森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

シンプル、イズ・・

2014年10月04日 20時10分46秒 | 日記
シンプルに生きる。子供達を見ると実にそう思います。大人はそれに理屈をつけていきます。良い言葉でいえばそれが理論であり、賢さでもありますが、生きるということだけ考えれば、もっとシンプルでいいかもしれません。
1週間前のニューロリハセミナーで最後同僚の松尾氏が示した論文は、シュワルツ達の最近のもの。

http://www.pnas.org/content/111/30/10990.full

やりたいことに対して、「教養のため」「人類のため」「出世のため」などと、先に理由付けする人ほど長期的な結末が良くなく、そうではなく「好きだからやっている」というスタンスがベストだということです。
実は僕の仕事の意識は常に「好きだから」ということの連続でした。だからこれまでいろんな軋轢があったのも確かです。けれども「脳」が好きでたまらない。「リサーチ」が好きでたまらない。「歴史」が好きでたまらない。このスタンスを捨てた事がなく、このプロセスが今の僕の仕事に活かされているように思えてきました。
「患者のため」「組織のため」「学生のため」「業界のため」「お金のため」「家族のため」。。。などなど色々ありますが、こういう理由付けは、結果がそうならなかった場合、それを継続しないことになることにもなります(経験を蓄積すればその限りではないと思いますが)。
好きだからやる。実にシンプルです。対象者のリハビリテーションの概念に、これ活かせますよね。変に理由づけて、その人の人生を規定する必要性はありません。
僕自身、今日少し一人の時間があり、今のこの仕事のスタイルは「好きなのか?」という問いを自分に投げかける事ができました。




岡山から三宮に入っています。明日は「脳」と「身体」はシンプルにできていることを話させてもらいます。けれども論文(スライド)は多い自分のスタイルは貫きます。

研究センター着々と

2014年10月01日 23時46分16秒 | 日記
本日は大学院教育学研究科の「発達脳科学」の授業の1回目を行いました。今年から教育学研究科が開設され、私も健康科学研究科だけでなく、そちらの授業も行っています。今日は現場の教諭の方々が熱心に聞いてくれました。総論から「うつ」「社会的排斥」をとりまく環境と脳について、脳の構造と機能から話しました。
さてさて、今日もニューロリハビリテーション研究センターはにぎやかでした。嬉しいです。
私たちのニューロリハビリテーション研究センターも徐々に完成しつつあります。本日は定期的に上映しようと思う映画(DVD)が20本ほど届きました。もちろん、障がい、病気、脳、認知、感情、人生などを取り扱った名作たちです。アメリカ映画だけでなく、フランス映画、イタリア映画、そして日本。日本映画はとても素晴らしい。
畿央大学の建学の精神は「徳をのばす」「知をみがく」「美をつくる」です。
「のばす」と動詞がついた「徳」は、まさに人間が祖先からつながれてきた、そもそも持ち得ている「利他性」「社会性」です。これの実践は、センターをつくったことによる「時間」「空間」の共有からすでに行えています。
そして、「みがく」と動詞がついた「知」は、原石である学生や院生、あるいは地域住民の方々や現場の人々が、私たち研究者と互いに相互作用することで、知を創発するということです。石が石によって磨かれるように。これに関しても、センター専属の研究者のポスト(まだ足りないですが)をつくることで、徐々に可能になりつつあります。
そして、「つくる」と動詞がついた「美」は白紙のキャンパスから作り上げていく作業です。これには創造性がつきものですが、創造性を宿す脳の領域は様々な情報を統合するところでもあります。狭義のサイエンスや既存の学問のみでは新しい「美」をつくることはできません。そこに彩りを与えてくれるのが文化です。リハビリテーションは人々の人生を扱います。人生は人それぞれの文化でもあります。若い学生達には多くの文化や文化的活動を通じて幅広い心を涵養してもらいたいと考えています。
いつも音楽に溢れる研究センター(私がJAZZを流しています)。映画の次は文学作品です。彼ら彼女らには、様々な事象を扱った作品だけでなく、日本が誇る純文学にも触れてもらいたいです。その文脈や間を読み、創造性を養ってもらいたい。
JBLのスピーカーがくれば、定期的に映画を上映します!それはセンター前にイーゼルを構え、告知していきます。教養の涵養こそ大学生としてもっとも大切なものだと、私たちの信念に基づき教育させていただきます。


http://www.kio.ac.jp/nrc/

本年度のニューロリハビリテーションセミナー応用編を終えて

2014年09月30日 06時26分19秒 | 日記
一昨日、本年度の畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター応用編を終えることができました。北海道から沖縄まで300名を超える方々にお越しいただきました。皆さんにとても感謝しています。


このセミナーは全国で個人的に呼ばれる講演と違って、経験豊かな方々にも多数来ていただいているのが特徴で、いろんな経験をお持ちの方々と、私の居場所にてお話できることが楽しみの一つです。


また、このセミナー開催にあたっては、私たち研究者のみならず、事務や食堂の方々、大学スタッフ総動員でかかります。セミナーを成功に導くために共同注意するこの関係性は、実は内部の職場の空気を良くするコミュニケーションの場になっています。皆さんに参加いただけていることが、私たちの職場をも心地よくさせる、まさに「社会脳」の研究を現象学的に地でいかせていただいています。


さて、最後に皆さんに贈った言葉は、「臨床は脳のオンラインとオフラインシステムの融合によって拡がる」ということと、「好きこそ物の上手なれ」ということだったかなと思っています。今日はそのうちの前者で少し記述をしたいと思います。


今回の応用編は延べ330ページの資料に基づき、おおよそ700ほどの科学論文から「情動」「共感」「身体性」「記憶」「ワーキングメモリ」「思考」「注意」「姿勢制御」「歩行」「上肢運動制御」「道具操作」「運動学習」「社会的排斥」「道徳・倫理」「利他性」「意志決定」などの人間の機能について、主に神経科学の視点から話させていただきました。


700の科学論文は選択されたものですので、おそらくこの倍は調査している・されていると思います。

これらの知識は、来てくださった方々には「オフライン」の知識として、今後役立つのではないかと思っています。その逆の「オンライン」とは現在進行形の事象に対応する脳内情報処理です。これは臨床そのものですし、技術系のセミナーがそれに近い・・わけです。
今回のこの膨大な情報は脳のどこかの片隅に今すぐは理解はできなくても、オフライン情報として格納されているかもしれません。来るべき、未来の事象のために。


すぐさまの臨床に影響を与えるほど、脳は簡単ではありませんが、オンライン時の行動の修正のためのオフライン情報として、活かせる時がいつかあると僕は信じています。それのためには「努力する脳」をおこたらないことです。努力とは修行ではありません。使う(使おうとする意志と使い続けるという意志)ということです。




私の郷土の英雄・坂本龍馬。数ある彼の名言の中で、私が好きな名言。「人よりも一尺高くから物事をみれば、道はつねに幾通りもある。」まさにこれはオフラインによるものでもあるし、今回のセミナーの比較的鍵となった側頭ー頭頂接合部の機能でもないかと思っています。
上に記した情動からはじまる今回取り上げた人間の機能。リハビリテーションは「全人的復権」であるならば、その人間の機能に関する理解を関連職種はしておかないといけないと思うのです。


ニューロリハセミナー応用編一日目を終えて

2014年09月28日 00時00分37秒 | 日記




素晴らしい秋晴れに恵まれましたね。
出張先で「花子とアン」の最終回を見て、大学のニューロリハセミナーに。今日、はじめて注意だけにしぼった、その神経機構について話しました。テーマが注意である以上、聴衆者の注意のコントロールも実践しないと、矛盾をするため、アラートや誘導をどのように企てるか、真剣に考えたのでした。
おかげで、セミナー終了後、21時前から先ほどまで疲れて寝ていました。1時間の講演ではあり得ないのですが、やはり、ホストとなるニューロリハセミナーではチカラの入れ方が違います。
全国いろいろ講演でいっていますが、情報の提供の仕方を考えつつも、今現在(今年は2014年9月までの)情報を取り入れ、それを解釈し最先端でぶっ放すのは、このセミナーだけです。



1時間とという限られた時間でしたので、最後のdefaultと外因性なbottom up注意とのsalience swithと目標志向型の認知における前頭-頭頂ネットワークによるswitchの情報を詳しく説明できなかったのが残念です。これに関しては半側空間無視のときに話します。
私たちはよくある歪んだ解釈を極力せず、ありのままの情報(結果)を提供しようと心がけています。それが学者です。わからないことをわかったようにはしゃべりません。
例えば、養成校で関節運動学(基礎運動学)を学ぶ際、いきなり臨床家が臨むような、よく様々な講演であるようなびっくりするような歪んだ情報提供はしないでしょう(メソドロジーの講習会でよくあります)。それに私は閉口することがしばしばあります。そうした解釈は時に間違って伝達されることが多いわけです。脳を学ぶ(注意と報酬の関係性)とその辺りも理解できるでしょう。
実は私も外部で講演で呼ばれる時は、臨床家にうけがいいように、データ・手続きを説明せず、結果のみを出して臨床に結びつきやすい情報のみをフィルターにかけ、それを用いて解釈で話すことが多々あります。その場合、聴衆者の臨床家の方々にはとても受けもよいようですが、実はその自分があまり好きではありません。その場だけの腑に落ちる情報にとどまってしまうからです。腑に落ちるのはもっと先、そう自己の経験からで良いのです。臨床家の皆さんにとっては、先の臨床の現場でです。その場で腑に落とさせる手法は口がうまければできますが、本質的な腑に落ちるというのは自己の体験を伴っています。
僕の夢・目標は標準生理学のような教科書を理学療法学・作業療法学が完成させることができるかなのです。今の標準理学療法学・作業療法学をみてみると、その個人の解釈だらけになってしまってるのが現状です。それは本当に一般化されるのかと?になることだらけです。これでは学問として認められません。
解釈は最先端でなく最前線として議論という手続きで行えばいいと思っています。そのための対話だと思います。その場合は大いに私の解釈を加え、臨床との接点を考えます。しかしながら、それは個人的であり、仮説であり、一般化された公共的なものではありません。ニューロリハセミナーの講演(一方向性)では私の学者としての意識からそこはしていません。そしてうちのメンバーもそれを理解しています。私たちのやるべき仕事は解釈のもっと前段階にあると。
解釈的講義は、12月の臨床編で少し出る程度です。それを本格的にやるのは、症例を検討するニューロリハビリテーションフォーラムです。そこまでには関節運動学と同じように、絶対的な人間神経科学の基本的知識が療法士達には必要なんです。評価を関節運動学だけでなく、人間神経科学を用いてできるか、まずはそこからスタートしてみましょう。
巷に存在するセミナーの流暢さかつ綺麗さはむしろ疑ってかかれ!なわけです。自分の概念・理論を正当化するトリックなのかもしれないわけです。

皮がむけるということ

2014年07月24日 09時01分52秒 | 日記
昨日で畿央大学健康科学部理学療法学科4年生の臨床実習が終了しました。お世話になりました関係各位に深謝いたします。さて、学生の表情や振る舞い、そしてその心はどのように成長したのでしょうか。

自己は他者の脳によってつくられていく。脳科学は一人の脳の分析から複数の脳の分析という手法へと展開しています。学生達の脳は、いろんな人たちの脳、そして自分自身の日々更新される脳の影響を受けました。そして、そうした相互作用を通じて、自己意識の来歴がつくられてきました。

彼ら、彼女らにとって、社会という海は、専門知識や技術といった側面よりも、心を鍛える意味でとても大切な環境だったと思います。中でも、自己の一時的な感情を抑制し、未来にとって適切な行動をとる(背外側前頭前野)という大人の脳をつくりあげる意味でも、こうした実習はとても意味深いものです。この抑制はただ黙っているのではなく、適切な行動や言動に出る!ということです。

現代の若者は私たちの世代に比べて賢く、真面目です。けれども、真面目な反面、外からの揺らぎに対応できないこともしばしばあります。心に揺らぎをつくることは、来るべき大きな揺らぎに対応できる脳を形成する上でとても大切なプロセス(内側前頭前野の働きなど)です。

一方、学生達に接すると、楽しかったらそれでいいという風潮が少なからずともあります。一緒にやっているバンド・ライブ活動を通じても感じます。これは誰しもが経験してきました。私もとてつもないアホでした。

何かを成して行くというプロセスは、楽しさだけでは厳しく、時にそれには苦しさというプロセスがついてきます。その際、その苦しさというストレス因子と上手くつきあっていく脳(腹外側前頭前野の働き)をつくっていかなければなりません。一皮も二皮もむけるという表現は、一時的に我慢し目標を設定し直すという更新プロセスを社会という海で経験した証だと思います。

我慢するというプロセスは社会脳を形成する上でとても大事なプロセスなのですが、ここのところ、両親を代表に「恐い大人達(脅迫・強制でなく規律を重んじる)」に遭遇することが少なくなってきたようにも思えます。教育者側も友達感覚で接するような人が増えてきたのかもしれません。友達感覚で接するのは、一時的には学生のうけはよいのですが、それは互いにすぐさまの報酬を求める線条体の働きにすぎません。学生にとって厳しく、そして一線を置くという意識は、その学生の未来を思っての行動です。つまり、今、学生を楽しませるという報酬ではなく、未来の成長の図式を想定し、報酬価値を変更(眼窩前頭前野の働き)できる教育者というのが、本当の意味で重要と思います。

恩師と呼ばれるのはそういう事だと思います。卒業した何年か後に感謝されるので良いと思うのです。卒業後、彼らが真に大人になった後、母校と胸をはれる教育は「楽しさ」ではなく「厳しさ」から生まれてきたものだと思っています。

若者たちはまだ「何者でもありません」。だからこそ(未来を確実に予測できないからこそ)「夢」を持つことができます。夢を持つことはとてつもない「エネルギー」に変換できます。不確実性に生きる楽しさはそこにあります。夢を持つ若者たちを邪魔せず後押しできる「大人」であり続けるということは、今なお困難や不確実性に対して自己の身を置いている人間だと思います。だってほんとは、大人は若者大好きでしょ!?


高知の鉄板焼き屋「ミヤタヤ」のトイレ(笑)に飾られている言葉です。



徳川家康的躾

2014年07月17日 23時43分02秒 | 日記
先日、ある職場で、入職後すぐの、若い事務員の退職のエピソードを聞きました。むろん本人にもいい分もあるだろうと思いますが、所詮、そういう理由は理屈としての後付けです。脳はその前にすでに意志決定しています。理由はあとで言語として自己を防衛するためのものです。その意志決定はあまりにも「今」だけの報酬に引っ張られたものです。つまり、我慢することで報酬を先延ばしせず、今、楽になりたいという線条体に基づいた行動であるのです。

今日は理学療法学科と健康栄養学科の合同の生命倫理の授業でした。この授業はオムニバスで1回きりの授業ですが、それまでの教員の授業がどうであったか、私の授業を通じて評価しています。健康栄養学科全体の講義は今回がはじめてで、もちろん私のことなど知らないし、そして私が厳格な態度で授業にのぞんでいることも知る由がありません。

いくつか私をしらない学生による倫理を疑う態度・行動によって、私の雷が落ちたことは言うまでもありません。しかし、彼らはこれまで、そうした行動に対して、そのまま放置し、見て見ぬ振りをする大人と多くつきあっているのかもしれず、それによって、このような行動に出ているといった被害者でもあると思うのです。

学生の予測が可能な注意程度だけでは、危機的感情を揺さぶることができないし、それでは記憶にはのこりづらいです。おおよそ自己責任をとらない大人は自分の感情としての言葉でなく、三人称的に注意を払うことばを与えます。だから、彼らは不快な情動を強く起こしません。顔を見ればわかります。「怒るときは百雷がなるように怒れ!」、それによって彼らの表情を変えないといけないと私は思っています。そして、その自分自身のこころを経験し、そして我慢し、報酬を先延ばしするということを学習させなければなりません。

先に歩いている大人は、言動、表情、しぐさにて社会的行動とは何か、自己責任とは何かを身を以て教える厳格な意識を持たないといけないと思います。軽く楽しく学生と遊ぶ・勉強するだけでは、「大人」を学習させることはできないと思っています。こうしたプロセスを通じて、仕事に責任を持ち我慢できる大人がつくられていくのだと思います。

そろそろ徐々に始動

2014年07月16日 23時49分46秒 | 日記
本日は看護医療学科、理学療法学科、現代教育学科の授業日ですが、理学療法学科の授業「神経系理学療法学B」は、大学・神経系の秘密兵器の岡田洋平を先週より投入し、パーキンソン病の講義を行ってもらっています。彼の経験、知識、態度、どれをみてもミスター・パーキンソン(これをパーキンソンのキーパーソンといったりします)です。もう日本一ではないでしょうか。もちろん彼は人間性があるので、自分自身でそのようなことを思わないし、とっても謙虚なナイスガイです。ワーキングメモリは若干疑いますが。。。笑

現代教育学科も現在は脳イメージング装置の実験に入っていますので、冷水・前岡コンビで認知課題、コミュニケーション課題等、新しい研究センターで和気あいあいとやっています。授業中の笑い声が聞こえる環境、いいですよね。ということで、4月~5月はとてもハードな曜日の水曜でしたが、7月の水曜日は看護医療学科だけの授業ですので、非常に落ち着いてやれています。

今日もその授業にて、大住、若田のコンビにEEG、fNIRSのデータ採取をしてもらい、「他者の身体的痛みの共感時の脳活動」のデータをフィニッシュさせました。他人の特に親近者が痛みを受けている映像を観察すると右島皮質が活性化するといったThe 普通のデータを示したものだけでなく、海馬が活性し記憶がトラウマのように起こる者など、おもしろいデータになりました。もう一方は、女子が胸キュンする際の映像や、男子がドキッとするテレビ映像を観察しているときのデータです。面白いことに運動シミュレーションが起こっているように運動前野が働いています。ミラーニューロンシステムが作動しているのでしょうか。。

こうした実験に関する考察だけでなく、高次脳機能障害の事例や認知症の事例がキレる行動や、徘徊する問題を脳科学から分析し、あるべきケアを考えたり、自閉症の心の理論の問題を分析し、どのように関わるべきかを考えたり、運動器疼痛が慢性化したスポーツ選手の問題を脳科学から分析し、社会的な関係をどう構築すべきかを事例で検討しています。再来週にはすべてfinishさせないといけませんね。この科目も佳境に入ってますね。楽しく学んでいる表情がよいです。それもニューロリハ研究センターが与える環境だと思っています。

新しい研究センターになり、学生は常時そこで勉強しています。そして、すぐさま我々に質問にくることができる環境になっています。先生が仕事をしている横で学生が常時勉強している。良い環境に恵まれています。今日は空間性注意の概念と方向性注意の概念に関して質問を受け、前頭葉-頭頂葉-帯状回の注意システムと運動障害を伴う半球間抑制に基づく注意システムの障害について、そしてどう介入すべきかについて、そして、痙性麻痺と学習性不使用、さらには末梢組織の線維化の問題に関して、そしてそれに対する介入選択性について、数名が「腑に落ちた」ようでした。物理的に近い環境は徐々に教育的効果を示していくことでしょう。畿央大学が益々楽しみになってきました。


日本人としてのこころ

2014年07月15日 09時32分59秒 | 日記

久しぶりのブログ書き込みです。最近はfacebook記事が多くなってきました。時代の変遷でして。。


日本のサポーターのゴミを拾って持ち帰ることが世界のメディアで賞賛されていますが、私たち日本人としては何ら当たり前のことですよね。むしろ賞賛されてしまうことに違和感を感じてしまうこともあります。逆に言うと、日本人がゴミを持ち帰ったことに対して、日本人としてその日本人を「すごい」とか思ってしまっていたら、今の日本の教育はむしろだめな感いっぱいですよね。

仕事柄、外国に行く機会に恵まれると、街の汚さに閉口してしまうこともしばしばあります。先進国であろうと途上国であろうと、その変わりは大きくありません。街が朝の時間にきれいになっているのは、明け方に清掃する人の雇用が先進国では進んでいるだけです。マクドなんかそのまま食べた後のものを放置なんかは当たり前ですからね。そして、清掃の仕事に就く人たちへの偏見の意識も未だあります。階層性の間違った精神が根深いのです。

こうした違いは教育にあるのかもしれません。欧米の教育は、ある段階から自己の意識を育成し、自己主張を求め、意見交換の中で行うこともしばしばあります。こうした意識の芽生えが後のリーダーを構築していくことを前提にした教育手法です。一方、日本は「先生」からの教えを学ぶという、授業を聞くという意識・態度を涵養することが前提です。だから、日本人は主張しないと揶揄されることもしばしばありますが、むしろ、日本の教育の方向性によって、先の他人が出したゴミまでも拾うという意識を起こしたのではないかと思うのです。授業時間内は、座って黙って「我慢する」。我慢するという表現はネガティブに捉えられるかもしれませんが、今は耐え将来に蓄えるという視点では、「この心」の形成は前頭前野の発達のためには不可欠であることが近年の脳科学が示しています。だから僕の大学の授業も、「安易に」実技やワークショップには走りません。じっと座って聞くという精神の芽生えを意識しています。患者さんの声を聴く、臨床が上手く行かない時も、巷の誘惑にかられるものに飛びつかない、そういう人間を育てる意味でも。

主張する者ばかりが出てくると、中には先のことを意識せず、今だけの幸福を主張する人間が増え、いずれそれの意識によって日本がつくられてしまうかもしれません。子どもの頃でいうと、食事の間じっと座らせる、こんな何気のないことが道徳を芽生えさせ、本当の意味での自己犠牲を伴う倫理を教えてきたのではないでしょうか。

人間にはじっと耐え忍ぶ時が必要です。ワールドカップのドイツの優勝にもあるように。そして、その耐え忍び自己の心の痛みの形成こそが、他者の心の痛みをわかる人間になるわけです。ワールドカップをみていて、彼らのスポーツマンシップの心の本当の意味はそこにあると思うのです。

自己意識は他者意識がないと生まれません。自分だけでは生きていないのですから。そして無理やり、常に隣国への恐怖にさらされることで、競争・攻撃意識が高くなる欧米化する心を取り入れる必要はありません。文化を大切にした日本人を貫き、伝承すれば良いのです。

畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター

2014年04月21日 11時29分27秒 | 日記
畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター、出来つつあります!!僕らのイメージやデザインを快く受け入れててくれ、そして動いてくれている大学上層部、そして事務の皆さんに感謝します。いい感じのカフェラボが出来そうです。個人研究室は極力狭くして、広い場所で対話すること、これを目的としています。誰が上でも下でもない。研究者、臨床家、学生、院生、教諭、当事者、家族、社会、地域住民、子ども達~~~対話からいろいろ企て社会貢献をしていく、これにつきます!









ここ2日ほどのfacebook記事にて

2014年04月01日 00時28分49秒 | 日記
CIやってます、川平やってます、電気やってます、ボバースやってます、認知やってます、ロボットやってます、徒手やってます、装具やってます、手段だけが先走るそんな一方向視線の構図は私の時代で終わりにしようと思う。

身体と環境の相互作用によって、どのように行動がつくられ、そして外部、内部環境の操作、療法士の学習への援助ー課題設定によって、行動の変容が起こるか、そして行為システムの複雑性が創発されるか、そして志向性にまで影響を与えるか、そんなことを議論でき、当事者も含め対話できる社会へとむかえるように、流れをつくって終えたい。

臨床の先輩の方々だけでなく、新進気鋭の研究をやっている後輩にもおおいに抵抗され、風見鶏だとか、根拠はとか、批判されるとは思うけど、矢面に立つのは得意だし、まあなんとかなると思う。自分を守るために研究者になったわけでないし、ヤンキーだった自分が大学で仕事をしてるだけでも奇跡なわけだし。犠牲はある意味仕方ない。世の中のつくられかたはそうなっている。

いずれにしても、療法士のスペックはもっと大きいと思うし、そして効果量だけで判断しないやさしさを持っていると思う。

言い切ることよりも、迷うことが本当のやさしさなんだとおもっています。

重い文章になりました。すみません。公言するもんではないのでスルーしてください。

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昨日の書き込みは異様に反応をされだんけど、私が実は思っているのは、第2パラグラフの「身体と環境の相互作用によって、どのように行動がつくられ、そして外部、内部環境の操作、療法士の学習への援助ー課題設定によって、行動の変容が起こるか、そして行為システムの複雑性が創発されるか、そして志向性にまで影響を与えるか、そんなことを議論でき、当事者も含め対話できる社会へとむかえるように、流れをつくって終えたい。」であって、第1パラグラフではないのです。たぶん、そこに反応されたかたも多いと思う。

私としては、メタファーを使えば、第1パラグラフは塾の違いのようなもんで、それは表現や表出の違い(理論重視が根拠重視あるいは科学重視か現象重視)であって、宇宙から鳥瞰するとほとんどその差はないということ。一方で、人間は相当に賢い。だから、少々な?な方法が出てきたとしても、それには共感を得ない。だから、今ある様々な方法論はある意味間違ってはいないということ。ただし、正解ではない。ここに科学的態度の意味があると思っています。

先日、仙台で河島さんと話したとき、彼はいつも「歩行の人」や「研究者」と呼ばれる?と言っていた。現実、最初僕も思っていたし、それも間違いではない。しかし、直接会うと、「現象の人」でもあった。現象を科学的態度をもって吟味しようとする人というべきか。。難しい。表現できないのである。たぶん、僕にも「認知の人」というのがついていると思うし、別にそれは大きな間違いでもない。しかし、人間は環境や情報によってその思考や志向性が更新されるし、どのようなコミュニティーを形成するかでそれは変化していく。

こうしたバイアスが科学的関係を失わさせるというのは歴史をみても物語っている。いわば、国と国との対立関係のようなもの。今ある現象を共同注意できない関係である。また、臨床家、当事者、教育者、研究者、家族、他他、などなど、この垣根のバイアスも必要ない。この垣根の意識があるからこそ、思考停止が生まれる。クオリティの高い仕事は物理的距離と心理的距離が近くないと生まれない。そしてリーダーがピエロを演じ演出できるような環境。そこに気づかないとブレークスルーは起こらないと思える。人間はそれをシステム構築という戦略で乗り越えてきた。

今あるこうした信念対立は、その社会が安定しているから起こるものであり、互いに批判・否定を繰り返し自己(自己らの考えを)の価値を高くみせようとする戦略でもある。協力という関係が依然として生まれないのは、潜在的な安定の意識があるからである。そしてそれはどうせ変わらないという意識の下で起こっている意識によるものだと考えている。