料(燐灰石とマンガン)を元素番号で呼び(15番と25番)、そのふたつと結びつきやすい金属を「友達」と呼ぶ。
なんだか元素たちがワイワイ遊んでいるような想像がふくらみます。
小川洋子さんの「博士の愛した数式」に登場する博士をちょっと連想しました。
そして雪花石膏(アラバスター)の壷を描いたこの文章。
「ほのかな月光のような光は石を通して石の魂にまで染み渡っていくかに感じられた。」
「石の魂」!
これが感じられる、著者のすばらしさ。
石からよみとる地球の記憶、自然の法則に対する深い敬意と愛情が感じられます。
本の中では著者は「これまでに、私のことをドライだとか人間味が薄いという人々にしばしば出会ってきた。石が私を、希望を、夢までも支配していた。」と語っています。
もちろん著者は人間に興味がないのではなく、恩師や尊敬すべき化学者の名前をあげています。
でも個人的には、物言わぬひそやかな石の声を聞ける著者のような人は、なまなましい人間関係には「うとい」くらいでちょうどいいのではないかなあと思います。
「ドライ」という他人の方が、想像力が足りないような気もしますが。
そんな著者が語る、天青石(てんせいせき・淡い空色の石で、清く透明な空の色を持っている)を採りに行ったときの話。
とても繊細で美しい文章です。
「夕暮れがせまり、左岸の広大な地平線が紅く染まりだしたとき、僕たちにもよくやく幸運がほほえみはじめた。小さな晶洞の中に、空色の美しい結晶がいくつか、青い目のように光っていた。
ボルガ川の春の宵、この魅力を知らないものがいるだろうか。
夕焼けの最後の輝きが消え、家々に灯りがともりはじめる。大地の鼓動が聞こえるかと思うほど、静かになる。どこかで、曳船の煙突の火が単調な音をたてており、ときたま、客船とすれ違う筏舟の神経質そうな汽笛が響き渡る。家畜の群れが水のみ場へ下りてくる。そしてふたたび、静かに、静かになる。」
そして単に「美しい」ばかりではない、鉱石発見の苦労も。
「シーザーの名言「着いた、見た、勝った」で表されるほど、簡単に、やすやすと、とどこおりなく進むわけではない。その背後には驚くほど沢山の闘いがかくされていることが普通である。
それは、自分自身との闘い、たとえば自分の予想に個人的誤算が出たとき、また他人の不信やねたみとの闘いなどである。
「だれが発見したのですか」
よく聞かれる質問だが、この答えが一致することは少ない。発見は大勢の努力で登りつめた長い階段の最後の一段にすぎない。」
著者いわく、日本人が古木を愛するがごとく、ロシア人は石を愛するのだそうです。
以前に読んだロシアの民話「石の花」を思い出しました。
http://blog.goo.ne.jp/straighttravel/s/%C0%D0%A4%CE%B2%D6
著者は20世紀ロシア(ソ連)の高名な鉱物学者。
彼が少年期からの石への情熱やロシア各地に鉱物資源調査に赴いた体験談を19の短文でつづった鉱物エッセイです。
冒頭の写真の孔雀石の小箱、伝説のダイヤモンド「シャー」など、うっとりとため息が出ます。ロシア、コラ半島のユージアル石からオルスクの碧玉まで、美しい文章で数々の石がつづられます。
そして詩的な文章に加え、化学者ならではの独特な言い回しがあって面白いです。
たとえばこんな表現。
「オレンジやレモンの樹は結晶中の原子の配列のように生前と植えられている。」
あるいは、畑に蒔く二種類の肥料(燐灰石とマンガン)を元素番号で呼び(15番と25番)、そのふたつと結びつきやすい金属を「友達」と呼ぶ。
なんだか元素たちがワイワイ遊んでいるような想像がふくらみます。
小川洋子さんの「博士の愛した数式」に登場する博士をちょっと連想しました。
そして雪花石膏(アラバスター)の壷を描いたこの文章。
「ほのかな月光のような光は石を通して石の魂にまで染み渡っていくかに感じられた。」
「石の魂」!
これが感じられる、著者のすばらしさ。
石からよみとる地球の記憶、自然の法則に対する深い敬意と愛情が感じられます。
本の中では著者は「これまでに、私のことをドライだとか人間味が薄いという人々にしばしば出会ってきた。石が私を、希望を、夢までも支配していた。」と語っています。
もちろん著者は人間に興味がないのではなく、恩師や尊敬すべき化学者の名前をあげています。
でも個人的には、物言わぬひそやかな石の声を聞ける著者のような人は、なまなましい人間関係には「うとい」くらいでちょうどいいのではないかなあと思います。
「ドライ」という他人の方が、想像力が足りないような気もしますが。
そんな著者が語る、天青石(てんせいせき・淡い空色の石で、清く透明な空の色を持っている)を採りに行ったときの話。
とても繊細で美しい文章です。
「夕暮れがせまり、左岸の広大な地平線が紅く染まりだしたとき、僕たちにもよくやく幸運がほほえみはじめた。小さな晶洞の中に、空色の美しい結晶がいくつか、青い目のように光っていた。
ボルガ川の春の宵、この魅力を知らないものがいるだろうか。
夕焼けの最後の輝きが消え、家々に灯りがともりはじめる。大地の鼓動が聞こえるかと思うほど、静かになる。どこかで、曳船の煙突の火が単調な音をたてており、ときたま、客船とすれ違う筏舟の神経質そうな汽笛が響き渡る。家畜の群れが水のみ場へ下りてくる。そしてふたたび、静かに、静かになる。」
そして単に「美しい」ばかりではない、鉱石発見の苦労も。
「シーザーの名言「着いた、見た、勝った」で表されるほど、簡単に、やすやすと、とどこおりなく進むわけではない。その背後には驚くほど沢山の闘いがかくされていることが普通である。
それは、自分自身との闘い、たとえば自分の予想に個人的誤算が出たとき、また他人の不信やねたみとの闘いなどである。
「だれが発見したのですか」
よく聞かれる質問だが、この答えが一致することは少ない。発見は大勢の努力で登りつめた長い階段の最後の一段にすぎない。」
著者いわく、日本人が古木を愛するがごとく、ロシア人は石を愛するのだそうです。
以前に読んだロシアの民話「石の花」を思い出しました。
http://blog.goo.ne.jp/straighttravel/s/%C0%D0%A4%CE%B2%D6