森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

幸福論

2007年12月27日 19時42分29秒 | 過去ログ

またもや週間ブログとなった。

週刊ブックレビューじゃないが、

あまり「書きたがらない脳」となっているようだ。

書くという行為はシミュレーション脳として重要だし、

記憶を再生し、固定化させるためにも意味ある行為だ。

しかし、最近無気力なのか、そうでもないが・・

23日に一度、高知に帰り、

そのまま中学の同級生がやっている「ひょっとこ寿司」へ。

車海老をそのまま焼いてもらい、

今日のお薦めの鰺とカンパチをいただく。

悪い時代の昔話に花が咲き、

誰がその道に行き、今は牢屋にぶち込まれている等とたわいもない話で盛り上がる。

その足でさっき一杯だった「虚空」へ。

相変わらず、センスのいいようにレイアウトされている。

そして、相変わらず人で活気がある店だ。

天は二物も三物も彼に与えている。

料理、陶芸、活花、どれをとってもgood jobだ。

彼から頂いたメッセージは温かいが、

こんなに悪い漢字で構成しなくてもいいじゃないか。

 

これがおれ? そんなに攻撃的で悪なのか???笑

それはもう卒業していると思うが。

 

25日に高知から奈良に仕事で帰る。

いろんな話をいただき、ありがたい。

今、良い土岐なのかな。

土岐は今、と有頂天になり、大地を踏み外さないようにしたい。

人生、山あり谷あり。

谷を迎えたときのために準備をしておかねばならないが、

科学という仕事を続けても、

パラダイムを転換することが不可能なような気がしてきた。

これはこのどっちつかずの業界だからかもしれない。

昔、臨床家のときは、英文だろうか和文だろうか、

とりあえず、病院にある雑誌は、タイトルだけでも良いから片っぱしに読んだ記憶があるが、

今はもうそれはベルエポックで語られている。

研究を原点に戻すことを考えつつ、

科学で勝負できないのなら、

文化的(一般書からも)に勝負し、

間接的に転換を図るための戦略を考えるべきかもしれない。

同じ戦略をとっても、なかなか厳しい。

そうこうしているうちに、人生の終焉を迎えそうだ。

そのもがき続けた証拠が、次につながると思い、

長いレールだが、それを敷き続ける。

 

しかし!自分の人生、途中で投げ出し、

自分らしい「幸福」を求めた旅にでるかもしれない。 な

んてことを最近よく考えるようになってきた。

 

今日は、NeuroReportにonline submission していたが、

どうもPDF化ができなく、往生していた。

結局は投稿できず年越しか。

Reject論文の片づけ等などは年末年始にしましょう。

今日は年内最後の会議を2本行い、明日、仕事納めです。

明後日、高知に府立大の野村先生と帰ります。

連日連夜の宴会が待っていることでしょう。

そろそろ、執筆したくなりはじめました。

3つ今、草案がある。 これを形にするため、年末年始をすごそう。

 

それが「happy」かもしれない。

 


論理トレーニングとこころの洗浄

2007年12月21日 23時32分01秒 | 過去ログ

なんか、すっかり週間ブログになりつつある。
ブログはかつおといっしょで旬に限るが、
どうもそれも「億劫」になりつつある。

言語化することは思考トレーニングなのだが、
ブログは必ずしもそうでなく。
再認、再生するだけになると、
それはつまらなくなる。

脳内での言語がそのつどインタラクションし、
新たな文脈を創造する。
そうすると、それはそれは面白く、
芸術のようにいろんな色になる。
音もそうだ。
音色というように。

さてさて、昨日は13時から、20時まで会議だった。
何をそんなにと思うが、
学科会議、教授会、大学院委員会、
そして博士課程プロジェクト委員会と、はしご状態。
まさに、午前様の5件はしご状態のような感じか・・・
土佐人は昼の2時ぐらいからのみ、
夜中の3時、4時まで飲む場合がある。

大学院委員会では我が院生達の研究進捗の遅れが目立った。

研究とは何か?
授業を受けても、生まれない。

自立した研究活動をおくる。
それが学部でなく大学院なのである。

そんなことをこのブログで書くのもつらい。

今日は岡山での年内最後の講義。
久しぶりに力を入れて話をする。

おもちゃの意味について語った。
ゼロでもよくない、与えすぎでもよくない。
その意味は、比喩表現、そして創造性だ。

比喩することが創造を生み出す。
道具を与える、しかし与えすぎてはならない。
ひとつ、二つで創造をつくる。

積み木ひとつあれば、何かに見立てる。
その能力が、人にはある。
積み木を車に変えることができる。
それが知能である。

リアルなおもちゃになった現在、その比喩が乏しいし、
物質が豊かになればなるほど、
創造性を失い、使い捨てる。

しかし、道具がなければ創造・言語も生まれない。

論理トレーニングだ。


ツールとは知能を補完するものでなければならない。


臨床実習教育とは何か、それにもつながる。


さてさて、歌姫の最終回。

予測通りの展開だったが、

松中、ジェームス太郎、芥川、さくら、歌姫、そんなキーワードで、

最終的には孫で、結ばれる。

と予測していたが、ひとつだけはずれた。

それは記憶を両方持ちえて、

高知の出来事をすべて忘れたように振る舞い、東京に帰るシナリオ。

記憶がよみがえり、東京に帰るとは思っていたが、

自分の娘のために生きることを選択し、
自らの思い出、恋、を封印する。

まさに、「いごっそう」のかがみやね。

自分のこころを殺してでも人のために生きる。

その気骨精神が土佐のいごっそうちや。

いごっそうというと、飲みまくり、けんかっぱやいのイメージが強いが、

気骨精神、それが、土佐のいごっそう。

感動したちや。

これは現代社会への警告を発したんだと思う。

自分の子どもを餓死させても男を選ぶ母親などなど。

扁桃体があるのかと疑うが、麻薬にかかるのだろう。
道徳を失うといった。


誰かのために生きる。

自分のためにしか生きていない(生きていけない)。
この不安だらけの世の中。

それを昭和の世界が、警告してくれた。


年末には土佐に帰る。

More refresh !

2007年12月17日 23時30分33秒 | 過去ログ
なんとなく書くことが面倒になってしまっていた。
高知から帰り、いろんな仕事をしたが、
あまり記憶が無い。

金曜に岡山に行き、講義をしたことと、
日曜日が実に4ヶ月ぶりぐらいで休みがあった。
講演がないというのは、実に身体が休まる。
18時間ぐらい寝ると、やっと復調してきた。
なにか知らないけど、水曜から高熱で寝込んでいた。
木曜日、無理やり学科の忘年会に行くと、アルコールで治癒したのかも・・・

もう1回、2回休むと普通に戻るのだろうか。
今日は今年最後の授業。
人間発達学では、languageの進化、発達について話すが、
FDのアンケートの時間を気にしてしまい、それにより、
少し、急いだりしたので、間をはずして話をしたため、
理解を深めることができなかった。
プロとして、時間配分を失敗した。
午後は、神経系理学療法学Ⅱだが、
今日は失調症に対するエクササイズを考える場とした。
実技を行う授業はとても創造的で楽しい。
来年度はついに3年生の理学療法に関連する単位数が
1(神経系理学療法学の一つのみ)となる。
今年度は3、昨年度は6であった。
もう理学療法士でなくなる日が近いのか・・・半分本気、半分冗談です。

2年での発達、1年でのリハ概論は存続する。

来年度から、教育学部の「発達脳科学」「コミュニケーション心理学」がスタートする。
また、その翌年は看護医療学科での「感情体験の脳科学」がスタートだ。
看護は必修だったと思う。
All round playerとして生きるかな。
リベロ的なのかもしれない。

今年、最後の3年ゼミは、ミラーニューロンシステムの論文が2本、
音知覚の作業への干渉作用の論文が1本取り上げられた。
新年がスタートすれば、自らの研究計画に変換・翻訳してください。

そろそろ院生も1年経過しますよ。
もう修士論文の実験開始時期としては、リミットを過ぎている感がありますよ。
投稿時期を考え、自らの行動シミュレーションを!

アムステルダムのチケット、ホテルを予約した。

そのほか、もろもろの書類作りを明日しないといけない。

今日は、あまり意気のない、意味の無いブログとなった。

それにしても、沢尻エリカがうらやましい。
まだ、引きずっている。

TVでBlack dogを聴いた。

63歳のpageのギターがemotionを高める。

ドラムはBonhamの息子だった。


Recovery process of my emotion

2007年12月11日 23時17分07秒 | 過去ログ
土曜日、高知より大阪にボンバルディアで入る。
そのまま、新大阪のコロナホテルへ。
第8回光脳イメージング研究会会場へ。
昨年の参加以来だ。

会場に入るやいなや、一番前の席に案内され、
スライドの整理ができず、
昨年同様、加藤先生の厳しい講演を聴く。

その後の講演は臨床的で少し減速気味になったが、
昼休みをむかえ、高知の竹林先生、新潟の大西先生と挨拶を交わす。
大西先生も学科長になられ、忙しいにもかかわらず、
依然として研究には精力的だ。

昼休みにスライドの修正をして、
東京大学の松田剛さんの
テレビゲーム時の脳活動研究に関するデータに基づく講演を聴く。
博士論文らしく、アルゴリズムはしっかりしている。
Frontal lobeが働かないから駄目ではなく、他の領域の活動増加が、
それを抑制しているという仮説は、僕の考えにも合致する。
システム脳としての意見としては賛成できる。

働かさない、抑圧させるのにも、
脳科学的には意味あるものだ。
リハビリも同じ。
逆に、働けばいいものでもない。
最近は、働いた、働いたに終始している感が否めない。
空間から時間へ、その研究シフトが必要だろう。

自分の講演は、超高速データ示し、に終始した。
これも戦略である。
飛ばしすぎて意味がわからない人もいたと思うが、
ある層に対する戦略的講演であった。
その意味を理解できた方は、わたしの心理が読めている。
宮井先生から質問をいただいた。
先日の痛み研究会にも共通できるが、
強調できる部分は、日本全国でデータを集め、
統合しながら、よきものへと展開していきたい。
協力できるものがあれば、協力していきたい。

自らの講演を終え、そのまま伊丹空港へ。
高知へとんぼ返り。

翌日、祖母の告別式。
さすがに、母親代わりで、
理学療法士になるための経済的援助をしていただいた
祖母の死はつらく、
ほぼ二人で一緒に住んでいた家の階段に座り込むと、
エピソード記憶がかなりの鮮明さでよみがえってきた。

最後のお別れには、
もうすぐ還暦の僕の父親(まだ若いのだ)はそこに座り込み、
そして号泣した。
男にとっての母親とは何か。
自分の熊本の病院のベッド上にいる母親とダブる。
その祖母のご遺体と、母親の天井を眺めている姿が、
私の脳裏のなかで、
激しく、神経が流れていく。

お骨となった祖母は、
50数年前に亡くなった夫(僕からは祖父)と
めぐり合えただろうか。
あまりの変わりように、
天国の拝眉の得ていない祖父はびっくりしているのかもしれない。
きっと、祖母も30代の女性になっていることだろう。

この世界を包んでいてほしい。

告別式を終え、
高速道路で一路、奈良に。
深夜に帰り着き、仮眠をとり、
月曜、何も無かったように、
授業を2つ、ゼミを1つ行った。

いつもと変わらない、
その世界に幸せを感じるが、
自らの情緒は不安定だ。

情動の回復には、少し時間がかかるかもしれない。

この場を借りて、
我が高校時代の同級生の2人にお礼をいいたい。

自分の名前もいれていない、その告別式の新聞案内に感知し、
来てくれ、そして、家に線香をあげに来てくれた。

ありがとう。

故郷の友は、こころが大人だ。

私も彼らを見習い、何もないことで、腹をたててはならない、
そう思った。

どうでもよいことは、流れに従う。

小津安二郎のことばが過ぎ去っていった。



とんぼかえり

2007年12月08日 09時36分01秒 | 過去ログ
高知から朝一のフライトで大阪へ。
これから、光イメージング研究会へ参加、講演し、
その足で、再度高知に戻る予定。
家は奈良なのに、なんかアベコベだ。
久しぶりのネット環境に、自分はつくづく機械に支配されていると感じた。


意識の境界線

2007年12月04日 23時45分25秒 | 過去ログ
今朝は名古屋から帰り、仕事に向かう。
木枯らしが舞い、風の音からも寒さを感じるが、
実際に出てみると、そうでもない。
寒いはずなのが、あまり感じない。
別に病気でもない。
体調も回復してきた。

大学と自宅は公園を挟んであるだけだが、
その公園も紅葉と枯れ木が混在している。
その公園を歩く自分がすきなのだが、
その寒さを感じないのは、意識の問題か。

注意が季節感に相当に集中していると、
つまり、視覚の色のハーモニーに集中していると、
体性感覚に基づく不快な寒さを制御するのか・・・
視覚に基づく快情報(あえて感情も含むので刺激でなく情報とする)に
意識が引っ張られ、
不快な寒さ(暑いのは得意だが寒いのは不得意)を消去する。
むしろ、その寒さが心地よい肌触りになっているようだった。

まさに、緑と赤の境界線な感じだ。
意識が脳のなかで100%で展開されているのなら、
それもわかる。

痛みの意識に似ている。
体性感覚野には0.1sec、その後の意識化までには0.3sec程度、
このタイムラグに注意の集中が起これば、意識化されない。
先日の高速道路の事件や、スポーツ中の出来事も、
時間的にも空間的にもこのラグの間の脳のなかの出来事かもしれない。

時間分解に基づく脳研究が面白いのかもしれない。
意識を取り扱うのなら。


今日は、院生の研究、そして院生、学部生の財務の仕事、
財務の仕事は秘書である、自分の秘書を自分がしている。
研究費で賄えばいいが、それも面倒だ。
自分でやらないと気がすまない性格がたまには仇となる。
分身がほしいものだ。

結構、院生の出張や、院生の備品に時間がとられ、
さらには、先日の健康科学研究所開所記念シンポの原稿書きにも
小一時間とられた。
一時間程度の原稿なので、力がないが、
1時間あれば、原稿用紙10枚はいけるかな。
このブログもたまには、原稿用紙5~6枚にいっているし。
ブログをタイプするのは正味10分以下なので、まずまずかな。

やっと17時前に終わり、
冷水先生とアムステルダムの学会のシミュレーションをした。
早く飛行機をとらないといけない。

後に、理学療法MOOKの編集の最終のつめ、
そして同時期に予定される「身体運動学」を確認し、
福岡の理学療法学会の演題を読み、コメントを記し、

病み上がりなので、19時半にお暇した。
その代わり、明日に残した仕事は山のようだ。


毎日、明日行う仕事をメモするようになったが、
大体8~9ぐらいある。

その日に終わるのは(もちろん終わらせないといけないものもある)、
4~6ぐらい、2~3残っていくのだが、

必ず、また8~9になっている。
どこから降って沸いてくるのだろうか・・・・

10月に仕上げた英文が2本ともrejectとなった。
国際誌は年々早くなる。
1週間ほどで決まる。

修正し別の雑誌へ投稿しないといけないが、
また、12月に2本書こうと思っているので、
そういうのもどんどん蓄積され、いつかはフォルダ内に存在するのみとなる。
そんな論文が毎年毎年蓄積されるので、日の目を浴びないやつらが、いっぱいいる。

いつか日の目を浴びさせてあげたいのだが、
毎年毎年、自らの思考や思考水準が変わっているので、
アポトーシスさせるのも存在しているのも事実だ。

論文は旬である。

人の思考は月日がたてば変わる。

そのときに、旬な状態で、売り場に出さないといけない。

授業はおろそかにできない。
しかし、授業だけに時間がとられては、
大学教員としてのプロではないと自らにムチを入れる。

それが仕事だ。