10月30日(火)18:00~20:30
テーマ:「認知理論に基づいたリハビリテーション介入」
講 師:森岡 周 (畿央大学)
奥埜博之 (摂南総合病院認知神経リハビリテーションセンター)
対 象:院内の医師、看護師、セラピストなど
※畿央大学臨床実習施設に対する出張講義(派遣講師)の位置づけで行います。
下手に寝ると、余計にしんどいので、このまま起きておくか。
そのためのブログとなりそうだが、
本を読み始めると、自然と眠りにつき、朝、気分が悪くなるかもしれない。
予想脳である。
ネガティブな経験は時に記憶をよみがえらせ、行動を制御する。
それに負けてしまうのも脳。
これも生体の組織化の証。
doctor courseの科目の検討は、masterの時よりも意外と楽だったな。
masterのときは、グアムで3日間、考え抜いた。
なぜ、グアムかというと、理由はない。
たまたま、バカンスに仕事が入ったというわけである。
いよいよ、今週に入った。
今週から12月中旬まで講演が10本ぐらい入っている。
依頼原稿の締め切りも3本、そして、本などの編集作業が重なり、
大変さが目に見えるが、そんなに卑屈ではない。
自然体で生きれば、何とでもなると思う。
それよりも、原著を2本書きたいのだが、その時間がとれないのが卑屈になりそうだし、新たな本の構想もいくつかでてきた。
これを形にしたいが、これにもある程度の注意の集中の時間が要る。
1ヶ月ほど雲隠れしたいものだ。
ライブや、シングルカットでなく、
スタジオに入り、シングルを作り、アルバムをそろそろ生産したい。
back painが激しく、中でもlow back painが・・・
新幹線生活の繰り返しなので、バイオリズムのようにこのpainがやってくる。
慢性痛の一種なので、身体図式にずれが生じたときになり、それを補うために、
他の支持器官が作動し、ますます悪循環となる。
さらに、意識化におかれると、いてもたってもいられず、一瞬の緩和のために、それを刺激するので、炎症が起こる。
ますます悪循環。
意識化から遠のけたい。
そう思い、大学の学園祭へ。
1周しただけで帰る。
理学のバンドを少し聴く。
そういや去年は、星城の越智先生が来てたな。
ちょうど、腰の緩和のために、一日中、音楽を聴いていたところだ。
X-Japanの復活というニュースが先日あったので、
久しぶりに、Weekendをチョイスした。
Hideはもういないが、もっと残念なのが、Taijiだ。
Taijiが在籍した時代が一番いい。
彼のbassはビリーシーンとは言わないが、邦楽のロック(ロックに限るよ)のベーシストとしては、まあまあ抜けている感がある。
そのテクニックを著作権問題もあるが、音楽pvを見る意味で重宝しているyoutubeから久しぶりに見た。
フュージョンやジャズプレイヤーのベーシストを除けば、Taijiはあるラインであると思う。
ビリーシーンにも共通するように、ギタリスト的であることは否めないが。
いわゆるベースでないので、そこはご勘弁。
それは、チョッパー奏法にもいえるのかな。
学生時代にカシオペアの鳴瀬と、マーカスミラーに憧れ、右手親指MP上にかたい突起みたいなものが(豆の大きいやつ)出来たが、今はない。
左手の指紋は消えていたが、いまはある。
ロックを聴くと、時間を忘れる。
おかげでこんな時間ながら、腰に爆弾を抱えながら、大学院の科目を検討しないといけなくなった。
今からやるか、朝やるか、ジレンマだが、朝やると断言すれば、やるはずがない自分が想像できる。
人間とは情けないものだが、それはまだ余裕があるということだ。
ブルーバックスの脳研究の最前線、みんな読んでね。
そこには、ジレンマが存在している。
患者の立場にたち、何とかしてあげたいという気持ちがみられる。
上司たちは環境に適応し、それが順応というかたちで、脳をはたらかさなくても生きている。
脳を働かす(問題解決や勉強、そして思考)ことはストレスになるから、それを避けたい。
人間の生きていくためのこれも能力なのだが、新人の彼女は、その希薄なこころを読み取り、やるせないこころが発生し、ジレンマが生じている。
、
それが道徳的ジレンマになってしまうと、その根っこを取り除かなければならない。
人生をつくる仕事、それがリハビリテーションセラピスト、道徳的ジレンマを新人PTが感じていると、その根を取り除くこと(これがひと:他者のこころだから難しい)をどうするか・・・
若いときにはだれもが感じるジレンマだ。
そのジレンマは、本当は、30になろうが、40になろうが、続いていかないといけないが、なかなか、それがネガティブなストレスになると、続かない。
脳が防衛のために自己組織化するからだ。
そのジレンマを楽しむためには、システムの位相が必要だ。
そこまで、この業界も行っていないようだ。
いまだに昔はよかったと、昔話に花が咲く。
1年目の彼女には、まだ返事はしていないが、一緒に勉強していくことで、
そのジレンマが楽しさに変わるのであれば、協力は惜しまない。
卒後教育、大学院教育は、この教育の世界にいる以上、王道の仕事だから。
その際、プロフェッショナルを目指すことだ。
一流のシェフを目指してほしい。
一流のシェフは、イタリアンならイタリアン、フレンチならフレンチを極める。
何でも屋はいない。
家庭の主婦を目指すか、シェフを目指すか。
すべてに60点か、あるひとつに100点か、後者でそれを患者が選択できる世の中がおもてなしの世界観になる。
ひとつを極めるとはメソドロジーなのだが、その際、サイエンスでは広い視野を持つことが求められる。
フレンチのシェフだろうが、和をサイエンスの視点から見て、それを分析・思考する。
フレンチレストランで和食を出すのでなく、和をサイエンスとして分析し、それをフレンチに置き換える。
そういう仕事だ。
これはメタファーである。
このメタファーを自分たちのリハビリテーション治療に置き換えて考えてみるとどうか。
時間は止まっていない。
行動を起こすことだ。
しばらくぶりのブログ更新でした。
今は岡山にいます。
もう年末になりますね。
時のたつのは年々早い。
フランスから帰国して10年がちょうどたった。
からだのサインであろう。
木曜は西の京高校の体験授業を2つ行う。
本当は、リハビリテーションとは、という視点で、ホモハビリスを例に出し、その意味を語ろうと思ったが、生徒たちの目を見て、そのまま「社会脳」の話に切り替えた。
この多感な時期に、少々、さめきった目は、論理脳に支配されている。
それは、予測のきわみであり、普段、高校の授業に驚きがあまりないのだろう。
いつでどこでも、インターネットとメールさえあれば、なんとかなる。
という視点が、大学生のみならず、高校生まで蔓延している。
先生の話を聞くより、そのほうが前頭葉が楽だからだ。
だが、ネットは情報が氾濫しており、自らの脳に選択性のきわみがないと、情報の統合を間違ってしまう。
その見極めは、年輪に比例する。
年よりは、見極める能力が優れているはずだ(はずだ)。
そして、枝の知識が豊富だ。
たとえば、ある一つ(幹)のことを説明しても、その枝の数は年とともに比例するはずだ(はずだ)。
だから、質問して、聴くという、教育が成り立つ。
インタネットの調査では、それがない。
枝がない幹しかない教員(指導者)は、それはそれは貧弱な木(脳)かもしれない。
年輪を持つひとというのは、幹が太く(信念を持ち、直接的な知識)、枝が豊富(間接的な関連のある知識)なひとだ。
ニューロンの軸索と樹状突起みたいなものか、はたまた、ニューロンとグリアの関係のようなものか。
会議を終え、少し嫌なこともあったが、そういうことがあることで、これからの人生を考えることができる。
このまま、これを繰り返すべきなのか、という岐路がもうすぐな予感がしている。
自分に勝負し続けたいが、自分本位な年でもなくなりつつあり、それが若さを奪っているのかもしれない。
先輩たちはこの葛藤をしてきたのだろう。
しかし、ほんの少しだが、優れた先輩たちは、その両方をしているのだ。
勉強・研究し続け、研究を教え続けている。
この両方を100%の中に50%と50%にするのでなく、100%を200%にしているのだろう。
ここが凡人と非凡の分かれ目なのかもしれない。
とはいうものの、仕事を抑えるということも、脳のトップダウン機構として必要だ。
ボトムアップな興奮性ニューロンだけで仕事をしていると、それは混線を招く。
そろそろ、トップダウンに抑制をかけたいが、サービス講演がてんこ盛りになりつつある(同僚に任せたいのも事実)。
金曜は岡山で13時から14時半まで講義し、少しキレモードになるが、落ち着かせようと必死だった。
15時の新幹線で小倉へ。
18時より21時まで小倉リハで講義。
脳性まひから急遽、先に自閉症を終わらせておこうと思い、変えた。
「こころ」をもはぐくむ小児のハビリテーション。
そのために必要な感覚とは、そして、皮質と大脳辺縁系の機能とは、について語った。
翌日、熊本まで母親を見舞いに行く。
ベッドでの生活は変わりないし、半球がないのも変わりないが、陳述記憶のすごさには驚く。
時計を買う約束をしていたが、買ってなく、正月に買うと約束した。
毎日見る天井の風景は、母親のこころにはどのようにうつっているのだろう。
子どもの自分には、なかなか共感できるものではない。
共感とはともに感じるというものであり、その感覚経験がない限りは、発生しない。
生半可に「その気持ちわかります」なんていわないことだ。
その心は、本当かどうかもわからない。
医療者はだまされている場合がほとんどだ。
患者は、心を自らの脳のなかに封印し、表出されることばは、三人称として変えられたものがほとんどだ。
医療者の目をみれば、そのように改変せざるをえない。
どんなに大脳皮質がやられても、扁桃体がある限り、医療者の目をみて、読んでいる。
ことばが話せなくても読んでいる。
まだ、23歳のときに担当させていただいた頭部外傷の患者さんがいつも思い出される。
若い自分には、そんな余裕がなかった。
脳科学について知識としてもっていれば、別の接近ができただろうに。
とても悔やまれる。
脳やこころのことについて知識を持つということは、
生きていくうえでとっても大切なことだ。
これは、医療者としてでなく、一人間としてだ。
そうであれば、虐待や凶悪な犯罪などの対応は、なんとななるはずなのに。
祖母も依然として入院。
もう僕がいっても誰がきたのか記憶がない。
それでも生きている。
生命とは何なのか、母親と祖母によって、自分自身の精神、思考が変わった。
運動は良い、コミュニケーションは良い、などと普段、三人称で言っているが、
老いて賢くなる脳とは、脳を使わないでも生きていけるということなのか。
年をとると無関心になるが、それは予測脳のきわみであり、わざわざ使わないでも生きていけるという精神が宿っているのだろう。
それを強要するというのは良くないな。
しかし、先ほどの高校生が高齢者になったときは???と思うと、少々怖い。
前頭葉を活動させるため! と大義名分で、いろんな脳を活性化させる方略が本になっているが、それがストレスとなれば、良くない。
運動にしろ、コミュニケーションにしろ、それがポジティブなデータとしてよいとはいえるが、ネガティブなデータももちろん存在する。
その個人の主体性に大きく影響してしまうのである。
人間がラットと違うのは自意識が存在しているからだ。
だから、運動を介入しても、コミュニケーションやドリルを介入しても、
それがストレスとなれば、マイナスになってしまう。
介入には、いつも表裏があることを、忘れてはならない。
それは自分自身の生活にもいえる。
これだけ、全国各地を飛び回って、講演していると、コミュニケーション能力は優れ、前頭葉はおそらく相当使っているのだが、そのコミュニケーション過多がストレスになる場合もある。
借りすぎには注意(やりすぎには注意)。
そのブレーキは、最終的には自分自身。
それは客観的にどうのこうのということはできない。
対話から、その意識を作ることが、セラピストや教師には必要なのかもしれない。
博多で仕事をして、先ほど帰ってきた。
土日が仕事というのは、もう2年ぐらい続いているが、月曜に授業が入っていることが多く、少し憂鬱になる。
水木あたりにしてほしい。
そんな気持ちにいつもこの夕方から夜にかけてなる。
まあ、がんばります。
午前中は、nacとのアイカメラ(EMR)の確認。
西谷、杉本の二人のゼミ生はこの時期に破損状態で、
大変だが、なんとか11月末発表へ向け進めてもらいたい。
午後はneuro系に1本、投稿。
久しぶりにcover letterを書いた。
いやいや、久しぶり。
なんか新鮮だった。
その勢いで、図書館に行き、
久しぶりにnatute, science, nat neuroscieneを手に取り、
social learning関係のpaperを読み、少しまとめようと思った。
摂南から奥埜、中野、三鬼君たちが、午後半休を取り、
福本先生の指導のもと、加速度計を動かした。
認知、脳、のみでなく、
行動の変化からoutcomeをとり、
アメリカの連中を説得する時代に来ている。
そんなの無視しろと、M氏にはいわれそうだが、
そんな時代でない。
20歳代は、それに果敢にチャレンジし、
逆輸入すればいい。
アコードワゴンみたいなものだ。
さてさて、10月末までにposture系のpaperを2本投稿できればだが。
11月~12月は北海道PT学会を皮切りに、
近畿PT学会、愛媛PT士会、東京アドバンス、
名古屋・痛み研究会、大阪・光イメージング研究会、
福岡シナジー研究会、と毎週講演が続く。
その間に、摂津市にSAPS、今からコワい。
今年は科研を出さないですむので、
11月はじめはPT学会だけの準備でよいか。
院生の研究をそろそろ進めないといけない。
明日は、9時から会議、
10時半と12時50分から西の京高校の体験授業。
そしてPMも会議が2本。
昨日、今日がオアシスと思うのだろう、
明日になれば。
さすがに、週末はしんどかったので、
火曜、水曜と心底休もうと思ったが、
休まなくてよかった。
研究/実験をして、英論文を読み、考え、
論文を書き、投稿することが、どうもオアシスみたい。
授業・講演は「他者」が存在するから、
その分、「前頭皮質」の活性がつねに求められるので、
つかれるし、時には逃げたく、
距離をおきたくなるのだろう。
研究と授業は表裏一体なのだが、時に違い、
それがストレスになることもある。
授業だけなら、本気で学生と付き合えるが、
「最高学府」として、甘えさせてもいけない。
興味を持ったことは、
どんどん、研究するのが大学(学生)だ。
1回生のときから、自らで実験を動かす。
そういう学問のニオイがするキャンパスに変えたいが。
東大の赤門をくぐると、そのニオイがいつもする。
周りの環境がそうさせてくれるのかもしれないが。
借り物でない、それが大事だ。
学生のブンザイで大学をあ~だこ~だ
自分の欲求のまま否定するのは良くない。
不条理には徹底的に建設的に意見を述べる、
それには大いに賛成だが、
何も大学に寄与していない者がそれをいうのはナンセンスだ。
寄与(実績)を残してから、
意見は言うもの。
外野から言ってもしょうがない、
大学という名詞を借りているに過ぎない者もいるが、
早く内野にきてもらいたい。
学風を作ってもらいたいものだ。
今日は、すばらしい一日だった。
研究がある程度済んだのである。
posture系のarticleを95%仕上げ、Neuroreha系のarticleを98%仕上げた。
後者は、明日確認し、submitする。
次のstudyはどんどん進んでいる。少々強引かもしれないが、終わらすことができるarticleは、無理やりでも終わらせないといけない。
一歩、前に足を進めれないからだ。
院生の研究整備をしながら、自らの科学研究費補助金研究を大いに進めないといけない。 もう年度末までやることがびっしり。
講演などの出張も3月までほぼ満杯なのだ。
pain, cognition, body image, brain imagingのkeyでのstudyも早急にdataを採取しないといけないし・・ 研究をする自分は好きだ。
受験勉強(僕にとっては公表)でなく、「知る」という探求を沸きたてる、一連の研究活動は、楽しい。
一見して、「楽」とは(らく)を想起するが、たのしむ、とは「苦」も含んだ包含した霊長類の営みであるだろう。
研究は、今すぐに答えはでない。
自分が生きている間に、それが「到達」することはできないかもしれない。
しかし、明確な「光」が見えないから「到達」とは何かもわからない。
人生みたいなものだ。
いつか、「光明」がさすのだろう。
結果の見えない世界は、今すぐには結果がわからない世界、
そして、それは自らが可塑的変化を起こす可能性を秘めた世界。
偶然に出会う世界だ。
今の大学の専門教育は、みんなが同じ職業につくという「結果」が見える世界、
だから、勉強がつまらないのかもしれない。
それは、一種の大学受験のための勉強の精神と類似しているのかもしれない。
実習を通過するため、国家試験を通過するため、とは目標が明確化な分だけ、探求するこころを奪い取るのかもしれない。
教員および指導者が「これはこうなんだ」という決め付け教育をしてしまうと、
未来はないかもしれない。
一緒に「わからない」ことを「わかろうとする」、この共同注意機構が未来を創るのかもしれない。
今の常識は30年後の非常識。
それが、発展だ。
すぐに答えを求めてはいけない。
簡単な世界は疑ってかかれ。
複雑な世界にこそ、真実があるのかもしれない。
シンポジウムの記事です。
導入、そして、これから話す「感情発達」「認知発達」「行動発達」「コミュニケーション発達」の序論と
「神経系の発生」そしてその「進化」について説明する。
目がまだ受動性な者がいるが、
専門学校だろうが、
そのあと、大学院などに行かないのなら、
それが自分の人生のとって、最高学府となるのだから、
生徒ではなく学生として存在できるように、
接近していただきたい。
昨日、朝早い新幹線で奈良に。
本学の健康科学研究所開所記念シンポジウム
http://www.kio.ac.jp/images/news/pdf/shinpo_seminar.pdf
の準備に携わる。
今回は看護医療学科開設記念シンポジウム(日野原重明先生)、
昨年の冬木学園60周年記念シンポジウム(養老孟司先生)とは違って、
一般には知らせておらず(新聞広告などはしてない)、企業、研究者向けに行おうと意図したものだが、
実際は地域住民もこられ、
どこに焦点を置くかが大変むすかしいシンポジウムになった。
伊藤正男先生、来学。
80歳にきわめて近い先生は、まだ現役で、
そして、仮説を貪欲に生み出し、
貪欲に解明していこうとする、
仮説検証型研究者であり、
関係研究より、因果研究をこよなく愛している(つまり科学することを愛する)。
その人柄も横柄でない。
生理学者のお手本のような謙虚な方であった。
群馬の全国PT学会の特別講演では、
EBM研究よりも仮説をガイドする研究の意義を語ってくれた。
それこそが、世界のトップランナーの研究者の魂である。
最初に、自意識(一人称な意識)の解明の難しさに触れられた。
その壁が乗り越えられない理由を述べられた。
自由意志問題である。
そのあと、おそらくローゼンバーグの知見を説明され、
神経可塑性について、環境の重要性について語られたが、
ヒトとラットの根本的な違いについても触れられ、
だから環境だけの問題でない意識の問題の重要性がヒトには内在し、
それが神経可塑性に修飾するため、
マウスやラット実験がそのまま人間には置き換えることができない事実に触れられた。
Hard problem & easy problemである。
チャーマーズがそれを提言して、10年たつが、
だれもその領域に達していない。
そこには進化プロセスが重要な視点ではないかということも言われた。
マクリーンの3つの脳の視点がやはり役に立つ。
ノーベル賞を受賞したエックルス博士に師事した伊藤先生ならではの展開だった。
聴講していた方の何名がその流れについて意識したかはわからないが、
次の世代への、ブレークスルーを意識した流れだったと思う。
そして、長期抑圧から内部モデルへ。
内部モデルの逆モデルと順モデルを考えているとき、
その時、どうも役に立つ神経学的な地検は大脳―小脳連関の解明ではないかと僕自身は思ったところだ。
また、側性化の進化過程の意味についても大いに意識した。
Theory of mind, autism, context, meta cognition、など、
解明していかない事実を最後に提言され終了した。
そして、いつまでも付きまとう、「わたし」とは何か?
つまりホムンクルス問題である。
フリスの絵が最後の絵であるのは昨年のPT学会と同じだった。
「認知」の解明はある程度めどがたった。
つぎは「意識」の解明である。
「理学療法」は「認知」前の「行動」レベルで停滞しているのも事実であり、
こうした学問が我々人間をみるために、
重要な視点であるという、
教育への展開(コペルニクス的転回にならざるをえない)。が必要だ。
そのために、brainとなる教育者・研究者の生産をしないといけない。
それが、僕がこの世界を引退しているときかもしれない。
その使命は最近感じている。
自らの研究を封印してまでも、
プロパガンダに徹さないといけないのも感じている。
両方したいが、周りにそういう仲間が少なすぎる。
ある一線を越える、ブレークスルーする、人生にはその感じが大事だ。
その後、金子先生、森先生、山本先生から、
視覚(光受容)、食感、味覚から脳・神経を考えるといった話題提供がなされた。
この全然違う視点を司会者である僕がまとめるのは並大抵な作業でなかったが、
いつもどおり何の準備もせず、
その時々のワーキングメモリを総動員して、整理した。
勉強とは、記憶と今の現実(感覚)をつねに比較照合すること、
それが、リアルタイムで要求されると、
脳が相当に鍛えられる。
そういう場所にいられることはありがたい。
いつまでも勉強できる(学べる)ことは、
この世に生れて幸せなことだ。
日本にいる環境がそうさせてくれるのだから、
先人たちの履歴の賜物だと、感じ、それを尊敬できる。
そういう環境がない世界中の人々たちにもおなじように、
その場を供給できるよう、社会科学者たちは研究を続けないといけない。
各先生方とのディスカッションは、長くなるので、筆をおきたい。
実は、相当に全身疲労なのである。
その後の交流会では、企業の方、企業研究者、他大学の学者と相互の意見交流ができ、
本学が社会に寄与できると、
なんとなくであるが、
未来が拓けてきたような感じがした。
画一的なものは人間のこころには存在しない。
物は物理かもしれないが、
物を見るひとには物理では証明できない現象に遭遇する。
神経を学ぶものはそれを痛感しながら、
分子から社会まで研究しているのである。
疲労全開ながら、今日は本学入試のお仕事。
今終わり、原稿締め切りの原稿、
まだ書いていないのかといわれそうだが、今日仕上げ、送信する。
まだ、3本原稿が、それでも残り、本の編集など、まだまだ続く。
週末の講演も3月10日前後まで、まだまだ続く、全部埋まってしまったのだ・・・・・・・・・
時代を生きているものとして、前向きに進む、といいたい。
寺山修司的に自らに「振り向くな」といいたい。
前にしか夢はない(後ろには夢はない)。
おもてなし、おもてなされ、その繰り返しが、ヒトとヒトとの人間コミュニケーション。
それは生涯鍛えられる。
おもてなす、それを忘れない人間であり続けたい。