森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

ある格言から脳化社会へ

2015年10月27日 00時39分31秒 | 脳講座
「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」映画監督・小津安二郎の有名な言葉です。この言葉を引用し、私なりの解釈を加えて、たぶん下記のようなことを昨日のセミナーの最後にメッセージとして話しました。

言葉や概念はいずれにしても人が生み出した流行そのものなので、何がニューロリハで、何がニューロリハでないのかはどうでも良いのです。こういう意識は、病院で頑張るのはまちがっている、外に出るべきだという言葉・文脈で作られた意識・妄想も同じです。fbで流れている言葉・文脈も流行そのものであり、時代の大衆の通念としての表現であると思えば、それに目くじら立てる必要もないし敵対しても何も生まれないと思うのです。だって流行なんですから。

一方、それが社会や他者に三人称的にも貢献するか、あるいは社会をミスリードさせてしまうかは、私たちの生活にとって重大な問題になります。よって、常に自分目線でなく、向こう側からはどのように見られているかの視点取得を意識しなければならないわけです。よって、観る側・受ける側を徹底的に不愉快にさせる陳腐な表現(こうしたSNSにおいても)は、ある程度な道徳的観念のもと精査する必要があるわけです。

そして芸術は私たちの仕事そのものになります(小津にとってはそれが仕事であったわけですから)。この自分にというのは、前の2つ(流行、道徳)を受けた上での表現ですから、決して社会の流れにものらず、道徳倫理も存在せず自分勝手に振舞うというわけではありません。私自身には前の2つを殺し、それらに対抗させて、この自分という言葉を使っているとは思えず、あくまでもそれを受け取った上で、と解釈しています。この言葉を私なりに解釈してみると、仕事は地位であったり金銭であったりの外部評価や刺激・誘引で惑わされず、自分に従う、つまり、「好きこそものの上手なれ」自分がそれを好きか、愛しているかに従って仕事をするべきだと考えています。よって、自分が好きなことですから、それを人に強要したり、無理にプロモートしたりはできないわけです。

この社会は人間の脳によってつくられた社会、脳化社会。だとすれば、脳幹、中脳、小脳、脊髄などを担当する人たちがいてもいいんじゃないでしょうか。全員が前頭葉であれば混乱必須であり、常同的なシステムがうまく機能しません。人間は意図をもった生物ですが、脳化社会であれば、意図(主張)を抑えて淡々と働いている器官(人々)も必要なわけですから。そのような人々の我慢や努力によって、ある一部分の主張は成り立っているわけです。淡々と日々仕事をしている人たちの基盤の上に社会は成り立っている(すべての人々が声を大にして意見をいうわけでもないし、人生を変えたいと思っているわけではない)。このような意識を持つことが、私たちの社会や組織(脳のシステムがうまくいくように)を巧妙に機能させていく秘訣ではないでしょうか。

ニューロリハセミナーも講座を担当する全員がキャッチーなフレーズを連呼し、プレゼンが上手かったら、いかがなものでしょう??たぶん前頭葉ばっかりだと相当に疲れる空間・時間になるのではないしょうか、、、、僕はそう思っています。

ニューロリハセミナー(機能編B)を終えて

2015年10月26日 00時10分08秒 | 脳講座
ニューロリハビリテーションセミナー(機能編B)終了しました。300名の方々に、はるばる奈良まできていただき感謝です。「行く」ではなく、この「迎える」という感覚が、たまらなく、かつとても心地よいわけです。
来ていただくことで、私たちの講演内容以外の、環境というか、関係性(講師同士だけでなく、院生、事務員、カフェブースのお姉さま、本屋さん、そしてみえない大学関係者、掃除のおばさま、、学生などなど)というか、所作というべか、細部というべきか、花(内容)でなく、土の中というべきものを感じてもらえたのではないかと思っています。
もちろん花が咲いていなければ魅力はないので、その花はたっぷりの情報で皆さんを魅了できるよう、ちょっとした情報の取得と魅せ方は努力するわけです。ただその花が、造られた豪華絢爛で全員同じで優等生なものであってしまえば、少々生物らしさから離れるため、嫌悪や妬みや不安が惹起したり、あるいは「あ~すごいな(私には無理だな)」という諦めの意識を生み出すため、私たちは自分らしさを残した素の花をとりあえず咲かせているわけです。
実は、当日までみんな、互いに何を話すか知りません。そして、誰もが誰かのトークに無理やり介入(修正要求)することはありません。そしてこんな風にやろうという意識や意図のつくられた統一もしません。そして一応私がリーダーではあるんですが、全くもって忠告はしません(信じるという視点から)。みんながみんなのトークを聴きながら、互いに誤差修正しつつ協力という視点で、6年かけてこの統一感という雰囲気・関係性をつくってきました。
畿央大学の建学の精神の最高峰(私が勝手に解釈している)に「美をつくる」というものがあります(他は徳を伸ばす、地をみがく;以前のfacebookに掲載)。この関係性の構築(非言語でも分かり合える)こそが、「美をつくる」というものではないかと、最近実感してきたわけです。
美しい関係性はすぐさまつくることができません。時間をかけて熟成し、少々の我慢と努力のスパイスをいれつつ、互いに役割の意識を持ちながら振舞う・演じるという意識の連鎖を繰り返しながら時間をかけてつくられてくるのではないかと思います。
その結晶が、畿央大学ニューロリハビリテーション研究センターをはじめ、理学療法学科の教員が、比較的長い間において、一人たりとも退職しない結果ではないかと最近思い始めました。
みんなそれなりに業績を持ったメンバーで、今尚実績を積んでいる面々、、、大学にしては比較的若い組織であり、それぞれ、いくらでも売れる人材ばかりだと僕は思っていますが、居心地の良さという内受容感覚の同調性の潜在的意識と、今尚、この環境において、何歳になろうとも自分が成長していると感じることができる(内言できる)意識の顕在化の出現が、この組織には起こっているのではないかと思っているわけです。
いずれにしても、私たちにとっては、皆さんに畿央大学にきていだき、2日間10時間の講演の連続による疲労感の中でも、ほっこりとした気分、優しい気分、頑張ろうという意識、そして何よりも知ることの楽しさ、もっと知りたいという欲求があの空気感の中で連鎖していってくれることが何にも代えがたい報酬です。そんなことぐらいしか貢献できてないかもしれませんが、そんなことが生きていくためには、あるいは皆さんの仕事のためには、とても大切ではないかと、心底思っている集団です。2月にまたそういう気分を互いに味あえるように、メンバーで協力しながら準備をしていきます。
2日間にわたりありがとうございました。