森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

2009年11月30日 09時19分59秒 | 過去ログ
金曜日、岡山に向かう途中にヒルトンバケーションクラブに。
いつもは近鉄を利用するがこの日はJR香芝駅から。
ヒルトンホテルのロビーはクリスマスモードでいっぱいだった。
ツリーでないのがよい。
一度、入ってみては。

14時40分より、岡山で講義。
ディベート授業。
「わかる」が大切か「できる」が大切かについてそれぞれの主張を聞く。
このように確実でないものに対する論議、
そして、それに対する主張、
そして何よりもどこかでの決断が必要なものは、
これからの人生で大いに起こる。
理学療法も一緒であり、
患者の幸せを創るためには、あるところで決断が必要である。

論破する際には、片方の主張を批判せずとも、
自分の主張の良さを示したほうがよい。
片側の主張に対する批判になると堂々巡りになり、
結局は両方とも大事に落ち着く。
学会での論議も同じになってしまっているのが残念である。

20時前に授業を終え、
いつもは飲みにいくが、
今日はさすがに結石の按配がよくなく、ホテルでおとなしくする。

土曜日、学長の米寿祝いのため、岡山より京都に向かう。
グランビア京都での祝いはアットホームに進んだ。
ほとんどの方が肩書きの立派な方で少々居心地が悪いかと思ったが、
学長のお人柄のおかげで、祝いの宴は楽しく進んだ。
88歳、現役教育者。
襟が正されるし、
そのスピーチは現在進行形であり、それをみるだけで育てられる。
まだまだ育ててもらう方がいることは人生にとって幸せなことだ。
それこそ、la vie en roseである。

京都を16時前に出て、博多に向かう。
先ほどいた岡山の通り過ぎ、博多駅へ。
博多駅につくと田中創先生に迎えにきてもらう。
彼の視線は軽くないのが良い。
なんというか、日々悩んでいるというか、そういう心が目にあらわれている。
追記するが、軽くないのがよい。
表情には人生があわらわれる。
ファッションセンスもよい。
見られるということを意識している。
そういう意識は日々もたなければならない。
どうでもいいことはない。
そういう心構えが研究や臨床に出る。
内面だけでなく外面も鍛えないといけない。

その日は大川先生らハンドセラピー研究会のメンバーと
もつ鍋を囲み懇談する。
彼らの真摯な態度に好感を持つ。

翌日は、4時間にわたり、手の運動制御と運動学習について話した。
手は何のためにあるのか、そういう視点を含んでである。
動くことは調べることである。
手は私自身、すなわち脳である。
まずまずの講義であったと思う。
また、別の研究会・学会などでも話すことができればと思う。
今度は痛みについて語ることを約束して、すばらしい会場を後にした。
300名の参加があったようで、感謝します。
100名断ったらしく、これまた、またの機会があればと思う。
運動器のリハビリテーションにおいても考えないといけないことがある。





ミスチルのドームコンサートに向かう人ごみを抜け、
博多の町で、もはや盟友ともいうべき小鶴氏と話し、
ホテルに帰還した。
薬を飲むのを忘れていたのが気になり、
ホテルにかえるやいなや、薬を飲んだ。

今から移動する。

リアル、臨場感、身体感、そして相互作用

2009年11月26日 23時53分00秒 | 過去ログ
火曜日はゼミの4年生の卒論お疲れ様会。
ゼミ3年生のおもてなしに、感動する。
彼らはいつもよりは少人数だが精鋭されたメンバーである。
こっちは結石のため、アルコールは控える。
痛みがじわじわ続いている。

水曜は3年生ゼミで、今井君がmotor illusionの論文を取り上げた。
久しぶりに修士修了生の林部さんが研究の打ち合わせできて、
ショコラをいただいた。

本日は、コミュニケーション心理学と人間発達学の講義。
コミュニケーションでは非言語メッセージの意味性について語り、
その後、心の理論へと展開した。
一方、人間発達も情動の発達から他者と自己の区別の発達へと進み、
こっちも心の理論でおさめた。
どっちも臨場感あふれる、まずまずの講義になった。
学生への講義は最近なぜだか楽しい。
畿央大学の学生は授業をしていて「ほほえみ返し」があるためよい。
まさに2ヶ月児の微笑み革命であり、
9ヶ月児の共同注意志向である。


授業終了後、病院に行き、
エコー、レントゲンをみて、
石の確認をした。
2cmほど下がり膀胱に近づいている。
しかし、、、右腎臓だけでなく、左腎臓にも石があることが発見。

腎臓とのつきあいは長い。
学生時代、まだ10代であったが、
暴走しすぎて、右腎臓から大出血。(ほぼ破裂状態)
2時間ほど意識不明であった。
その際、入院したのが、旧近森病院であった。
6人部屋では3人が極道の道を究めた人たちだった。
見舞いに来た高校の同級は「若い衆」よばわりされ、
タバコを買いにパシラれていた。


その後、実習中に、今度は腎不全の患者さんをみて、
近森時代には自分の専門は腎不全であり、
透析患者のリハビリテーションに関する学会発表、論文を書いた。
MOOK高齢者の理学療法では内部障害を担当した。

その後、23歳で腎臓結石、
破砕術を受けながら、の臨床実習指導者。
いわゆるスーパーバイザーをして、
そのときの学生が、高田先生であった。
彼は今はアール医療福祉専門学校で立派な教員である。
破砕術後の私の機嫌の悪さといったら半端でなかった。
彼はそれに耐え抜いた。
今でも彼とその後仕事したことで、自分があるとも思っている。
よきパートナーであった。

それから15年ほど、
またもやこの突然の激痛と格闘している。
腎臓と20年ってとこか。

明日は岡山。
明後日は岡山-京都-福岡

その後、福岡より高知に入る予定です。
痛みなので、飲みなど不摂生は控えたいと・・・思う。



カトレア用原稿

2009年11月24日 16時14分42秒 | 過去ログ
カトレア用原稿

ヒトから人へ ~身体コミュニケーションが脳をつくる~


古来より用いられているコミュニケーションを表現する言葉の一つで,多くを語らずとも微妙な気持ちや調子が共感し一致することを「あうん(阿吽)の呼吸」と呼びます.これは人間コミュニケーションの根本として考えられていますが,今日「言葉でしかコミュニケーションがとれない」あるいは「相手の気持ちを察することができない」現代人が多くみられるようになってきました.本来の人としてのコミュニケーションが揺らいでいるように感じます.

生物としてのヒトは胎児のうちに五感を形成します.しかし,その五感が統合され記憶されるのは生後です.たとえば,相手の表情を見ただけで何が言いたいかといった心の声が聴こえたりするのも,視覚と聴覚が統合され過去の経験に基づいた記憶からイメージが想起されることでそれを感じ取ることができるからです.これは大脳の連合野(前頭連合野,頭頂連合野,側頭連合野)と呼ばれる領域の発達の賜物です.連合野は五感を結びつけたり,過去の経験と現在進行形の経験を結びつけ相手の気持ちを察したり,自分が今とるべき行動を決断してくれる重要な場所です.ヒトが人らしく生きるための機能を提供する場所であり,生後より徐々に発達を開始させます.したがって,生物としてのヒトが生まれながらに持っている脳機能ではなく,環境によって創られていく機能であり,社会としての人の形成に大きく関与し,人が育てていく領域であると言えます.

乳児には大人のような色彩は感じられておらず,よって,コントラストが強く動くものを好んで見ます.相手の目はその格好のターゲットであり,乳児は何よりも親の顔を見つめます.そして,のぞきこむ親の顔を見つめ返します.やがて今度は,親が見つめるもの(環境)へと視線を移すようになります.これを「共同注意」と言います.つまり,乳幼児は親そのものから「親が興味のあるもの」へと興味の対象を移すようになります.コミュニケーションはこの三項関係から育まれます.「指さし」により注意を共有することがコミュニケーション脳を育むためには重要です.これは生涯育まれます.たとえば,夫婦関係であれば,子どもの進学といった抽象的なものに対しても共同注意するように.

しかし,ただ単に共同注意するだけではコミュニケーションの基盤は形成されません.共同注意を円滑に進めるためには感情の伝達が潤滑油として必要です.それは尊厳や妬みといった認知を伴う高度な感情ではなく,万国共通の感情(喜怒哀楽;情動とも言う)です.感情を表に出すのが恥と思われ,仮面をかぶったように生きている現代社会.相手に共感できるのは,自分がその状況を経験したのではなく,似たような感情を経験したことがあるからです.相手の感情の読み取り,そして自分の感情の形成,この両者に関与している脳の領域が扁桃体です.この扁桃体の機能から,自分が感情豊かであることは,実は相手の感情を読み取るために必須と考えられています.相手と話すということは単に言葉(記号)の伝達ではありません.その間に存在する感情の伝達でもあります.メールの普及で人が直接対話によって関係性を築く場面が減っています.即効的な情報伝達には役立つメールですが,相手と向き合って言葉を交わし,その間に存在する表情やしぐさといった非言語的コミュニケーションから,相手の本当の気持ちを理解し,それに適した言葉や表情を提供するのが本来のコミュニケーションの姿です.その際,自分の身体で感じた経験(緊張して手に汗握ったとか心臓がドキドキしたなど)が記憶されていきます.本来のコミュニケーションには,リアルな身体の経験が必要なのです.身体感覚は私自身の感覚であり一人称なものです.

この経験は対人コミュニケーションのみならず,物や自然に対する畏敬の念も生み出します.川の汚染を知るためにはインターネット上のデジタルな情報(三人称情報)でも十分ですが,現場に出向かないとそれを感じ取ることはできません.視覚だけでなく,匂いや,川に入った際に生まれる一人称な身体感覚,これらが統合されることで本当の汚染を感じ取ることができます.無論,清流(環境)に出向き,自分の身体と脳で感動した経験も重要です.こうした身体を使った感覚経験が感情を形成していくためには重要と考えられています.客観性の名のもと「速度」「正確性」が要求される現代社会.残念ながら,自分の身体を使って生み出す主観性を徐々に排除しつつあります.主観,すなわち「私らしさ」の形成は人が人と共存してコミュニケーションをとっていくために重要であるはずなのに・・・何も人が機械(コンピュータ)に近づこうとする必要はありません.こうした時代だからこそ,身体感覚の重要性について再認識することが大切ではないでしょうか.なぜなら,脳は環境と身体の相互作用でしか育まれないのだから.


挑戦がもたらすもの

2009年11月23日 21時45分28秒 | 過去ログ
金曜日は痛みをおさえ、博多へ。
気の合う仲間との会議に自分の安らぎを感じる。
日本全国に気の合う仲間がいることは人生の道において幸せなことと思う。
それが、単なるリハビリテーションだけの世界でなく、
文化、政治などの共通の宇宙を感じる。
とりわけ、音楽に関する宇宙を感じる。
自分のルーツを感じるというか、
ふるさとというか、
私の脳のなかには、私の来歴がある。
その中で、音楽というものは相当の範囲を占めている。
小学生のころから、レコードを聴くことに明け暮れていた。
それは母がスナックや喫茶を経営していたこともある。
いつも、喫茶の裏手にはレコードがあった。
毎週のようにモーニングを食べに別のジャズ喫茶にも行った。

しかし、中学1年のとき、高知大丸の隣の2Fのアメリカ広場でのロックの大音量に魅了され、それからロック付けになった。
もうロックとともに30年近くになる。


評議員会、理事会と仕事はあるが、
音楽の共通項に生きるっていうのはhappyだ。
水炊きの長野に4年ぶりに行き、その味を堪能する。


その後、ジャスについて一回り上の先輩たちの語りに耳を傾けた。
彼らの興味から生まれる知識は、聴いてて楽しい。
こういう感覚っていうのは、どんどん減りつつあるなあ。
もはや、関西に来て、こんな文化に関する話をすることもないし、
ましてや、自分より知識のある人間にはそう出会わない。
みんな機能的に生きている。
CPUは進んでいるが、人間らしさを感じない。
速さ、正確性を意識しすぎると人間らしさが失われる。
そんなことは人間が一番知っているはずなのに、
それをしてしまう、医療もその一つだ。
電子カルテ、パス、などなど、知恵、経験がいらなくなれば、
みんな新人理学療法士、作業療法士でいいじゃないか。
経験に左右されない誰でもできる理学療法。
そんなキャッチフレーズがここ最近はびこってる。
サイエンスの使われ方が間違っている。
理学療法士は理学療法士の手で理学療法を葬ろうとしている。
ベルエポック感がない。
すべては人間世界でなく、バーチャルな擬似世界だ。
病院の現場がそうであれば、もはや残るところは在宅しかない。
しかし、在宅リハを展開しているものもこれまた、機械的だ。
それは古巣の先輩たちで全国的に有名になった人たちをみても感じるところである。


自分の土曜日の講義は、久しぶりに挑戦だった。
10分以内に自分の新しい勉強を披露する。
一種の賭けもあったが、その挑戦があったからこそ、
少し前に進めた気がする。


みなと楽しみ、一足先に後ろ髪を引かれながら、
日曜に神戸に向けて移動を開始するが・・・
新幹線のなかで激痛に見舞われる。
とにかく痛いが、シンポジウムに行かないといけない。
なんとか我慢しつつ、シンポジストや司会のみなさんに挨拶して、
壇上に立つ。
時間がないが、ここ数日間勉強したことを盛り込み、
いつもの講演スタイルとは変えた。
そのせいか、大変わかりにくかったことも否めない。
あれもいっておくべきだった、
あのことはこっちから説明すればよかったなど、
久しぶりに自己の講義に反省をした。
プロって言うのはこういうもんだと再認識した。
プロダンサーはつねに反省する。
そういう感覚だ。
挑戦なくして、反省は生まれない。

最近、自分の講演に反省しなく、
比較的上手くいった感があったのは実は挑戦してなかったからだ。
だから差がうまれなかったんだ。

学習は予測と結果の差異から生まれる。
そんなことを講演している自分が、
忙しさに負けてしていなかった。


経験は挑戦から生まれる。
学習は挑戦なくしてありえない。


自分にとっては良くない講演の一つであったことは間違いないが、
結果として、自分を立ち直らせてくれた。
こういうささやかな失敗はあるべきだ。
まだまだ勉強が足りない。

「人生すべて勉強である」
それを感じるためには挑戦し続けなければならない。


壇上では痛みが何度が襲ってきたが、
その後、みなさんと3時前まで話をして、
一足早く家に帰った。
近鉄でもはや冷や汗状態であり、
家に帰り座薬も効かない状態であったが、
今は少しおさまっている。


寝て直る病気ではないのがつらい。
寝ると余計に痛む。


あなた結石の「痛み」わかりますか?
私は15年ぶりにその痛みを感じています。
これは主観的なものですが、論理的に今の痛みをとらえている自分もいます。
少し成長しました。
勉強すれば、いろんな角度から事象を捉えることができます。
そうすれば、いろんな角度から治療を提供できます。
単一的に物事を考えない。
ある方向だけからしか観察しない。
簡単なものには流されない。
簡単に説明しているものは疑ってかかる。
複雑な思考をもち、簡単な課題を創造する。
これが18年理学療法士をやって到達したものです。
現在19年目に突入し、このあと、どのような志向性をもっているか、
自分自身が楽しみです。


挑戦は成長に必要な栄養素である。


人一倍、努力をすることによって、
事象の観察に余裕ができる。

それは目に見えるものではない。
私の心の中に宿るものである。
目に見えないもの、私の心のなかにあるもの、
それ自身を患者さんに体感させてあげたい。
経験を創るのだ。


痛みは感じているが、自分の成長がこの数日でおこったことにうれしい。

まだいける、まだ自分は成長する、まだ心の上のステージにいけそうだ。


痛みを吹き飛ばすにはrock やき~





追伸:10年後もこのような形態で学会が続いていれば、それは一度解体すべきだと思う。これは様々な技術コースも同じだ。
経験の作り変えには、解体することも必要だ。
解体なくして、発展はない場合がある。
もはや悪循環であれば、解体すべきが、私の持論である。
見直しといった絆創膏を張りなおす程度であれば、何も生まれない。

行為もそうである。
患者の行為、意識させると動かない、だから意識させないように。
なんていうことは間違いである。
意識してもしなくても動けるのが人間である。
動けないという問題が発見すれば、それは一度それを解体させないと、
発展、発達は生まれない。

理学療法士、作業療法士の知識も無論そうである。
そうでないとそれが思考に邪魔をして、成長をとめてしまう。
それに気づかずいるセラピストは実に不幸だと思う。
なぜなら、思考をとめた機械だからである。




蜘蛛の作業は織匠に匹敵し、蜂の巣作りは建築家を赤面させる。だが最も下手な建築家でも蜂に勝っているのは、彼が実際に建築を行う前にそれを頭の中で組み立てていることである。
Karl Marx 資本論




前進

2009年11月19日 23時15分21秒 | 過去ログ
昨日は午前中より事務補佐員の平澤さんに手伝ってもらい、
院生の研究費の管理、そして、次年度の教育研究装置の整備計画調書の作成、
そして、翌日の授業の準備を行った。

その後、週末の講演資料に手をつけ、
3年生のゼミを聞き、
米本君の予測的姿勢制御の研究と楠本さんのメンタルローテーションの研究手続きを議論した。
その後、時間があったので、少し脳の講義を行った。
彼らには未来を託したい。
その意味で最後はメッセージをこめた。
私の考える理学療法は違う。
それは学会などでは示さない。
プライベートな意識ではあるが、
人間の本質を意味していると自負している。
学習は一度リセットしないと始まらないし、
行為は一度解体しないと、学習できない。
解体作業は骨の折れる仕事だし、
この過程でだいたいあきらめてしまう。
意識するとフリーズするのは解体されるからである。
それは新たな位相での学習の始まりなんだが、
その発達の理解がないと、セラピストも患者もあきらめ、
本来つなげてはならないシナプス結合を強化してしまう。
それが今の現状である。

それはその後の子どものリハを千葉さんと考えたときも出た。
われわれPTやOTはできない経験を教えているのだと思う。
わからない経験を学習させているのだと思う。
動かない身体を経験させているのだと思う。

自己の身体は、それを使って脳のなかの身体に宿る。
それは外部世界と内部世界との相互関係性から生まれるものであり、
その関係性こそが現実に起こる現象である。
子どもの脳のなかに入り込むという視点が必要だ。
こちらから観察してもしょうがない。
子どもたちは何をみて、何を感じているのか?
それは三人称の視点からだけでは接近できない。
彼らの脳になりきるという演出が必要だ。
セラピストはアーティストなんだから。

自己と非自己(環境)を区別するのは、運動感覚である。
これによって自己感が生まれる。
しかし、その自己感にむけられたセラピーは殆ど存在しない。

身体から絶えず送られてくる体性感覚信号や運動感覚信号は、
主観性というものの土台であるが、その主観に目を向けることはほとんどない。

内部と外部はPF野で対話している。
情報としての意識は外部知覚であり、
主観としての意識、すなわち自己を感じる視点は内部知覚である。

これらはひとまとまりに統合されており、脳で校正される。
情報としての意識は、外部に対しての志向性であり、それは注意の影響を受ける。
一方、主観としての意識は、主観的感覚、クオリア、現象、情動を反映する。

内部の意識は一人称体験であり、第3者である観察者とは直接共有することのできない、個々人の意識の流れである。
一方、三人称体験は、他者の一人称的主観性を直接には体験できない外部の観察者という立場であり、最終的には文化も含めた概念、一般的あるいは抽象的な考えとなり、最終的には脳が自らの知覚活動をカテゴリー化して、「普遍性」を構成する働きを示す。
それらがコラボレーションしているのは脳内の神経現象であり、
それによって、運動の主体感が生まれる。

なぜ、自分自身が歩いているという運動の主体感があるのか?
それは身体からのフィードバックからではない。
すべては脳の一人称経験と三人称経験から生まれた記憶に基づく予測である。
それが遠心性コピーとなる。
自分が運動をしているという主体感は遠心性コピーなのである。
運動は目にみえるため、運動プログラムは最終的には最適化されるため、
これは三人称世界である。


一方、自己の身体をもっている、自己の身体があるという視点は、
感覚フィードバックの同期化から生まれる。
それは視覚と体性感覚の同期化である。
身体保持感はこのフィードバック情報の統合から生まれ、
内部の世界を構築する。
これは目に見えない一人称世界である。


この三人称世界と一人称世界がparietal cortexで結びつき、
ずれがあれば、更新されるが、
そのずれが大きいと、反射が増大してしまう。
シナプス前抑制をコントロールできなくなる。


私の身体はparietal cortexにある。
frontalでなく、parietalである。
だから物いわないのである。

私の正体が物言わないのである。


子どもたちの発達は、
この内部世界(知覚)と外部世界(知覚)が絶えず交信している。
運動は探索・志向性から生まれる。
何かについて知りたいと思うから行為が生まれるのである。
その知りたいという視点は外部に向けた志向性であり、
その際、外部知覚が生起するが、
同時に、内部の身体知覚が生起する。
その同期化こそ、学習には不可欠なのである。


ミラーニューロンにしても、幽体離脱や何にしてもどうやらこの身体化現象で説明がつく。


いろいろ考えるきっかけを昨日は奈良リハの千葉さんにもいただいた。



しかし・・・その夜より、激痛が。


今日はすべての仕事(授業、授業、教授会、大学院委員会)をキャンセルして、
病院にいくと結石であった。
レントゲンにしっかりうつっている。

腎結石から15年、久しぶりに激痛と格闘している。
痛みは主観的なものである。
よく結石は陣痛よりも痛いだとか、がんの痛みの次だとか、
しょうさせるが、
それはなってみないとわからない。
とにかく、もがき続ける痛みであることは間違いない。
15年前の1週ごとに破砕を受け、臨床をしていた時代がよみがえる。
痛み止めをなんとか駆使して、

明日、福岡に向かう。

福岡で講演、その後、兵庫で講演。


休息あるのみと思うが、なんとか食いしばり向かおうと思う。

講演がぶれるかもしれないが・・・


還元化でなく細分化

2009年11月17日 10時42分37秒 | 過去ログ
月曜日は大学院の授業のみであるが,
教育学部の学生が興味本位で研究室まで来てくれる.
様々な人間と出会うことで人は育まれる.
専門化はプロフェッショナルを極める意味では重要だが,
人間を育てるには欠陥がある場合がある.
メディアに登場するプロフェッショナルな人々の心意気をみると,
法に守られた資格者はそのプロの心意気には到底到達できないようにも思う.
もっと自らを痛めつけるべきである.

様々な講演準備に追われながら,
日々過ごす自分が成長していない自分であると思い,
自分自身が発達するためにはどこかでリセットするしかないとも思う.
発達のリセットである.

大学院の授業は大変丁寧に講義をしている.
神経可塑性だけで,3回分費やした.
昨日は,Wardや,Takeuchi,Hummel らの研究の詳細を示して,
半球間競合モデルを説明した.
また,Nowakらの研究から,
なぜM1,S1,V1などは半球間抑制が起こるが,SMAやParietal Cortexでは起こる可能性が少ないのかを説明した.
近年の神経科学の見解を統合すると,
連合野には,身体の対側支配は当てはまらない.

また,Nabekuraらの,
シナプス後細胞のCl-濃度の変化に基づく,
抑制性神経伝達物質の興奮性と抑制性の観点から,
シナプス結合の発達,回復について話した.
とくに,軸索切断などの神経傷害によってCl- 濃度が高くなることによって,
抑制性が興奮性に変化することや,余剰配線の形成されることを話して,
その形成を抑えるための発達学習手続きを考えた.


19時40分からは研究室の清水君が,
Canonical neuron systemに関連する自身の研究を紹介した.
Premotor cortexにおけるdorsalとventralの違いについて,
単なる,下肢と上肢の違いでなく,運動の制御系の違いから明らかにできればと思う.
そのあと,上原君が注意機能における脊髄興奮性と大脳興奮性に関する研究を姿勢制御の観点から紹介した.
SEP,P300,N成分,H反射,COP,motor controlのあらゆる角度から,
注意配分,容量に基づく,制御系が明らかになればいい研究になると思う.
あとは自分の仮説をもっと細部まで構築することかな.


22時頃まで,M1リーダー佐藤君と清水君と今後のスケジュールを確認して,
コッホの文献を持ち帰り,寝る前に読み,やっぱり眠ってしまった.


研究は時間研究へシフトしながら,意識,記憶という視点を含みながら構成していきたいと思うが,
その前に,自分も3つほど実験を草案したのでそれを1年以内に明らかにしたい.

第49回近畿理学療法学術大会

2009年11月16日 23時11分58秒 | 過去ログ
第49回近畿理学療法学術大会
会期 平成 21 年 11 月 22 日(日)
会場 神戸国際展示場2号館
シンポジウム:テーマ「私の考える理学療法の展望」
シンポジスト
 京都大学 市橋則明 「骨関節系分野での理学療法の展望」
 兵庫医療大学 高橋哲也 「心臓リハビリテーション分野での理学療法の展望」
 畿央大学 森岡 周 「脳科学の進歩から理学療法の未来を展望する」


日本認知運動療法研究会アドバンスコース

2009年11月16日 23時10分35秒 | 過去ログ
日本認知運動療法研究会アドバンスコース in FUKUOKA 2009
日 程  平成21年11月21日(土)13:00開始~23日(月)
会 場  ガスホール(パピヨン24) 福岡県福岡市博多区千代1-17-1
テーマ 「ロマンティックサイエンスの世界、我々のニューロストーリー」 
     -見失われた身体の歌、あるいはルリアとサックス、
      そして我々の患者たち-
認知カフェ
1) カルロ=ペルフェッティ「見失われた身体の歌-患者の詩の朗読と音楽-」・・小鶴誠・他
2) ルリアのロマンティックサイエンス・・・沖田一彦
3) オリバー・サックス「左足をとりもどすまで」を読む・・・本田慎一郎
4) 半側空間無視患者の「言葉」を聴く・・・片岡保憲
5) 一人称の脳、三人称の脳・・・森岡周
6) 認知を生きる・・・池田耕治