森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

ここ2日ほどのfacebook記事にて

2014年04月01日 00時28分49秒 | 日記
CIやってます、川平やってます、電気やってます、ボバースやってます、認知やってます、ロボットやってます、徒手やってます、装具やってます、手段だけが先走るそんな一方向視線の構図は私の時代で終わりにしようと思う。

身体と環境の相互作用によって、どのように行動がつくられ、そして外部、内部環境の操作、療法士の学習への援助ー課題設定によって、行動の変容が起こるか、そして行為システムの複雑性が創発されるか、そして志向性にまで影響を与えるか、そんなことを議論でき、当事者も含め対話できる社会へとむかえるように、流れをつくって終えたい。

臨床の先輩の方々だけでなく、新進気鋭の研究をやっている後輩にもおおいに抵抗され、風見鶏だとか、根拠はとか、批判されるとは思うけど、矢面に立つのは得意だし、まあなんとかなると思う。自分を守るために研究者になったわけでないし、ヤンキーだった自分が大学で仕事をしてるだけでも奇跡なわけだし。犠牲はある意味仕方ない。世の中のつくられかたはそうなっている。

いずれにしても、療法士のスペックはもっと大きいと思うし、そして効果量だけで判断しないやさしさを持っていると思う。

言い切ることよりも、迷うことが本当のやさしさなんだとおもっています。

重い文章になりました。すみません。公言するもんではないのでスルーしてください。

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昨日の書き込みは異様に反応をされだんけど、私が実は思っているのは、第2パラグラフの「身体と環境の相互作用によって、どのように行動がつくられ、そして外部、内部環境の操作、療法士の学習への援助ー課題設定によって、行動の変容が起こるか、そして行為システムの複雑性が創発されるか、そして志向性にまで影響を与えるか、そんなことを議論でき、当事者も含め対話できる社会へとむかえるように、流れをつくって終えたい。」であって、第1パラグラフではないのです。たぶん、そこに反応されたかたも多いと思う。

私としては、メタファーを使えば、第1パラグラフは塾の違いのようなもんで、それは表現や表出の違い(理論重視が根拠重視あるいは科学重視か現象重視)であって、宇宙から鳥瞰するとほとんどその差はないということ。一方で、人間は相当に賢い。だから、少々な?な方法が出てきたとしても、それには共感を得ない。だから、今ある様々な方法論はある意味間違ってはいないということ。ただし、正解ではない。ここに科学的態度の意味があると思っています。

先日、仙台で河島さんと話したとき、彼はいつも「歩行の人」や「研究者」と呼ばれる?と言っていた。現実、最初僕も思っていたし、それも間違いではない。しかし、直接会うと、「現象の人」でもあった。現象を科学的態度をもって吟味しようとする人というべきか。。難しい。表現できないのである。たぶん、僕にも「認知の人」というのがついていると思うし、別にそれは大きな間違いでもない。しかし、人間は環境や情報によってその思考や志向性が更新されるし、どのようなコミュニティーを形成するかでそれは変化していく。

こうしたバイアスが科学的関係を失わさせるというのは歴史をみても物語っている。いわば、国と国との対立関係のようなもの。今ある現象を共同注意できない関係である。また、臨床家、当事者、教育者、研究者、家族、他他、などなど、この垣根のバイアスも必要ない。この垣根の意識があるからこそ、思考停止が生まれる。クオリティの高い仕事は物理的距離と心理的距離が近くないと生まれない。そしてリーダーがピエロを演じ演出できるような環境。そこに気づかないとブレークスルーは起こらないと思える。人間はそれをシステム構築という戦略で乗り越えてきた。

今あるこうした信念対立は、その社会が安定しているから起こるものであり、互いに批判・否定を繰り返し自己(自己らの考えを)の価値を高くみせようとする戦略でもある。協力という関係が依然として生まれないのは、潜在的な安定の意識があるからである。そしてそれはどうせ変わらないという意識の下で起こっている意識によるものだと考えている。


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