森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

日本人としてのこころ

2014年07月15日 09時32分59秒 | 日記

久しぶりのブログ書き込みです。最近はfacebook記事が多くなってきました。時代の変遷でして。。


日本のサポーターのゴミを拾って持ち帰ることが世界のメディアで賞賛されていますが、私たち日本人としては何ら当たり前のことですよね。むしろ賞賛されてしまうことに違和感を感じてしまうこともあります。逆に言うと、日本人がゴミを持ち帰ったことに対して、日本人としてその日本人を「すごい」とか思ってしまっていたら、今の日本の教育はむしろだめな感いっぱいですよね。

仕事柄、外国に行く機会に恵まれると、街の汚さに閉口してしまうこともしばしばあります。先進国であろうと途上国であろうと、その変わりは大きくありません。街が朝の時間にきれいになっているのは、明け方に清掃する人の雇用が先進国では進んでいるだけです。マクドなんかそのまま食べた後のものを放置なんかは当たり前ですからね。そして、清掃の仕事に就く人たちへの偏見の意識も未だあります。階層性の間違った精神が根深いのです。

こうした違いは教育にあるのかもしれません。欧米の教育は、ある段階から自己の意識を育成し、自己主張を求め、意見交換の中で行うこともしばしばあります。こうした意識の芽生えが後のリーダーを構築していくことを前提にした教育手法です。一方、日本は「先生」からの教えを学ぶという、授業を聞くという意識・態度を涵養することが前提です。だから、日本人は主張しないと揶揄されることもしばしばありますが、むしろ、日本の教育の方向性によって、先の他人が出したゴミまでも拾うという意識を起こしたのではないかと思うのです。授業時間内は、座って黙って「我慢する」。我慢するという表現はネガティブに捉えられるかもしれませんが、今は耐え将来に蓄えるという視点では、「この心」の形成は前頭前野の発達のためには不可欠であることが近年の脳科学が示しています。だから僕の大学の授業も、「安易に」実技やワークショップには走りません。じっと座って聞くという精神の芽生えを意識しています。患者さんの声を聴く、臨床が上手く行かない時も、巷の誘惑にかられるものに飛びつかない、そういう人間を育てる意味でも。

主張する者ばかりが出てくると、中には先のことを意識せず、今だけの幸福を主張する人間が増え、いずれそれの意識によって日本がつくられてしまうかもしれません。子どもの頃でいうと、食事の間じっと座らせる、こんな何気のないことが道徳を芽生えさせ、本当の意味での自己犠牲を伴う倫理を教えてきたのではないでしょうか。

人間にはじっと耐え忍ぶ時が必要です。ワールドカップのドイツの優勝にもあるように。そして、その耐え忍び自己の心の痛みの形成こそが、他者の心の痛みをわかる人間になるわけです。ワールドカップをみていて、彼らのスポーツマンシップの心の本当の意味はそこにあると思うのです。

自己意識は他者意識がないと生まれません。自分だけでは生きていないのですから。そして無理やり、常に隣国への恐怖にさらされることで、競争・攻撃意識が高くなる欧米化する心を取り入れる必要はありません。文化を大切にした日本人を貫き、伝承すれば良いのです。

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