森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

宮崎県認知運動療法研究会

2009年03月31日 08時08分57秒 | 過去ログ
宮崎県認知運動療法研究会

テーマ
「脳科学の進歩とリハビリテーション」
~ロマンティックリハビリテーション~

畿央大学健康科学部理学療法学科
森岡 周

日 時: 平成21年4月12日(日)
午前9時~午後3時半(午前8時30分より受付開始)

会 場: 九州保健福祉大学 F講義棟
宮崎県延岡市吉野町1714-1

対 象: 理学療法士・作業療法士・言語聴覚士・これらの専攻学生

参加費:セラピスト 3000円 学生 1000円 当日受付

懇親会:4月11日(土)19:00~延岡市内 4000円

プログラム(予定)

9:00~ 12:00 小脳のリハビリテーション 、情動・記憶
13:00~ 14:00 注意・高次脳機能障害 
14:15~ 15:30 症例検討・質疑応答

不安と期待が入り乱れる脳(こころ)

2009年03月27日 19時03分54秒 | 過去ログ
心が身体化する,そんな現象をここ1週間ほど経験している.
このような感覚は4年前以来である.
人生にはいろんな道があるが,少し休息をしなさい,という合図なのだろうか.

24日に脳ドックを終え,
25日は大学院博士後期課程の委員会.
そして,4年生に向けた最後のメッセージ的授業.
みんなからの質問を僕自身の経験に置き換えてはなした.

「不安」と「期待」が入り乱れる就職前のその心は
もう二度と経験することはないだろう.
この数日間を記憶に焼きつけてもらいたい.

今後,教育を受けてもそれはリカレント的であり,
もう社会に飛翔するこの気持はわかない.

揺れ動く心,いや~すばらしいと思う.

自分は体調が悪いながらもなんとか3時間ほどみんなと話した.

そのあと,夜は3年生の一部のゼミ生と福本ゼミ生らと懇親会をした.
何を話したかは覚えていないが,
「恋愛論」になったと思う.
恋愛とは「待つわびる脳」の究極だと思う.
WBCの結果も恋愛のようだ.
日本人として「待ちわびる」,その笑顔な自分を.

23時に帰り,カラオケの誘惑にも負けず,体と心を休めるようにした.

翌日はこれまた会議づくめ.




途中,三輪書店の濱田さんが来て,新著「脳科学と理学療法」を手渡してくれた.
また今後のことについても話し合った.

表現すべき諸問題はまだまだ数多い.

よき仲間とそれら問題をクリアするための手続きをはかり,
構築していくことがこれから大事である.

19時より大学院生(4月からM2)のメンバーの研究進捗を確認し,
はっぱをかけた.
まずまず順調であろう.

前向きに!とブログでよく書くが,
自分が前向きでないときは,
なかなかそのような文章を書くことができない.

「時に立ち止まる勇気」が必要なのであろう.



学術誌「Clinical Rehabilitation」の論文校正が終了し,
なんとか事務局に送った.

依頼原稿はまだ一字も書いていないが,
少し養生後に,書き始めようと思う.
そうでないと原稿に「気」が入らない.

質感を重視する方が大切である.




私が生まれる現象

2009年03月23日 23時57分41秒 | 過去ログ


たからのうみの、たからもの


体調という言葉はあるけど、
心調がすぐれないままに東京に向かった。
東京はまさに嵐のさまで、
私の心をかき乱したが、
新幹線の中で聴いたRockに癒された。
「新しい何かが俺のなかで生まれる」と・・・

土曜日は写真家 古谷千佳子さん との対話。
対談前の顔合わせ的&フィーリング確認のようなジャブ的雑談。

古谷さんの口から発せられる「夢」や「目標」という言葉、
それは、とっても前を向いている。
色んなところで自問されていると思うが、
その表情からはそれをエネルギーに変えている。
「夢」や「希望」そして「目標」という単語は
難しい言葉であり、概して、表面だけで発せられるが
古谷さんはそれを自らのからだで実践している。
そして、皮膚感覚で感じる毎日をいき、
そこから生まれる現象から「希望」を見出している。
内に向かわず、外に向かう、その行動力に
気持ちよさを感じる。
色んなことを小難しく語る評論家的人物はテレビでよく見るが、
そうでなく、自分の体で動いて感じた言葉を紡ぎだしている。

同年代を生きていることから、
ジェネレーション的話題になると方向性がそれるそれる。
それが心地よさを感じる。

自分を知り続けるという言葉は
古谷さんの言葉を借りると「細部を知ろうとしつづける」という言葉になる。

脳を学ぶ(1)では、
対象者の脳を知るために学ぶという視点で創作した。
つまり、リハビリテーションのための脳・神経科学入門などでは、
文献の羅列でいわゆる実学に直結するような情報を提供したが、
脳を学ぶ(1)ではその根本の脳は何のために存在するのかということを平易にかいたつもりである。

しかしながら、それはあくまでも対象者(患者)の脳や、
観ている人の脳を想定している。
すなわち、他者を観察する視点でしか描けていない。
脳科学が発展すればするほど、
脳の何が何の機能をしているかはわかるが、
それがわかればわかるほど、「私(私の脳)」とは何かが不明になる。
脳科学の進歩は逆に私とは何者なのかという答えを難しくしている。
すなわち、どこどことどこどこが働いていても
それを結んでも私にはなりえないことが明らかになってしまった。
時間と空間が変われば違う現象が起こる。

つまり、脳科学がいくら発展しても
現在のような導入の仕方であれば、
応用科学である教育やリハビリテーションの現場はまったく変わらないのである。

だとすれば、脳を学ぶ、脳を知るという手続きは、
私自身を知ろうとするプロセスをふまないといけないのではないか。
すぐれた科学者はいつもそれを自問しているのだと思う。
つまり、相手の脳を知ろうとする手続きという面だけでなく、
自分の脳を知ろうとする手続きを提供してあげないといけないのではないかと思ったのである。

脳を学ぶ(2)~古谷千佳子さんとの対話~では、
30枚の写真を観ながらお互いに対話を楽しみながら原稿に変えていく作業を行う。
つまり、1枚の写真からもいかようにも言葉を紡ぎだす人間は想像力を持っているということを紹介したい。
「そうとも見える」「そうとも読み取れる」「そうかも?」など、
人間があるモノをみたときの私自身の視点を提供することで、
読者にもその視点を喚起することで、
私の脳に気づいてもらいたい。

従来の医学書の戦略であれば、
想像力をそぎ落としてしまう。
それが医学だといわれればもともこうもないが、
私は「人間」と「人間」を研究している者であるため、
そんな小さな意見には動揺しない。

想像力は創造力の源。
美しい写真を見て、ただ美しいと感じるのでなく(だけでなく)、
そこの細部まで見て取れる(これは決して空間だけを言っているのでなく、時間、そして自らの経験、記憶なども含んでいる)ことが人間らしさ、そして私らしさを作っている。
そのことに気づいてもらいたい。

患者さんは何を感じているのだろう、子どもは何を感じているのだろう?
だけでなく、
それを観ている私は何を思っているのだろう、
私の感情は?など、私(自身)に興味を持ってもらいたい。
私を知る旅は、他者を知る旅になる。

一見、何を考えて写真家と?と思うかもしれないが、
他の領域の人たちから学ぶことは多い。
他者から私自身の愚かさを知ることも可能である。

こんなことをかいている私自身も大変脆弱な心をときにもつことがある。
今まさに自分の心の弱さを体感している。
このように生きていることも偶然なのかもしれない。


脳を学ぶ(1)も売れているが何人の方が付録を作成してくれたであろうか。
付録を作成するプロセスにおいて、私を知る。
そして、紙の弱さから心の儚さ、そして、作成した脳の軽さから脳の脆さを感じてもらいたい。


目の前の患者さん、そしてその周辺家族の脳(こころ)の儚さを推し量ってもらいたい。
一方、たくましく生きようとする脳の強さを感じてもらいたい。


大西さんの「ロマンティックリハビリテーション」の意味性も同時に感じてもらいたい。
そこに登場している人々は、未来のあなた、明日のあなた、愛すべき人の明日かもしれない。
セラピストは目の前の患者さんを常に自分自身に置き換える想像力を磨いてもらいたい。
そして、患者の家族をも自分に置き換える能力を。
イマジネーションはそういうときにも大いに役立つ。


リハビリテーションとはメディアなどであたかも美しいと表現されるが、
その現状は本当に美しいといえるのか?
「共同注意」の関係性は、いつも家族と患者ではないか?
自分の臨床・理念を正当化しすぎる嫌いが今の療法士にはあるのではないか?


ひょっとすると明日の私が目の前の患者さんかもしれない。


その覚悟を持つことが未来を切り開く精神エネルギーになるだろう。
本来はそのような教育を大学や養成学校でしないといけないが、
人体を切り刻んだ知識のみで終わってしまう。
これでは人間を観る知恵はわかない。
知恵は現場で得るものしかなければ、
4年間も教育はいるのか?と疑問が沸き立つ。


臨床実習指導者の方々にはその心を学生たちに教えてほしい。


さて、重くなるので・・・

古谷千佳子さんのブログに風景が掲載されています(私の顔はぼやかしてもらっている、ありがたい)。
彼女は海人写真家としてメディア「情熱大陸」にも取り上げられています。
今は、人とは?人と人との関係は?という視点で陸の撮影もしています。
しかし、それは別離なのものでなく、すべて自然という視点でつながっています。
人も地球上の生物であるし、その行為自体が自然なのだから。

オープン対談としては、京都の安楽寺
「祈りのかたち。」をテーマに対談を行います。
2009年4月18日の午後2時から4時まで[入場料500円]を予定しています。
追って、このブログでも紹介します。

遊び感覚でどうか!来てください。
医学モデルでない脳とは何かを探索する機会になるかもしれませんし、
まず、そのお堅い脳(たとえばセラピスト脳や教師脳や学者脳、はたまた母親・父親脳など・・・・)をやわらかくするのにもいいかもしれません。

普段、芸術や自然に戯れているひとはやわらかい脳を持っているかもしれませんが、
そうでない人はぜひとも来館していただき、
そして哲学の道をゆっくりと大地を踏みしめながら、
そして息吹を感じならが歩いてください。


なお、5月か6月にも畿央大学にて「冬木学園プロジェクト」でも行う予定です。





自然の中で暮らしている人たちの暮らしの中には、先祖供養、家族親戚の健康祈願、大漁・豊穣祈願、自然崇拝といったいろいろな行事の形式をとった「祈り」や「願い」の営みが連綿と織り込まれてきました。自分を超えた大きな存在を信じる気持ちを心の中にもった人たち。祈ることは自然と繋がることであると同時に、祈る人たちどうしが人間として繋がることでもあるのです。

私は…私たちは、そんなふうに祈ることができるのかな?

人の心のなかに自然と現れる「祈り」とは?

心のなかの自然とは?


まあ、基本的には写真を観ての「おしゃべり(強調)」です。
男と女の脳の話になるかもしれませんし・・・


明日は「脳ドック」に入ってきます。





言葉はいらない

2009年03月20日 18時15分28秒 | 過去ログ
3月18日(卒業式前日)


卒業式リハ


学部生からいただいたケーキ


ゼミ追い出しコンパ



3月19日(卒業式)




記念撮影


4回ゼミ卒業生


大学院研究室修了生


大学院生からいただいたケーキ


卒業ゼミ生からいただいた花束


卒業パーティー in 日航ホテル


謝恩会 in gram


二次会 in 新世界じゃんじゃん


三次会 in karaoke


卒業ゼミ生からいただいた記念品(ベースアンプ)


卒業ゼミ生からいただいた色紙


卒業ゼミ生からいただいた花束


理学療法学科卒業生一同からいただいた花束


理学療法学科卒業生一同からいただいたクッション


大学院研究室修了生からいただいたバッグ


みなさん、感動をありがとう。
出会えたことに心より感謝します。

今は毎年必ずくる焦燥感と燃え尽き症候群です。
「せつない」感覚が残存します。

教員で本当によかったと思う時です。

重ね重ね、ありがとう。








3月病

2009年03月18日 11時08分22秒 | 過去ログ
このシーズンはなんか3月病だ(教員ならではの雲のような感覚).
今日は卒業式前のいろんな打ち合わせがある.

昨年一昨年もそのような感じだ.


明日は,学部学生の卒業式と大学院学位記授与式である.




「悲しいから泣く」のでなく「泣くから悲しい」のであれば
みんなで「泣こう」

そしてそれを思い出にしよう.

毎回,情感あふれる卒業生退場前に
同窓会入会の手続きがある.
それが大いに豊かな感情に水を差すが・・・
それに気づいているのは俺と松尾先生だけなのか?

心を研究している二人にしか感じられないのあれば,
それを気付かしてあげないといけないのかもしれない.





自力と信念

2009年03月17日 23時59分52秒 | 過去ログ
昨日(月)は今年度最後の講演を行う。
今年度も週末を駆け巡った。
こうした外部受託講演は自らの学術(のみ)活動の一環としては
決して意味深いものではないが、
人とふれあい、話し合うことで、
自らに叱咤激励することができる。
すなわち、自らの感情を揺さぶることができる。

昨日は200名以上の学生たちが神戸大学に集結し、
「脳のリハビリテーション」について知った。
最後の質疑応答の1時間半に意味があるのだが、
その前に講演は終了したものとして帰った学生が残念だ。
アフターに意味を持つことが世の中には概して多い。
双方向性になることは、
実は自分の感情に出会うきっかけになる。

世間に流れている「認知運動療法」
それが人の脳を介して伝達されると、
本来の意味を失っていることをよく感じる。
人の受け売りで導入し、
自らを護身する人が増えると、
ゆがんだ情報になる。
それも脳と行為の仕業である。
意識の志向性についても意識を言語により
なんでも顕在化すれば良いのだという風潮もある。
これも本来の原著を知らないのに
誤った解釈のもとなんでも記述するということになる。

一方、それを逆説的にとらえる人も
自らがそのような認知問題にも解答できないのに、
どうして患者に導入するのだという視点もある。
これもバイアスである。
それはもはや大人の脳と身体を持っているからだ。
子どもの脳と身体はそのようにはまとめない。

いずれにしても、よきわるきも「カスケード」現象である。
「ハブ」となる人の解釈が断定型であればネガティブカスケードを起こすし、
「ハブ」となる人の解釈が仮説証明型であればポジティブカスケードになる。

昨日は途中、神経科学の実験を紹介したために難しさが出たが、
軌道修正し、あとはメッセージを伝えた。
本来ならば、その難しさについてきてもらいたいが、
まだ近接していなく、自分で勉強して欲しい。

先日、学生の症例レポートを見て、
19年前の実習中の自分のかいたレポートと変わらないことを話した。
「変わらない」ということはいいことなのか?
良くないことなのか?
自分の胸に手をあてて考えて欲しい。
現象(病態)の観察手法が変わらない(一方向)であると、
治療は変わらない。
小脳に病態があっても、大脳に病態があっても、
結局出てくる障害像は「支持性低下」であったり「バランス能力低下」であったりする。
この「細分化」ない観察手法で果たしてリハビリテーションは科学といえるのか?
「知」とはあらゆる角度・視点からも考察できる頭脳から生まれる。
何かを知る、あるいは知るという手続きは「細分化」作業である。
これは要素還元的意味でない「細分化」だ。

「ウルトラマン」についてあらゆる角度から語れるということと、
「椅子」について語れるということ、
そして、「立位」や「運動」制御についてあらゆる角度から語れるということ、
それは同じである。

患者さんに興味を持つということはもちろん大事だが、
私たちの「動き(人間だけでなく生物全体を含めて)」に興味を持ち、
単なる関節運動学だけの知識でなく、
いろんな視点からその「運動」を細分化して語れる頭脳を自らに課して養成してもらいたい。


学生はおおむね楽しそうだったのでよかったと思う。
感じるから楽しいのである。
驚くから楽しいのである。
そういう豊かな感情は自分の身体(反応)を通じて生まれる。
また感想をお聞かせください。

レセプションでは、畿央大学の学生だけでなく、
兵庫医療大学、京都大学、神戸大学、佛教大学の学生たちと談笑した。

色んな「大学に来て、教えてください!」
というありがたい言葉をちょうだした。
「理学療法学科」っていうものは必修ばかりで自由度がない。
講座を開放性にすれば、もっと学生がクリエイティブになるかもしれないのに。
ある狭い範囲の「知識」は、広い範囲の「創造」を奪ってしまう。

う~ん、難しいものだ。
もぐりで授業を受けるっていうのが古きよき時代の大学であった。
それぞれの大学に看板の人たちがいるので、なんとか実現できないものか・・・
例えば、循環なら兵庫医療大っていうように。
以前にそんな話をした記憶がある。

帰りは、うちの大学の学生と熱い話をして、
これからを託すメッセージを言って、少しのみ、帰った。

今日は会議&会議&会議な一日であった。
対談準備が滞っていること、執筆がまるっきり進んでいないことが気になる。

しかし、本格的に実験して原著論文を書き、
それなりの国際誌に新年度も投稿するという自分自身に約束をした。


今年は講演、総説はもちろんのこと、
著書として表現したい仕事が5つほどある。
さらに、原著も2本はと思っている。

大学院生の指導ももちろんするが、
あえて「自力」とでもメッセージを送っておこう。

メールでよく質問が来るが、
自分に甘いとでも言葉を送っておこう。
質問すればするほど、「自力」が失われるのも事実だ。
相手に実力をさらけ出すことも必要だが、
時に、それをふせ、自分で解決することも大事だ。
それが自信につながる。

学位とはそういうものである。

やさしいのが「仇」になることもあるといつも僕は痛感している。
が、それが私らしさでもあるので、なかなか変えられない。
まだ教育がわかっていないから、「変えられない」のだろう。
わかったときが変わったときなのかもしれない。


空間と時間と私~世界との接点~

2009年03月15日 22時20分17秒 | 過去ログ
12日は午前中に評価実習に関連する会議を行い、
その後、大学院博士後期課程の後期試験の会議であった。
その後、一路、村田病院に向かい、
協同医書出版社の中村編集長と会い、
ブレイン・サイエンスをコアとして、
今までの症例を中心に据えた読みものとは
大きく視点を変えて「case study」表現することを
確認した。
感じない身体でバイパス構成するではなく、
感じる身体でバイパスを構成する。
それに関する「科学」と臨床的「根拠」を示す時期に来た。
歩くために歩く訓練をするのではなく、
歩くための必要な脳機能を再編成させるための訓練を呈示する意味について、
科学を用いて言及していかなければならない。

多少、今までの私の執筆本は、
時代を創るための目的のために、
主張が強いところがあったが、
そういう私自身の仮説的主張、
あるいは、少々「擬似科学」的出張を払拭する意味でも、
次の村田病院のメンバーと創るものは、きちんと示したい。

鶴橋の「空」に行き、「ホルモン」を食し、大阪を感じる。
空に入ると、卒業生の辻口君と藤岡さんに会う。
桜橋渡辺病院の送別会のようだ。


表現者は本当の意味でのサイエンスの深さを知っていたとしても、
それを読むものは自己脳の解釈によって、
オカルト的(自己中心的)にとらえてしまう。
これはもちろん私の脳もそう(思いいれが強くなればなるほどそうなる)だし、
今のセラピストもそうだし、
研究しているセラピストもそうだ。
世界への見方は私の脳が作り出す産物である。
現象の見方も、経験により構成されるものであるが、
自らの脳が損傷されれば、世界の見方も変わるのである。

情熱は時に爆発的な仕事をしてくれるが、
時に冷静な自分を呼び起こす自分であることが、
生きていくための技術なのかもしれない。


週末は大阪を経由して岡山で講演を行う。
ここ最近、準備不足から消化不良な講演であったが、
久しぶりにまともな講演(寝不足が功を奏した?)が出来たと思う。
朝日リハの教員たちからお褒めの言葉をいただいた。
「かむ」こともなかった。


珍しいタイトルなので垂れ幕をパシャリ
脳を育てる~であったなあ~・・・



最後は、最近良く考えている視点である「現在の理学療法士は未来の理学療法士に理学療法を託す責任がある」という私の覚悟を示した。
技術伝承のみでない「教育」を目指していただきたい。
彼ら彼女らに10年後、20年後託すことが私たちの責任である。
それは確実に今より「進歩」していくことが前提なのである。
それが「医学」に埋め込まれた精神である。
「医」とはそういうものなり。

講演終了後、一息つき、
昨日は大阪の旧友と会い、
久しぶりに「Olivier Le Francois」で食事をした。
大阪の下町の、ここだけは「Paris」の空間と時間と私である。




追伸:Binkofski Fは、手の認知機能や失行研究で有名な認知行動神経科学者です。私の著書にも引用が多く出てきます。この件については、彼らの研究に詳しい私の研究室のメンバーの信迫君と河野君が対応します。


たしかな感触

2009年03月11日 17時34分50秒 | 過去ログ
昨日は大学院博士課程後期の後期試験であった.
おかげさまで私学ではあるが,定員を超える志願者であり,
地道に協力して頑張ってきた履歴を感じる.
修士課程も大幅に超え,
いわゆる関西圏にある国公立の一流大学ではないが,
それでなくても,コンテンツやソフトに集合する実績を示したのではないか.
そのためにも努力しているともいえるであろう.
何のために?といわれると焦点はぼやけるが,
いつも僕が思っているのは,
卒業後,母校愛を感じる学生を育成したいと考えている.
そのためには,母校の教育研究者が,
社会すなわち患者や患者の家族の利益に貢献するような
活動をしていることが大前提なのである.
大学院の受験もそうだと思う.

現在のセラピストは未来のセラピストにセラピーを託す責任がある.
だとすれば,それを根本から否定せずに,
育てるという視点で,現場において教育してもらいたい.
「向いていない」と壁を作ることは,誰でもできる.
行動や言動の背景にある思考や認知はどのようになっているであろうか?
その学生の精神は?そしてどのような経験をしてきたのであろうか?
などなど,もちろんセラピストも人間であり,
情動が巻き起こる.
それはそれで,全面的にぶつければよい.
子どもたちは,その感情を今まで経験してきてないのなら,
その経験をさせればよい.
経験の構築はそこから生まれる.
こころの差異は,他者と自己のこころの違いから感じ取る.
その差異を感じさせ,行動のシミュレーションを築く.

感情も認知も最終的には自意識として統合される.
それが私自身,私らしさになる.

「わかる」ことは「かわる」こと.
変わる一人称体験を臨床実習では経験してもらいたい.
私にしかない感覚・感情を大事にしてもらいたい.
そうした人間性を大切にしてもらいたい.
自らがそれを体感すれば,目の前の患者さんの目に見えない感覚・感情をも汲み取ることができるセラピストになるであろう.

キネシオロジーやリハビリテーションの概念や予防は知って当たり前.
その上を目指してもらいたい.
なぜなら,リハビリテーションは進歩し続けないといけないからだ.
10年後も20年後も同じ傷のなめあい的エビデンスを示した治療が
繰り返されると思うと,
「ゾッ」とする.

「時がたつにつれ,脳の可塑性の原理に基づいた新しいリハビリテーションのアプローチの潮流が生まれ,それがさらに臨床場面で発展していくようになると思われます.そのためには,まったく新しい考え方をもった研究者,学生,セラピストが必要になってくると思います(Nudo R).」

教育が変わらないといけない.
教育研究者は挑戦し続けなければならない.
生きてきた歴史・経験を伝えるだけの伝達者に対しては断固として否を唱えたい.
圧倒的なスピードで挑戦しいる「背中を見せ続けてやれ!」

「何を見ても患者の治療に結びつけるように思考せよ(Perfetti C)」
治療学である以上,人間科学である以上,人間復権のために.
プロフェッショナルであるとはそういうことである.
そうでないと未来を開いて創ることができない.
評価を議論しているセラピストが多すぎる.
もっと治療を議論しろ!と,やわらかく「やさしく」言いたい.

新しいものが台頭すれば,批判が起こる.
それでいいのである.
それが意識の生成である.
池に石を投げかけ,波紋をつくるようなもの.
誰かが石を投げないと,波紋は生まれない.
その「誰か」が未来を切り開く.
地動説にしろ,明治維新にしろ,違いを起こさなければ進歩はない.
これは患者の身体にもしかりである.
リハビリテーションこそ,人間を考える哲学である.


「リハビリテーションのための脳・神経科学入門」を出して
もうすぐ4年になる(おかげさまでまだ動いているベストセラーとなった).
本日,実習に行った学生(堀さん)からうれしい言葉が.
患者さんからの言葉から「先生の偉大さがわかりました」・・・・これはどうでもよい.
(学内では決して偉大ではない,難しいことばかりしゃべっている者として認知されていると思う.人間は決して単純ではない・・・)

いや,そうではなくて,
「リハビリテーションのための脳・神経科学入門」を患者さん自らが読んで,
その治療を受けようと一念発起したことを聞いたことがうれしかった.

その患者さんは他の病院でリハビリを受けたが,
思うように歩けず退院し,
リハビリの限界を痛感していたときに,
「リハビリテーションのための脳・神経科学入門」に出会い,
「身体を介して脳に働きかける治療」を実践している病院への入院を許可され,
実際にその治療を受ける(自分一人ではどうにもならない,リハビリには人の援助が必要)ことで,自分の身体の気づきが生まれ,
それにより歩くことがスムーズになったことを患者自らが
自分の口で学生に語ってもらったことである.

自分の本が,そのように患者の心を変える.
その出来事をつくってくれた,恩師や,出版社,
そしてその治療をしてくれたセラピスト,
そして何よりも,
それを信じて挑戦しようと思ってくれた患者さんに感謝したい.

今は直接的に治療できない仕事についているが,
このような形で貢献できるとは思わなかった.

この本を書いた(経験した)私にしか感じ取ることができない手ごたえ.
これこそが「強化学習」の基盤である.
おそらく,患者さんもその治療を受けて,
その手ごたえを感じ取ることができたからこそ,
そのような言動が生まれたのであろう.


今日は看護医療学科の「感情体験の脳科学」の資料づくりを始めた.
まずははじめの第一歩である.

「リハビリテーションのための人間発達学(大城先生編)」はまだ手つかずである.
すみません重森先生水池先生,代わりに謝っておいてください.


最近,ブログのアクセスが1500を超えるときがある.
この前は「ジェロ」よりも上だったときがある・・・

責任の重さを感じる.
先日,長崎大学の沖田先生からはPT界の芸能人といっていただき,
昨日,講演依頼でメールをいただいた首都大学東京の網本先生からは,
多分日本で一番お忙しいと思いますが・・・といっていただいた.

多少,身体が壊れそうと思うときもあるが,
意外に丈夫な精神と身体であることを感じる.
まさに心と身体を二分しないのを自分自身で体感している.
「私の感覚」,この大事さを感じ取ることができる身体を持っていることは幸せなことだ.
患者さんにもこれを感じてもらいたい.


今日は本学助手と今から飲みです.
たまには身体で動いて吐き出してあげないと脳だけで妄想して完結してしまうから,
他人の意見を聴き,時にぶつけることで自分を知ることができる.

大学の教員は「妄想族」が多いからね.
自分は,違う「・・・」であったが.