森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

ヘロヘロ、カラカラなり。。

2013年08月25日 23時14分42秒 | 日記
今日はいつもより20分早く新幹線に乗ることができたので、21時前に帰ることができました。10時から16時まで講演し、21時に帰宅。毎度のことながらヘビーです。こればっかりは慣れないのです。3時間講演までならなんとか持つのですが、その後の2時間は声がかすれ、よろけ、足元がままらないときが多々です。けれども、5時間聴く側もそれ相応のエネルギーとなり、彼ら彼女らの視線から、自分も行動が創発されます。講演はライブです。インタラクションです。

本日は大脳の連合野と高次脳機能、なぜ人間は連合野を発達させてきたのか、から始まり、USNの注意障害説を話し、身体性を図式とイメージに分け、その評価を示すとともに、もう一つに分類である所有感と主体感に分け、それぞれの神経メカニズムを説明し身体失認、病態否認がなぜおこるのかを説明しました。その後、USNを下頭頂小葉ー視床ー下前頭回のネットワークの破綻、そして、下頭頂小葉ー上縦束ー下前頭回のネットワークの破綻の二つのパターンにわけ、治療介入の区別を話しました。前者は感覚・運動障害を強く伴いますが、後者は強くそれが出現しません。前者は方向性注意ネットワークの問題から内部空間に対してもアプローチしないといけません。いわゆる運動麻痺への治療介入です。後者は空間性注意の問題ですから外部空間をどのように認識させるか、アッセンディング、ディッセンディングをどのように治療デザインするかです。また側頭葉の問題である物体中心空間やTPJの問題である自己と他者の区別の問題にもふれ、最終的には空間性注意(情動;辺縁系、エラー・矛盾:前帯状回を含めた)と方向性注意(右空間での運動の偏り)から臨床をデザインすることの重要性を説明しました。またプリズム順応の視点から小脳と頭頂葉の機能的連結(逆モデルなど)に関して話し、その効果を神経メカニズムから話しました。失行の方は現象を下前頭回、下頭頂小葉の機能的差異から分類し、模倣を無意味、有意味にわけ、右半球優位、左半球優位性を話、セマンティックな分類を求めることが脳梁を通じて左へ情報が移動することを説明しました。また道具操作においてはCIP-AIP-PMの神経ネットワークを説明し、物品操作における知識と操作の違いを説明し、二つの物品を行為の視点から関連づけることの重要性、すなわち、道具の選択性がそのネットワークを組織化する上で重要であることを説明しました。特に、commonよりもnovelなtoolにより影響を受けることも付記しながら。あとはオンライン、オフラインによる道具操作の違い、そして物体固有の動詞と共通の動詞の違いを伝え、道具使用の運動ネットワークと概念・意味ネットワークの共通基盤を説明し、本質的なST-OT-PTのチームアプローチが必要であることをときました。その後、旧来の観念失行は遂行機能障害に位置づけられる理由をワーキングメモリ機能から説明し、評価をどうしていくかを伝えました。治療はストラテジー訓練、ジェスチャー訓練を取り上げました。情報は多岐にわたりましたが、幹は理解できたのではないかと思います。時間がおしましたが、その後、PFCの機能であるワーキングメモリ機能、社会的認知・行動のトピックスを伝え、finishしました。

皆さんの臨床を後押しできた!できたかな?と思っていますが、また情報を利用しどういう場合はどういう現象が起こるか、自分の目で体で感じ解釈していってもらいたいと思います。講演、論文の情報も大切ですが、自分の体でおこる情報はもっと大切ですから。

母の命日におもう

2013年08月22日 17時34分10秒 | 日記
今日は母親の命日である.小学生の時より母一人で私を育ててきた.いや何も言わずに見守ってきたという方がしっくりくる.ふまじめな高校生~専門学校時代もだまって見守ってくれた.60歳で逝ったが今生きていれば65歳.この5年間.私の身体機能は下降しはじめたが,知性や感情コントロールは成長したかな.5年前は機能回復を追い求めて母親の治療がどうあるべきか心底考え,主治医と口論になったり,担当セラピストに叱咤したりしていたが,今もしそれだとすると,もっとゆっくり楽に接してたと思う.そんな姿を見せたかったね.なんか後付けだと思うけど,今思うと前頭葉も頭頂葉も機能せず,言葉もほとんど発せずの母親だったけど,辺縁系は作動して,「あんた,がみがみ言いなや」っていう表情をしていたもんな.ま,後付けだけどね.もっと楽しく逝かせたかったな.それが心残り.それを思うと涙腺がゆるんでしまうけど,心の中にはずっと生き続けているわけで.それが人間のたくましさ(伝承)なんだろう.

スローライフは永遠に

2013年08月21日 16時04分49秒 | 日記
少しだけ体調戻ってきたかな.休むことは全くできていなく,たんたんと猛スピードで仕事を進めるだけなんですが,持久力がほとんどなし.すぐに倒れてしまい,だましだましで仕事を続ける数日.日曜日の5時間講演後,急に来てしまいました.

さて,一昨日は教育学部の岡本先生,古川先生とともに,多くの発達障害といわれている(?)お子さん,そしてそのお母さんと話すことができました.私たちの知識と彼ら彼女らの現象がまさにマッチする時々がおこり,いろんな仮説が創発されました.お母さんたちの知識は相当です.これは我が子を思う結果だと思います.けれども,悲観的ではなく,むしろそれを受け入れ,そしてそれを楽しむ意識を垣間見ることができ,これこそリハビリテーションの進む道,そして私たちがこれから積極的に進めようとするソーシャルニューロリハビリテーションの在り方だと強く思うことができました.まさにお母さんの脳は当事者研究なのです.知識あふれるお母さんから紡錘状回をとることができますか?と言われた時は,そんじょそこらの医師などよりも相当に知識があるなあと思いました.彼女たちの口ぐちには医師(狭い範囲の方ですからあしからずご了解ください.すべてを意味しているのではありません)は診断するだけで,なにもその時々の現象について明解な答えがないとのことでした.子どもたちの言動や行動を肯定しつつ道徳を教育することの大切さがわかりました.今いう発達障害と言う枠組みはある観察者の視点でつくられたものなのですから.その視点が変われば,世の中の人みんな発達障害になるかもしれないし,そうでなくなるかもしれない.狭義の社会性といわれる縛りにとらわれすぎてしまうと,本質的な現象の意味を解読できなくなると僕は思います.

昨日,今日と院生の研究プレゼンを聞きながら修正作業に入っています.かなり厳しいことを言っていますが,厳しいことをいうことは,まだまだその研究が原石であり,磨けばもっと美しくなることを前提にいっているわけです.自分の研究を愛すること.そして統計に翻弄されず,生のデータを昼夜問わず見比べ,何か言えないか,新しいことはないか,と睨め続けること.これにつきます.先行研究に引っ張られすぎな面が否めません.研究は人のすること.データはもちろん改ざんしてはいけませんが,データの解析をどのようにするかは,その研究者に委ねられています.だから,それそのものは,バイアスなのです.だから,すべてを信じべからず,なのです.いずれにしても,まだまだ足りない.執念が足りない.結果を導く執念である.研究論文になればあたかもスマートに見えてしまうが,それまでのプロセスは猛烈に泥臭いのである.それが研究だと僕は思います.

さて,僕の方は深夜にニューロエシックスの原稿を書きはじめましたが,相当な体調不良のため,思うように進まず歯がゆい思いをしながら,寝ては書き,書いては寝てを繰り返しています.この原稿はまだ100字程度ですが,ある程度の骨格は決まりました.「生きて死ぬ私」生物として生まれてきた以上,これは避けては通れません.ある意味,リハビリテーションの本質とは何かを考え始めました.欠損があること,欠陥があること,不自由があること,それが負なのか?ということが揺らぎ始めてきたのです.だから,BMIにしろ,脳刺激にしろ,身体刺激にしろ,これらのある意味サイボーグ視点,エンハンスメント視点を生物学的範疇でその意味を捉えなおしています.この意識をもつことは狭義の医学的な医療ではご法度なのですが,社会学,人類学の範疇で捉えるとこういった意識は大切であると思います.いずれにしても,色んな治療がありますが,所詮人類の発達の幹においては,その幹になることはできず,枝でしかないと思っています.

私の単著の改訂作業はその後になります.いや科研費研究のあとかな.すみません.編集長・・・最近は思うように進まずです.加齢なのかどうかはわかりません.スローライフに切り替えたいと心底思い始めてきています.うちの研究グループもそういう意識のもと,お茶をしながら研究を,と本気で思っているのです.

非効率性に生きるということ

2013年08月02日 10時01分57秒 | 日記
昨日、高知に帰ってきました。夜は早速にミヤタヤに行き、よさこい談義。それを目的でいったんだけど。人々のため、高知のため、よさこいのため、踊り子のため、スタッフのため、大人というものは他者のために生きられるということ、と再認識しました。大人であってもエゴがでる。けれども、自己の幸せは他者の幸せによって生まれることを気づけた大人は、それが前に出過ぎない。昨日はジュクチョウより、悪い大人の残念なことを聞いたりしましたが(エゴイズムの極み)、けれども、そこで閉塞感あふれ、あきらめてしまえば、未来がありません。よいものは残し続けていかないといけません。

世の中は効率的、確実的なものが好まれつつあります。全国に広がるファミレスや様々なチェーン店を見ればそれが一目瞭然です。けれども、本来人間関係は不確実性のかたまりです。確実性、効率性だけで生きてしまえば、その不確実性、不測の事態に対応できなくなってしまいます。メディアで取り上げられる今の大学生や子供たちの挑戦のなさを見れば、そう思ってしまうのです。しかしながら、それも実は大人からの視線なわけです。彼らからの視線ではありません。実際には挑戦にあふれている若者もたくさんいます。だから本質的には人間は挑戦する生き物だと思うのです。だから、挑戦しない若者は環境による被害者なわけです。それを大人がばっさり切って、最近の若いやつは、と言えば、もともこもないわけです。あなたたち、我々がつくった環境を彼らはいきざるをえない。だからこそ、時には怒り、時には間違っているとストレートに襟を正し、あるいは時には友達のように分かち合い、関心を持っていると接近することが大人の役割です。

それが功を奏すかはわかりません。そう不確実なわけです。自分だけが環境要因ではないから。だから、とっても非効率的です。なぜなら、別の大人たちが無関心だらけであれば、相対的に影響を与えることがなかなかできないからです。けれども、そういう大人ばかりだとしたら、結果的に何も変わらないのです。よくないものは駄目だと声を上げる。それを彼ら彼女らは待っているのです。関わることで恨みを買うこともあるでしょう。だからリスクも伴います。けれども大人はそのリスクを背負わなければなりません。狩猟社会の時代を考えればそんなこと理解できるでしょう。

こうした声を上げるっていうのは、本当は親の役割なんですが、それが駄目なら近所のおっさん。それがなければ関わるすべての大人の役割です。世の中は効率性ばかりで、やれ体罰だ、やれハラスメントだと、文章(理屈)で縛り付けます。しかしながら、そもそも私たちの先祖はそんなこともなく、きちんと子孫を育ててきたわけです。それを恐れて教育ができるわけないのです。そこには紙切れのエビデンスや理屈は必要ない。先に生まれるで先生。つまり、大人はすべての子供の先生なわけです。