森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

距離感

2013年11月28日 19時57分13秒 | 日記
ちょっと息抜き。。先ほど夕方の会議終了後から、脳を学ぶ(改訂版)の原稿を書いています。第1部の原稿は原稿用紙30枚ほどでしたが、第2部は原稿用紙100枚超えそうです。第2部の6割ほどは前の原稿が生きていますので、一気に書き上げています。残るは第3部になります。第3部は「脳と社会」と題して、メタ皮質機能を取り上げます。これはすべて書き下ろしになります。自己と他者、言語、イメージ、模倣、アナロジー、メタファー、コミュニケーション、学習なんかになると思います。構想もまだですので、年内にある程度目処をつけ、年明け完成・送信となるでしょう。修士論文の校閲と共存させながら、進めていきます。

昨日は4年生のゼミの卒業研究発表おつかれさま会でした。今年の発表はどれもGOODでした。論文化しないとね。広く知ってもらうためにも。この会は3年生が準備してくれました。場所も良かったです。いつも学生が利用している駅の近辺の店はあまり良くないのですが、ここは料理の質が良かったです。学生は舌がこえていないので、飲み放題というのにすぐ反応し、料理が適当で単価が少なくてもごまかされることから、ある意味「この質は何?」って思う時がありますが、昨日は安くてうまかったです。

3年生の研究もぼちぼち方向性が決まりつつあります。写真は3年生のゼミ生です。良き方向にみんなで進んでいきればと思います。昨日は身体イメージ、模倣発達に関連する論文が古野君と北村さんが取り上げました。この部屋で検討するのもこの年代が最後になります。



5月31日ニューロリハ研究センターが竣工予定です。6月からはそっちに移動です。研究者同士の物理的な距離が近ければ近いほど、科学研究のクオリティが高いと報告されています。執筆者全員が同じ建物内にいる状況で書かれた論文は、執筆者が別々の建物にいた研究論文に比べ引用数が平均で45%多いと示されています。私たちニューロリハ研究グループは、同じ建物どころか、同じ部屋に移動します。個室研究室は注意の集中は高めますが、新たな創発を起こすのにはきわめて不都合な構造です。洒落たカフェのような研究センターを考えていますが、どこまでそれを大学がくんでくれるか、雇用面も含めて用意周到に練り上げないといけません。そのためには事業計画を相当に考える必要があります。現在10以上の事業を考えていますが、この舵をなんとか取りたいと考えています。40代半ばから終盤はこの仕事を完成させます。



ニューロリハ研究センターが入る棟、2F部分までコンクリが入り始めています。早くシャンパンで乾杯したいもんです。住み心地(居住空間)は研究を進めて行く上でも大変重要です。

報酬価値の変化、そして私自身の変化

2013年11月25日 00時55分24秒 | 脳講座
無事、奈良に帰り着きました。帰り着いた早々、桂枝雀のテレビをやっていたので、それを視聴。先日は談志の表現を観察。話し手として色々思うことが多々あります。僕は理学療法士である前に研究者であるし、その研究者である前に教育者であります。授業・講義・講演をどのような構造とし、表現するか、日々、その学習プロセス(認知)を生きています。誰かに修正されているわけはないですから、日々自己組織化を起こしているわけです。

今日は札幌で一日講演でした。200名の会場満席。みなさん聴講ありがとうございました。
今日は脳をシステムとして捉えることを意識した点や、上肢、運動学習、歩行を四時間半に無理やりまとめたため、要所では詳細な説明を省いたため初学者にとっては難
しかったかもしれませんが、ここ最近のなかでは終始全力で話しました。

さて、今日は上肢運動、姿勢・歩行、学習という視点から学術的情報をお伝えしましたが、実はそのコンセプトは「挑戦する脳」「自覚する脳」「情動とともに生きる脳」でした。これは患者さんだけでなく、私たちの脳にも言えることです。難しいことを解釈する脳よりも、むしろ自分に向き合うという視点を意識することこそ、脳を理解する上では、それが重要な情報なのです。最後の示した私たちニューロリハセンターのトップの画像は、自己の脳は他者の脳に生かされている(活かされている)、そして自己の脳は他者の脳を生かしているというものです。良きも悪しきも、その環境に依存しているというわけです。

さてさて、センスタイルの講演は今年これが最後になりました。今年1年お世話になりました。9月から毎月でしたね。来年もよろしくです。年末までニューロリハセミナー、神戸、東京、埼玉と講演を毎週して、年の瀬に入ります。今年1年もこれで終わりそうです。昨年の年末年始はパリで迎えましたが、今年は高知に帰省もせず、奈良で迎えることになりそうです。

フランスへ留学したときから15年以上たちました。当時、今の姿を想像してたわけではありません。そして、当時は「不安」という高次な感情の中で自分自身格闘していました。がむしゃらに結果を残そうとし、時にも盲目的になり研究に没頭してたときでもあります。論文をアクセプトされることが、当時の僕にとっては報酬価値であったかもしれません。

時は経ち、今自分自身をメタ認知すると、そこにはもはや報酬価値はありません。しかしながら、報酬価値がなくなっているわけではないし、むしろ壮大なグローバルなそして社会的な報酬価値へと、興味が動いています。そう考えれば、僕自身変わったんだと思うし、そう思えば、これから15年後、まだ変われるんだと期待を持つことができます。それは遠い将来ですので、今すぐに予測できる効率的なものではありません。報酬を先延ばしする脳でもあります。人と人とがつながること、これこそイノベーションを起こすきっかけとなります。僕の講演活動はその一つのプロセスでしかありませんが、このように何年も毎週末休みをつぶして全国をまわっているのは、人と人とをつなげることであちらこちらで何かが起こるのではないかと期待しているからでしょう。僕の考え方に対して、批判的につながるのもよし、肯定的につながるのもよし、科学的につながるのもよし、応用的につながるのもよし、一つの媒体として、そうやって共同注意されることこそ、教育研究者としての欲求なのかもしれません。そして長い年月をかけ、徐々に動いていけば良いのです。

結果を急ぐべからず。効率ばかりを優先すべからず。心のバリアによる矛盾や葛藤こそが、エラーを解決すべき知恵を生み出していくのです。脳卒中の人たちにもそれを感じて、たくましく生きていってほしいですね。私たちの先輩なのですから、種の保存のためには強く生きていってもらわないと、後輩の私たちにとっては困るわけです。人間という存在を維持していくためには。

私自身、「命は限られたもの。そして、何時何時めされるかもしれない。だから、種を保存していくためにも、休むつもりはありません。」というのが行動の哲学なのだと思うのです。

http://www.kio.ac.jp/nrc/

システムにおける循環問題

2013年11月05日 13時17分43秒 | 脳講座
「難しいことをわかりやすく語ること」に終始してはならない。「難しいことを難しく語ること」それに実は意味がある場合がある。ときにそれは、簡単にならってきた義務教育の功罪があるようにも思える。

前者は脳のショートカット機能ならびに過去の経験に基づくトップダウン思考から、情報を歪めていることが大いにある。巷の講習会人気講師に起こる現象でもある。これはもちろん自省を込めてなんだけど、大変難しい問題がそこには内在している。

これは本当に難しい問題なんだけど、どうしても講演する側は聴く側の興味や意図を読み取り、それにあわせて情報を提供する。これはいわば、人間コミュニケーションの本質的行動であるとともに最近接領域による学習スタイルの提供のしわざであるが、これをすることで、わかったような気にさせてしまうこともしばしば。ドーパミン神経細胞の興奮から起こる線条体の働きに振り回されるのである.それだけに終始せず,わからないという経験(エラー値)に後押しされる自己の行動化の意識の改革が必要だと思う。

それに加えて、やはり聞く側の能力(賢さ)を上げることが大事である。全く知らず、自己の人生にとって脳や運動のことを知らずしてもよい一般の人に話すようなレベルであっても困るのである。

究極的に言えば、他者や道具に支えられながらも、勉強は自分でするもの。その根本の意識が上辺だけになっているように思える。他者の命や人生に関わる仕事についた(つく)以上、猛烈な勉強と自己の有意義な経験が生涯必要だと思う。まだ自己が何者でもない者にとって、遊ぶ時間はいらない(社会的遊びとならない無駄なものを指している、誤解をせずに)。人間は他者と共存し生きるために働く。働き続けることこそ、成熟した社会的役割を持った人間としての証なのである。だから、学生にとっては勉強することなのである。勉強をするからこそ、学生としての社会的役割が成り立つのである。就職活動やバイトというものに、本質的な学生としての社会的役割はない。この本邦の社会認識構造は多いに問題でもあるように思える。

さて、今の学習スタイルを鳥瞰すると、結局は送り手側(講師)と受け手側(受講者)の現時点での水準で思考が循環されるだけで、システムを変化させることにはならない。社会システムにおける学習のダイナミクスは複雑系のシステムであるが、この旧体系から続いている医学的モデル(ヒエラルキー)における現在の講習会システムであれば、その複雑系システムが起こりづらいのである。そして、問題はもう一つ。類は友を呼ぶではないが、共感・同調し合う人間がそこに集まり、閉鎖的なシステムを構造化してしまうのである。ミラーニューロンシステムの弊害でもある。そうなると、自己の信念を他者に同化させてしまい、そうでない行動について、その背景(情報処理プロセス)を知ろうとせず、自分の信念とは違う行動をとったり、あるいはとらなかったことに対して、嫌悪やいら立ちを持つ。それはこのSNS上での言動や意識における同調性にも大いにみてとれる。それは依然として所属・承認の欲求であり,自己実現の欲求ではない.愛されたい潜在的意識における行動である.その背景には暗黙的にうまくいけていない意識がある.自己を肯定する(される)環境に向かい,承認しあう欲求水準から前進させ,自己の内部環境に社会(複雑性)をつくり,自己の変化に気づくことができるよう,思考を循環させることができれば,1ランク上へと位相現象が起こるであろう.

自己のエゴや、妬み、やっかみをすてて、そんな時間を与えないぐらい、思考を循環させること。僕は最近余計それを思うがあまり、自分の趣味までも律しようとも思い始めている。自己の欲求というものが明確にならなくなってきたのだ。だから、こんなことをいうと不謹慎かもしれないが、専門理学療法士を更新するという行動の意味さえも見失い始めている。もっと社会に貢献・供給すべきストラテジーはあるのではないかという・・けれども、これは私の志向性であり、まだ自己が何者でもないものは、そうした外部動機に向けて自己の行動を正し、邁進する事は大変意味があることでもある。

要するに、その都度、その都度、オンラインにて自己意識を持つ事こそ、人間が成長し、社会システムを良き方向に動かして行く機動力となるのである。オンラインの自己意識こそ、自己の変化に気づけるプロセスである。そして、難しくも語れ、易しくも語れ、その中間でも語れ、絶妙に文脈によって自己の行動をオンライン上で変化させる、この人間が持ち得る行動のオンラインでの変化を、私たち自身(人間)は存分に発揮させることができるはずである。それが臨床知にはるはずである。狭義のエビデンスやサイエンスといった情報ではなく(だけではなく)、このプロセスの意味を教えることこそ、教育の根幹のように思えるわけである。