森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

時はこころを浄化するのか、それとも闇の中へ潜在化するのか

2008年08月30日 17時52分14秒 | 過去ログ
今週は熊本より帰り、院生の論文、アジア学会のポスター、他の学会抄録の手直しなどを行った。

大植君の異種感覚統合に関する原稿はリバイス、非常に好意的にレフリーにとらえられよかった。また、大植君の内部意識に関する研究の投稿原稿もトレーニングにより、良くなっている。アジア学会のポスターにも目をやり、送り出した。

川崎君の身体認識と姿勢制御に関するレフリーのコメントは、
結構細かく書かれ、勉強になっていると思う。修正原稿を楽しみにしている。

河野君の運動イメージに関する研究は、
論文化され、あとはこの研究の意義に立ち返り、
何のためにやるのかの目的を明確化することが大事であろう。

これは谷口君のプリズム順応に関する研究も同じである。
早く両方ともOTに関連する雑誌への投稿を。

高濱君の加齢と固有感覚、藤本君の運動イメージと言語に関する研究論文は、
まだ修正の余地がある。
アジア学会後、高速道路走行で行ってもらいたい。

信迫君はすでに終了し、アジア学会を楽しみ、
そして、レフリーを楽しみに。
早くNeuroreportの原稿を完成してもらいたい。

林部さんの動作観察における視覚的注意の質的な違いに関する研究は、
当該学会へ登録した。
あとは、結果の分析に詳細さを加え、
論文化してもらいたい。
これについても、PT,OTの研究の悪い癖の
本質的に明らかにされているものと明らかにされていないものの吟味がまだない。
それをしたうえで、目的が明瞭化される。

藤田君の知覚学習の研究の英語に目をやり、同じくアジア学会に送り出した。
これもあとは論文だけである。

前井さんの認知症に関する研究も大詰めである。
彼女のポスターは美的センスに充ち溢れ、また文章がうまい。
良い能力を今後ものばしてもらいたい。
あとはオーラルかな。

院生の論文を見て、修正するのも根気がいる。
M2の12名の多さがここにきて響く。
学部生10名の卒論が重複するのももうすぐだ。


アジア学会への登録は7名が行い、
今頃幕張でエンジョイしているだろうか。
親分は奈良でお留守番しています。
結構、優雅です。
同僚もすべて学会発表しているので。

親分は来週から12月20日前後まで土日がすべて講演などで埋まっています。

M2の出入りと同じぐらい、
来年度、入学を希望している大学院受験生が今週は7名研究室まで来た。

志を持つことはよいことである。
未来は、確実に、成長した姿を投影している。

自分の方はというと、誠心書房の「臨床実習」に関する分担著書を一気に仕上げ、
Temiの原稿、10月のシンポジウムの原稿、9月の島根のコース資料、論文査読、そして、懸案で放置していたClin Rehabliのリバイス原稿などを行った。

Effect sizeの算出など普段行わない解析を行い、新鮮だった。

ただ、南江堂の分担執筆の修正原稿にてこづっている。
これは頭脳でなく、こころだ。
知でなく情の面で。
どうも難しく書く癖ができており、初学者にわかるようには書けなくなっている。
いまさら初学者とは何か?とも思うが、
そんな議論をふっかけても、何にもならないので、
従うときにはしたがっておこう。
要は、そこにこころは存在せず。

学内の仕事(もちろん大学院の指導も学内ですが)はシンポジウムのスケジュール検討や、ポスターデザイン検討、
そして、本年度から始まった看護医療学科、健康栄養学科、理学療法学科の枠を超えた1年時からの病院実習(チーム医療ふれあい実習)の実習終了後のグループワークならびに、その発表に立ち会った。

人生におけるいくつかのタームに8割ぐらいは遭遇し、
成長したのではないかと思う。

社会は人を育てる。



WSOのホテルを吟味し、ウイーン―プラハへの心を寄せる(無事登録されているようだ)。
プラハは下手するとパリよりきれいかという印象が9年前にある。
あのときは、ケチって、ウイーンから入らず、リンツという町から入り、
途中、国境越えに往生した。
まだ東欧のにおいがして危険な感じだったが、
今は様変わりしているのだろう。

時と共に。

時はこころを浄化するのか、それとも闇の中へ潜在化するのか。

この1週間の忙しさはこころをどこかに向かわせた。

しかし、一瞬、心の穴というものが存在する時間がある。

これは、さびしさなのか、むなしさなのか、せつなさなのか(日本語は豊である。)

いや、そのようなことばで語ることができない何かだ。

いずれにしても、

門下生の

K. Oue, T. Kawasaki, H. Takahama, S. Nobusako, H. Fujita, M. Fujimoto, C. Maei !

ACPTでの成功を祈る。

もちろん共同演者のみんなも。





近日、公開原稿

2008年08月29日 23時56分34秒 | 過去ログ
前倒しして、Temiの原稿(巻頭言)を掲載します。
これを読む方と、会員は重複している方々も多いと思いますが、
どうぞ、発行された後もレイアウトされた原稿を再度目を通してもらえればと思います。

ほんの短い間の、30分ほどの兆速タイプでしたので、
幾分、修正すると思います。


これを読んで頂いている方々に先行ロードショーではなく、
先行掲載です。

原著論文でないからいいでしょう。
著作権も大丈夫ですし。


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信念を持つ自分、そして迷走する自分、それによって生まれる幸福

森岡  周(畿央大学)

人は自分の生きてきた道を肯定する傾向がある。歩んだ道が長ければ長いほどこの心情は強固になる。だれしも、自分の歩んできた道を否定されたくはない。ましてや、自分自身からもその道を否定されてしまえば、自分の経験は何であったのかと自暴自棄になる。だから、誰しも自分が歩んできた道を根本的には否定しない。否定したくはない。人はだれしもが認められたいと思う。これは大人の場合、他人にではなく自分が自分に認められたいという心情である。人は生まれてきてまもなくして、他人と出会う。他人から見られていることを感じる。生まれて間もない赤ちゃんは母の温かい眼差しに喜びを感じる。幼稚園の時に自転車に乗れた瞬間、父の微笑んだ表情に喜びを感じる。いつしか、その人から見られる喜びは、人に認められる喜びに変わる。そして、それは他人に認められるといった外のみを意識するのではなく、いつしかメタ的に自分自身に認められる(自分自身を認める)内への意識(報酬)へと変わる。だから、大人は自分自身の歩んだ生き方まで否定されるとそれは感情的になってしまう。

患者は自らの身体で生きてきた道を突然なる病気によって否定される瞬間に出会ってしまう。その心情は計り知れないし、今健康な身体を持っている私には、その心情を共感できるはずがない。なぜなら、その身体を生きていないからだ。その身体を生きているのは患者自身である。患者自身がベクトルを変え、その身体を全否定せず、その身体でどう感じ、どう生きるかを考える。そこからが人間復権のスタートになろう。

自分の生き方を否定されることは何も患者のみではない。セラピストも同じである。自分が習った事、自分が感じた経験、能動的に学習して生まれた信念、これらは、自分の一人称の経験から生まれたものであり、外の人からは決してすべてを推し量ることができない。他人ばかり気にせず、自分の信念を持つことは、受け売りのセラピーとならず、実にすばらしいことである。我が故郷の英雄である坂本龍馬は「世の人は 我を何とも言はば言へ 我なす事は我のみぞ知る」という言葉を残している。これは、「人がなんと言おうとも他人の意見に左右されてはいけない。自分のする事は、自分のみが知っているのだ。」という意味である。信念を持ち、情熱を持って事に接すれば、他人が何を言おうが関係ない。その信念を貫くだけの情熱と情報(論理的根拠)を更新しながら持ち続けることは、このカオスのようなリハビリテーション業界を生き抜くために必要なのかもしれない。

しかしである。その信念は時として、暴走し、秩序を乱す場合がある。信念は人に生まれる心である。心には物理的な法則などない。その信念のみでそれと違った信念を持つ他人に議論を吹っ掛けても、その相手は自らが生きてきた縄張りを侵されると思い、不快となる。全く知らない最近接領域にもならない用語を連発され、それがどのようなものであるかを予測できないと、反射のみでそれに対応(排除)しようとする。反射は運動のみならず、情動にも起こる。そういう神経メカニズムの知識を持ちえて、認知神経リハビリテーションを実践している人も、そんな自分にいつしか出会っていないであろうか。ここでも坂本龍馬のことば(これは「竜馬がゆく」で司馬遼太郎が着色したものであるが)を紹介しておきたい。「もし議論に勝ったとしても相手の名誉を奪うだけで、人の生き方は変えられない。」「相手を説得する場合には、激しい言葉をつかってはいけない。結局は恨まれるだけで物事は成就できない。」

先日、二年間闘病生活を続けた母親が亡くなった。その闘病時の医療体制において血気盛んな私は異論を唱えた。それは自らが生きてきた道を貫くためだ。三人称ではない母親の闘病は時に私から理性を大いに奪った。しかしながら、それが患者の家族の心情なのだろう。そういう立場になって初めて実感した。祖母の闘病生活にはそれは感じなかった。今振り返ってみると自分の選んだ道は正解なのだろうかと思うときがある。いや、闘病中もいつも自問自答した記憶がる。その激しい感情はネット上に公開し、時に第三者からいさめられることもしばしばあった。心が迷走したのである。本当に自分が選んだ道を母親は喜んだのだろうかと。ここでもくどいようだが、坂本龍馬のことばを引用したい。「『・・・しかない』というものは世の中にはない。人よりも一尺高いところから物事を見れば、道は常に幾通りもある」。事象を多面的、多角的に見る。そして、人の何倍もの書物・文献を読み、水準を変え続ける。迷走する心に出会うことは、時に自らの方向性を修正するためには大切である。一方、母親に対峙し、私に異論を唱えられた医師やセラピストはそのような波紋が生じることによって違った意識に出会えたのではないかと思う。波紋が生じない意識は生きていない。

人は自分が考えている以上に、想像を絶する位に、複雑である。迷う心を持ち続けること、それこそが未来を開拓していく心となるのではないかと思う。「これはこうだ」と決めつけてしまえば、それは科学ではないし、自分の成長を自身でブレーキをかけてしまうことになる。ましてや、教育の場面においては、コピーの生産となり、ファシズム的集団の形成となってしまう。認知神経リハビリテーションに携わっている人も知らぬ間にそれをしているかもしれない。歴史は繰り返されているように感じることもある。それを超える科学や理論に出会ったとき、それを喜ばしくも思う謙虚な精神を持ちえている人間は豊かである。冷静さを失えば、自らによってブレーキを踏み進展を止めてしまう。そのブレーキは自分には見えない。もうひとりの自分を作り、その彼/彼女が教えてあげるか、はたまた仲間が忠告してあげるか、その「ことば」こそが、人が人を幸福にさせる関係性であると思う。

人と人との関係性に物理的な正解はない。だからこそ、人の心は大きく揺らぎ、過去に経験したことのない揺らぎに遭遇してしまうと、予期できないために、不安が生じる。未来が全くもって予期できないからだ。これは患者の心にしかり、セラピストの心にしかり、そして、今の子どもたちにしかりである。豊かな社会、豊かな自分、豊かな未来を少しでも予期(期待)することで、不安は解消される。脳はそのような仕組みになっているのである。

セラピスト自身が未来に生きている自分を感じ、そして思いながら、それを患者に感じさせることができるセラピーはきっと人や社会を幸福にさせるのではないかと思う。

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現在の私の心境でした。

明日になれば変わるかもしれません。

未来に生きる人間。
現在に生きる人間。
過去に生きる人間。

私は未来に生きる「強い」人間でありたいと思う。

チャンチャン・・





平成20年度 畿央大学健康科学研究所・大学院共催シンポジウム

2008年08月28日 17時59分00秒 | 過去ログ

健康科学研究所・大学院共催シンポジウム速報

平成20年度シンポジウムの概要が決まりました。昨年度の健康科学研究所シンポジウムは「健やかに生きるために ~脳と心の科学からの新たな挑戦~」というテーマで実施しました。今年度は健康科学研究所と、博士後期課程を来春開設しようとしている畿央大学大学院との共催で、脳科学分野の研究の最先端で活躍される研究者の方々を招いてのシンポジウムを開催します。

 9月上旬には詳細を掲載しますが、案内送付をご希望の方は kikaku@kio.ac.jp まで、「研究所シンポジウム案内希望」と明記して案内送付先をお送りください。

日時 2008年10月18日(土)13:00~17:00

会場 畿央大学

特別講演

 柿木隆介 (自然科学研究機構 生理学研究所 統合生理研究系 感覚運動調整研究部門教授)

 テーマ「様々な神経イメージング手法を用いた人間の脳機能の研究」

 

話題提供

 壇一平太 (食品総合研究所 食品機能研究領域 食認知科学ユニット 主任研究員)

 荒牧 勇 (未来ICT研究センター バイオICTグループ 計算神経サブグループ 研究員)

 森岡 周 (畿央大学大学院健康科学研究科 主任 神経リハビリテーション研究室 教授)

 

入場料 無料

奮ってご応募ください。

 

 


人のこころの温もり

2008年08月27日 21時55分17秒 | 過去ログ
久しぶりにブログ更新。
それにも関わらず、昨日はアクセス数が900を超えている。
皆さんにいろんなメールをいただきました。
強靭なハートを持ちえていますので、ご安心を。
心の揺らぎは大きく波のように打ち寄せるが、
時間とともに太平洋の荒波から瀬戸内海のおだやかな波へと変化するであろう。

今年の8月は高知に3回帰省するという事態であった。
奈良に仕事に戻ったり、講演に戻ったり、バレエコンサートに戻ったりであった。
3回目の帰省中に母親の訃報を聞き、
熊本へ8時間かけて向かった。

人は人を幸せにするために存在している。
その心を、人の死を通じて肌で感じた。
記憶が走馬灯のように脳の中で駆け巡り、
人の一生ははかないが、他人の脳の中で生き続けると心底思った。

小学校の時から母ひとり子一人の自分にとっての肉親。
自らが親となった今、命の尊さを、死をみとるという教育によって、
感じてもらえればと、親心ながら思った。

今は平穏な毎日を取り戻しつつある。
8月中にやらねばならぬことを書き出せば、
13もの仕事(原稿書きなど)が出てきたが、
なんとかあと3つまでにこぎつけた。

この2~3日は院生もいままでと変わりなく来室している。
昨日からは次年度から研究室に入るものも来室している。
来年度のM1も10名を超えそうだ。

仕事に一生をささげた母への償いと思い、
今は仕事にがむしゃらに立ち向かうだけである。

仕事終わりに「竜馬がゆく」を見れば自省しっぱなしじゃ。

「薩摩がどうした、長州がなんじゃ。要は日本ではないか」「われわれ土佐人は血風惨雨の中をぐって東西に奔走し、身命をかえりみなかった。それは土佐藩のためであったか、 ちがうぞ」「薩長の連合に身を挺しておるのは、たがが薩摩藩や長州藩のためではない。しょせん君たちは日本人にあらず、薩摩人、長州人だ」

いやいや、すか~とする。

「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は 我のみぞ知る」
「俺は昨日の俺ならず」


よさこい、よさこい。


夢のまた夢

2008年08月15日 21時14分11秒 | 過去ログ
                          
太平洋を眩しい眼差しでみる坂本龍馬













つゆとおち、つゆときへにし よさこいが 高知の事も ゆめのまたゆめ

秀吉のパクリです。


よさこい大賞:ほにや

前夜祭グランプリ:十人十彩

金賞:とらっく

審査員特別賞:上町

そして武政栄策賞:帯屋町筋

昔は主流、最近では亜流のArt Wave

よさこいは時代とともに十年一昔になる。
今は和調が主流。
ほにやが少しずつ変えようとしている。
今年のテーマは「大正ロマン」のようだ。
はいからさんの世界が広がり、ジャズできた。

しかし、どの地方車(装飾した先導者)には、
プロミュージシャンの1コンサート分のPAが搭載されているために、
爆音で聞き取りにくい。
中央公園バージョンなら聞き取りやすい。


今年は帯屋町筋では広末涼子を見ることができなかった(ドラマの関係で)。
その代りに男前な弟を見ることができた。

四国銀行では島崎和歌子が先頭だったらしい。

ちなみに後発の「YOSAKOIソーラン」の大賞をとったチームをリンク。
なんか違うでしょ。


龍馬のように、力をいれずに、見せようとせず、余裕をもって、みなと楽しもうぜよ。

久しぶりに桂浜に行ったら龍馬はまぶしかった。










祭りはコンテストじゃないき。