森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

7~8月の講演スケジュール

2017年06月14日 18時18分30秒 | 日記


兵庫西宮認知神経リハビリテーション特別研修会
日 時:平成29年7月2日(日) 14:00~16:00(受付13:30~)
会 場:西宮市民会館 中会議室(4階401会議室)〒662-0918 西宮市六湛寺町10-11  TEL 0798-33-3111
テーマ:運動療法を行うにあたっての認知神経リハビリテーションの
    最新の知見 ~体性感覚および注意機能を中心に~


骨盤計測研究会おきなわ講演会
日時:平時29年7月9日(日)
場所:P’s square
内容:ペインリハビリテーション

日本認知神経リハビリテーション学会研修会
日時:平成29年7月15日(土)
場所:岩手県民会館
内容:行為と認知のニューロサイエンス

静岡県理学療法連盟特別講演会
日時:平成29年7月17日(祝)
場所:常葉大学
内容:ニューロリハビリテーションー最新研究の成果と臨床応用—

株式会社geneセミナー
テーマ:姿勢と歩行の神経メカニズムとニューロリハビリテーション
開催日時:2017年7月23日(日)10:00~16:00(受付9:30 ~)
会場 株式会社 ヤクルト本社ビル(ヤクルトホール) 2階 ホール

一般社団法人青森県理学療法士会研修会
テーマ:ニューロリハビリテーションとは何か?-身体性システム科学から考える-
日時:平成29年7月30日(日)
場所:青森市はまなす会館 大会議室 

一般社団法人吹田市理学療法士会特別講演会
テーマ:脳を探ってわかったこと ~今、理学療法士に伝えたい ニューロリハビリテーション~
日時:2017年8月6日(日)14:30~16:30
場所:済生会吹田病院 センターホール

株式会社geneセミナー
テーマ:半側空間無視・失行の神経メカニズムとニューロリハビリテーション
開催日時:2017年8月20日(日)10:00~16:00(受付9:30~)
会場:株式会社 東京証券会館 8階 ホール


AMED会議
日時:平成29年8月26日(土)
場所:名古屋

氷室のライブ引退に思う

2016年05月24日 05時30分18秒 | 日記
「青春が終わった」という喪失感な東京です。ライブ終了後、しばらく呆然と立ちすくんだのは初めてかもしれない。



氷室の姿を最初にみたのは、もちろん高知でのライブ。グリーンホール(小ホール)ではちゃめちゃになり、しばらく来ることができなくなり、2年ぶりに来たオレンジホールでのライブ(ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR)ではすでにチケットがなかなかとれなく、とても往生しながらGETした記憶がある。

自分の中学時代に、彼らがベルリンでレコーディングしたアルバムBOØWYのBOØWYから聴き始めた。それからJUST A HEROに行き、INSTANT LOVE、MORALにさかのぼり、15歳の時に、彼らのコピーを始め、髪をちょっとさか立てたりしながら高校に通った。松井のダウンピッキングを真似て、どんな時もオルタネート・ピッキングにはせず、ダウンを極めようと必死だった。暴威だったころのLOFTのライブに憧れ、GUELLIRAやGIVE IT TO MEを弾いたりした。その後、BEAT EMOTIONが出て、PYSCHOPASSとなり、彼らは解散した。そして、巷はBOØWYのコピーバンドばかりになり、なんとなくそれがカッコ悪く見え、知らないうちに一歩引いてみてしまう自分がいた。洋楽に戻ったり、PERSONZやRED WARRIORSのコピーなどをしたりしながら。。。それから30年。

BOØWYの曲も氷室の曲も全く聴かなく過ごしてたけど、どっかにLAST GIGSということにひっかかっていた。そんな中、同僚やかつての同僚が「チケットありますけど、一緒に行きませんか?」と声をかけてくれた。忙しい自分を思うと1日迷ったが、これは「何かなんだ」と思い、そのまま「行かせてもらう!」と返答した。
時間がたって、改めてもっていたアルバムを聴かせてもらうと、完成度の高さに驚いた。そして何よりもくさいけれども、氷室はヒムロックを演じている、矢沢がE.YAZAWAを演じるように。これこそが、ボーカリストであるといわんばかりに。なんだかんだ自分のボーカルスタイルも影響を受けているんだよな、と思いつつ。そして、なんて醜い体型なんだろうと自分を反省しつつ。民生のように自然体で生きる中年もかっこいいけど、氷室のようにいつまでも男の色気を意識する中年もかっこいいと思った。ドームに来ている屈強な男連中が多いライブと思うと、なおさら。いずれにしても、自分の見せ方(演じ方)のメタが効いているだと思う。



BOØWYから遠ざかり、どことなく距離を置いていた自分。次のライブは全曲BOOWYでもいいかな、と思ったりもしています。。。笑
どう生きるか、どのように生きるか、それが大事なんですね。最後はなかなか席を立てない寂しい意識が生まれました。
今は青春が終わった、って感じです。そして感謝です。姫路講演後、東京へ。そして早朝の新幹線で帰り、授業に!
追伸:東京ドームと目と鼻の先の文京区の出版社、一足先に、新しい本をいただきました。この本のスタイルは、私のロック魂みたいなもんです。




書き続ける脳

2016年02月07日 14時57分07秒 | 日記
そういえばブログは畿央大学に着任した2004年(最初のyahooブログは消去)から書いていて、もう10年以上に。もうブログは滅多に更新せず、もっぱらこのfacebookが発信媒体になっています。「よくもまあそんなに書きますね」とも言われますが、ブログから一貫して、こうした文章を書くのは「記憶の整理」と「書くことのトレーニング」としてやっています。

おかげさまで、このトレーニングが功をそうしてか、今は情報がたとえ外部から与えられなくても、言葉は突然ではじめますし、そして書くスピードも早い。歩いても何してても、私の脳の中には内言語であふれています。実際は。何事も石の上に三年ならず、十年ですね。継続は力なりなわけです。
さて、昨今、私たちの業界の仲間は本や文献にお金をかけなくなったと言われています。私の若い臨床家時代は1ヶ月に2万円ほど活字(新刊や原著複写依頼)にお金をかけていたでしょうか。学術情報をお金で買うという手段ですね。毎週のように文献が届くのを心待ちにしていました。

今の若手も別に勉強していないわけではなく、その情報はセミナー事業から買うようになっていますよね。活字から、ある種漫画(スライド図)とか、演劇(パフォーマンス)になったのかもしれません。これも、メディアの移り変わりを背景とした時代背景なので致し方ありません。むしろ時代は進展しているのでしょう。だから、そのパフォーマンスをする(講演する)人々のためにも、できればわたしは正確な情報提供のために活字の製作(研究論文や単著)に、今後もこだわっていきたいと思っています。
いつしか時代遅れといわれても、「温故知新」「原点回帰」という言葉があるように、信頼のおける情報提供にこだわっていきたいですよね。そんなことを同郷の有川浩さんの「倒れるときは前のめり」を読んで思ったところでした。このfacebookもいわば、毎日の私の「書くための」「書き続けるための」、つまり成長するための前向きトレーニングなわけです。

それでも!!本を読むことは「時間がかかる(与えられる)」ことから、自らの「我慢」「慎重」「想像」「解釈」「創造」「志向性」「心の理論」をつくる上で重要だと思うわけです。

倒れるときは前のめり、坂本龍馬が言ったか言わなかったか、まあそんなことはどうでもよく、土佐人の心意気として生涯もっておきましょう。

動機付けや教育の前に

2016年01月31日 19時34分02秒 | 日記
佐賀県理学療法士学会(例年よりも多くの参加者だったようです、期待に応えることができたか、、)での講演を終了し、博多からの新幹線に無事に乗ることができました。やっと家に帰ることができます。家に帰ることができるだけで、ささやかな報酬です。帰る家があるという。



講演後「スタッフ教育において、いかにしてスタッフの内的動機付けを高めていくか?個人の目標を内的なものとして設定してもなかなかうまくいかない」との質問をいただきました。それ自体がすでに上司から強制的に方向づけられた(言われた)外的動機付けになっているために、と。



これに対して、「動機付けと個人の報酬価値はそもそも違うため、上司・先輩は階段を下りて、部下・若者からはどのような見え方がしているかという意識を持つこと、すなわち、上司であるからこそ「視点取得」を持ち、彼ら・彼女らからは世界・環境がどのように見えているかのボトムアップ情報をピックアップすること」と質問に答えました。親が子のレベルに下がり、話を聞いたりするということや、今の時代を生きるために、むしろ先を歩いているものが、逆戻りするという意識(文化の中心である若者にあわせる)です。これで功を奏す場合ももちろんあるかもしれません。例えば、私たち中年の「おっさん」が「よさこい祭」を通じて、彼ら目線になり一緒に楽しみ、悩みを聞き出すという手段もこれに相当しますし、自分が学生教育の際にも、「俺たちの時代は」といわず、今の彼ら・彼女らの興味から物語をつくるという方法です。しかし、必ずしもそれでもうまくいかないことは多々あります。



ボトムアップだけではどうにもならないことは多々あるわけです。その場合は、トップダウンにdeadlineを設けた共通の「プロジェクト」を設定し、スタッフに日々の仕事以外の社会的役割を与え、協力のもと、そのプロジェクトをクリアしていくことも必要になります。これは質問では答えることができませんでした。「共同注意」の視点です。

けれども、これでもうまくいかない場合がおおいにしてあります。なんとなく、これは明確には見えてはいないのですが、先輩・上司が管理中心な生き方になり、自らが何かに向かって挑戦・探求しようとしていないことがあるような気がしています(いわゆる若年寄)。「俺はもういい、これからはお前たちの時代だ、おまえらが頑張れ」と、一見もっともらしい意見なのですが、これでは、もはや上司・管理者が「今(の情報)」を楽しんでいないわけです。これでは模倣しませんし、身体同調も後輩たちと起こっていきません。なぜなら同じ目線ではないからです。
「好きこそものの上手なれ」は部下・後輩に向けたものだけでなく、先輩自らが実践できているか、なわけです。楽しんでいる者には、楽しみたい者が集まり、自然と身体同調、すなわち行動が同調してきます。なぜなら、脳の活動(脳波リズム)が同調するわけですから。いわゆる「類は友を呼ぶ」わけです。

管理者は管理ができて当たり前、なぜなら、経験に裏付けられた「結晶的知能」を持っているから。しかし、それにプラスして、いまだ「今・現在」を楽しみながら(苦しみながら)挑戦しているか、そして、若い世代には負けてしまう「流動的知能」を若者からの意見として引き上げながら、その意見を踏まえて、一緒に物事を解決しようと行動をとっているか、これこそが、これまで人間が人間を伝承してきた秘訣ではないかと思うわけです。これに関しては、最後、時間の関係上述べることができませんでした。

これを端的にいうと、おそらく、一緒にアホになれるか、ですね。別名、夢中ともいいます。あとは、教育してやる、という意識よりも、愛するという意識かな、とも思っています。愛は知識の母ですから、、第一、教育してやるという一方向だけの意識が見えてしまったら、うざいですよね、、、おまえはどないやねん、って、、

いずれにしても、様々な臨床介入方法のベースには、それぞれの社会性、そして無意識にあらわれる非言語コミュニケーションが存在しています。むしろ、そちらで治療の成否は決まっていると言っても過言ではありません。先人たちのから残された言葉や、実証科学がそれを裏付けています。

技術を学ぶことも大事、しかし、セミナーとかのバーチャルだけで学んだ気にならず、日々の実体験から人間性の涵養につとめてくださいね!!私もこれが永遠のテーマです。
仙台ー札幌ー東京ー福岡ー佐賀、、めっちゃ疲れました、、かえって試験の採点しないといけませぬ、、けれども、心地よかったりするわけです。

知性の正体は優しさではないか?

2015年06月14日 21時36分40秒 | 日記
I’m happy. 無事に330名の方々を大学にお迎えでき、嬉しく、そして感謝の念にたえません。夕暮れの帰り道、一人で歩行者専用道路(かつらぎの道)を歩いていると、脳がデフォルト化され、一人称に幸せだなあ、と思った次第です。

先日のfacebookに「親切心は伝染する」という記事を書いたとき、畿央大学の建学の精神「徳をのばす」ということに触れました。他に2つあるのですが、その1つが「知をみがく」というものです。


今日、無事にリニューアルしたニューロリハビリテーションセミナー機能編Aを終えることができたわけすが、皆様を迎えることで、いつもながらとても優しい気持ちになることができます。そして、私たちのチームワークがこれを通じてなお一層よくなります(肌で感じます)。だから、私たちの方が皆さんにお礼を言わせてもらわなければなりません。セミナー(受講者の方々の参加)を通じて仲間が同じ方向をみるというプロセスを与えてくれるわけですから。


さて、セミナーはこれまでの研究から、いわゆる「知」を紹介したわけですが、私ども大学の建学の精神では、それは「みがく」という動詞によって文が形成されています。しかしながら、知は私自身の中にあります。だから私自身の一人の力だけでは、それをみがくことができません。知は他人(教え、書物や文献も含める;他人が書いた、残したもの)と相互作用する(受け身ではありません)からこそ、磨かれていくのです。私はよく喩えに「川の石ころ」をあげますが、上流で鋭角に切り取られた石は、川の流れに従い、他の石と相互作用(切磋琢磨というべきか、ぶつかりあうというべきか、触れ合うというべきか、手当されるというべきか)することでしたいに互いに尖った部分がとれてきます。知をみがくということは、このような他者と相互作用するプロセスによって、険がとれる、というプロセスを示しているのではないかと思うのです。
つまり、険をとって「優しさ」を身につけることこそが、「知性」を身につけるということであり、人間が持つ知性とは、実は「優しさ」ではないかと思ったりもしています。優しさがあるからこそ、教育がある。優しさがあるからこそ、良いもの(文化、技術、科学)を伝承しようという意識が生まれる、というように。


知性の本体は優しさ、だから互いに同じ方向に向けて、時と徳という川に流されていけばよいのではないかと思っています。それに逆流する必要もないし、無理に個性や創造性をつくる必要もないわけです。そして逆流しようとしても、しだいに流され(戻され)ることで険がとれ、知性をもった大人になるわけです。だから、「待つこと」。愛は待つことができるかどうか、なわけです。子供の成長を親が時間をかけて見守ることができるように。


戦時中の人々はメールもない、生死もわからない、けれども、そこには愛があり待ち続けることができたわけで。愛があれば待てる。自分の成長も他人の成長も待ち続けることができるし、私たちの仕事のよさについても待てることができる。だから、ゆっくりと成長すればよいのではないでしょうか!?

死ぬ前に、I was happyと思えるように。

本セミナーの資料(図ばかりを載せるスタイル)は、実は6年前のこの時期に亡くなった天国にいる恩師の受け売りです(私はただ伝承しているだけにすぎません)。いつも何も言わずに私を見守ってくれました。私に書を与え、それによって知を磨いてくれたわけです。6年前に書いたこの幼い文章を読む限り、この6年、私は関係する方々によって、おそらくこの時期に比べ「知が磨かれました(優しさを獲得しました)」。だいぶ近づけたのではないかと思っています。もう少しで、山を降りはじめることができるかもしれません。良き仲間・後輩に恵まれてきましたので。



http://blog.goo.ne.jp/ss…/e/cc1c4f4ee29796c306b5735e7e11ae31

自分探しの旅なんか??

2015年01月14日 19時27分43秒 | 日記


先週末の実習指導者会議の金子学部長のお話から、今日の大学院教育学研究科の授業まで、いろんな視点から自己や学生(他者)を振り返る機会にもなりました。
金子先生からいただいたお言葉は写真の通りですが、先生の履歴はこだわり・固執なく、その環境に適応してきたんだなと思いました。大学への入学も内部進学。医師を目指したのも成り行き。生理学教室の門を叩いたのも物作りに興味があったため。網膜の研究を始めたのも師匠がそうだったから。ノーベル賞受賞者のハーバードのヒューベル先生のところに留学しても、ヒューベル達の勧めで視覚野を研究せずに、網膜の研究を続けたこと。などなど。その時々に、自己のやりたい事探し(自分探し)なんてことをせずに、ただその時々に出会った人を信頼し、その与えられた勉強や仕事を忠実に行っていく(流れにのっていく)。そして、与えられた仕事を全うし、そこには全力を傾ける(こだわる;あきらめない)というように。そうしたプロセスが人々の信頼を起こし、結果として仕事を成就させたのだと。
よく「自分探し」とかいいますが、僕はあまりその言葉が好きではありません。自我同一性(自分を知る)の意識とは人間としての自然な現象で、作為的につくりあげるものでもありません。作為的に意識しすぎると、同一性拡散(自己喪失感)が起こってしまうと思っています。昨日の2回生の授業、今日の3回生の授業では、試験前の彼ら彼女らにそのようなメッセージを残しました。僕自身は、こだわるのは自分自身の仕事(成果)であって、自分の環境やライフスタイルという抽象的なものではないと思っています。むしろ、それは流れに乗ります。それにこだわりすぎると、些細な情動を抑制できないためです。固執は前頭前野の働きを弱め、期待値を低下させ、ストレス・痛みに弱い心をつくってしまいかねません。
しかし、側抑制へのプロトン関与の証明だけでなく、ヤング、ヘルムホルツの三色説を神経生理学で証明してたなんて。。あらためてすごい人が側にいると思いました。。襟が正されっぱなしです。
http://www.kio.ac.jp/faculty/grad-school-health/

仕事は趣味である

2015年01月06日 19時29分11秒 | 日記


新年1発めの授業は人間発達学。今日は言語の発達でした。言語における意図・身体の重要性を理解してくれたかな?なぜ私たち日本人が日本語がネイティブなわけを。。
さて、先ほどまでの、今日の院ゼミはにぎやかでした。1月8日が修士論文の提出ですので、今日はうちの研究室のM2の9名がそろい踏み(あ、長野の保屋野は来てないか。。。)でした。今日はM1 10名の中で3名の研究計画・結果をみんなでディスカッションしましたが、片山君のデータは2つの仮説の決着をつけることができる成果になるかもしれません。これによって、疼痛の臨床を少し前進させることができそうです。HarisやFink以来ですから15年かかりましたね、笑。
研究とは未来のためにあるもの。研究ができる臨床家は今(オンラインの臨床)と未来(研究成果)をつなぐ存在になることでしょう(時制をもった臨床家)。メディアに出たりすることが一見華やかに思え、時代をつくってそうに見えますが、それは一瞬な一過性のものであり、結局は消え去る。それよりも、目に見えないもの、その成果を作品・原著に残す事。自分がなくなってもその作品は残り続け、それが真実であれば、使われ続けるわけです。会社を残すということもそういうことですよね?ただ研究成果が残るということは、一部の人達のためでなく、世界の人々を対象にしています。
いずれにしても、現行、カオスのようにやられている臨床を整理するためにも研究の成果は大切になります。時制の役得は脳の本質的な意味ですからね。
今日確認したD3の大住の研究成果、D1の大松の研究成果もあっとおどろくものになりました。これも臨床を1歩前進させる基礎的知見ですが、介入研究の母集団に基づく数字遊びと違って、人間・病態の真実を捉えたものになるかもしれません。追試される研究を世に出して行きたいですね。
リーダシップをとれる人間、ハブとなる調整役の人間、ムードメーカー、様々な人間達で創発される研究センターのメンバーになりました。
腰痛が醜い状態ですが、1時間ほど原稿に向き合います。「仕事が趣味であり、趣味が仕事である」「研究とはノルマではなく、発見の連続が起こる趣味でもある」

新年!

2015年01月01日 19時30分40秒 | 日記


明けましておめでとうございます。今年も心身ともに「健康」に生きることでき、また新しい年を迎えれることができる、それだけでたぶん幸せだと思います。
管理業務も増えていますが、それだけでなく、いろんなことを企てて(いろんな目標を完成させて)いこうとは思っていますが、人間として、よきものを次の世代・時代に残せるよう(種の保存の心髄)、いろんなものに向かっていこうと思っています。一番戦わないといけないのは、自己の心と肉体であることは間違いないのですが、40代も半ば、心身と相談の上、向かいます。いずれにしても、また皆さんのご協力・援助を求めると思いますが、何とぞよろしくお願いいたします。

振り返り

2014年12月31日 19時32分13秒 | 日記



今年もあとわずかですね。
高知に帰省することができました。昨日帰国後の高速運転でしたが、実家に帰り、ほっと一息です。
さて、普段は頼りないセンター長ですが、ここぞとばかり仕事の振り返りを少し。。。プライベートはなしに、、
教育面では学部卒業生が3年連続で全員国家試験に合格したことにはじまり、現4年生が成長した姿で実習より帰ってきたりと、今年も学生教育が安定した環境で行えることができました。畿央の「学生―教員―事務員」一体となったチームワークの賜物ですね。大学院の方は博士の学位を2名(若田、平川)、修士の学位を7名が取得しました。また新たに博士課程に1名、修士課程に11名をむかえることができました。2006年度に大学院ができて、やっと院生同士のチームができたように思えます。この1年、彼らの成長を強く感じました。10年後、彼らはその分野でリーダーシップをとっていると確信しています。
研究面ではface to faceを意識したニューロリハビリテーション研究センターのハードが完成し、徐々に研究の水準があがってきました。2014年、私どもの研究センターからは国際論文(Brain ResやPLoSOneなど)が11編、国内論文(神経心理学や理学療法学など)は5編が世に出ました。トップジャーナルへの掲載も多くなりました。2015年へのランディングはできたように思えます。私は筆頭総説論文が1編と不甲斐ない年でしたが、みんなに救われました。著書の方は単著1冊(脳を学ぶーひとと社会がわかる生物学)、分担2冊を刊行しました。単著は編著を含むと2005年より毎年出版することを自分の責務としてやってきました。今年もそれができてなんとか自己に課した最低ラインのノルマを達成できたと思っています。また、仲間が表彰を3回(冷水、今井、今井)受けたことは、私たちの研究にとって励みにもなりました。あとは国内の様々な研究者や臨床家との共同研究がランディングできたことも翌年につながる研究の土壌ができた年であったと思います。また私自身は科研費の切り替えの年でしたが、脳卒中から疼痛研究への内容の切り替えでもあった年でした。
社会貢献面では私自身は講演を67本行いましたが、それよりも、今年もニューロリハビリテーションセミナー(基礎、応用、臨床、研究)、ニューロリハビリテーションフォーラム、そして社会神経科学とニューロリハビリテーション研究会を無事に安定して行えたことにほっとしています。参加していただいた方々に本当に感謝しています。そして、今年は何よりも研究会をスタートできたことです。今後のセンターのあり方を考える上でエポックになったように思えます。快く引き受けてくれた講師の方々、そして演題を出してくれた方々、特にはじめて発表してくれた方々の意志決定に感謝です。行動(意志)に対して「ありがとう」といいたいです。さて、まもなく年越え。来年になって太平洋を眺めながら、2015年を企画したいと思います。
今年も皆様に支えをいただきながら、働くことができました。ありがとうございました!

観察者の視点

2014年10月07日 08時34分58秒 | 日記



昨晩(midnight)ひょんなことから久しぶりにニューシネマパラダイスを見ました(これまでこの映画は音楽ばかりにきをとられ、何度も何度も意図的には見ようと思いませんでした)。
米国の映画でなく、欧州の映画は一見退屈で、退屈力を養うトレーニングにもなるのですが、カメラアングルや揺らぎ等、そして前半から後半に至る構成等等、認知・技術面でとても勉強になりますし、何よりも、外部刺激からの情動を頻繁に喚起させ、すぐさま反応をおこさせる大脳辺縁系作動を中心とした米国様な映画(結果は明白な)でなく、欧州の映画の特徴は大脳皮質を作動させ、じわじわ内面から沸き立つ情動を起こさせ、思考(結果・解釈が多様な)させるように構成されています(これはmovieと cinémaの違いでもあるかもしれません)。
だから「楽しかった~♪」とかでなく、自己の意識としての残像・後味があるのです。一方、皮質の下でみることが多い米国映画は、現実世界とは離れる作品が多く、娯楽力(アミューズメント&ファンタジー)としては圧倒的な力(実際的に面白いしわかりやすい)を持つのです。こういうのは本邦のセミナーの傾向にも通じますよね。けれども果たして思考力は身に付いているのか?とか。。。先週末のセミナーの質問でも痛感しました。。文脈から間を読み取る(外部情報のないところに自らの志向性から内部情報化する)能力が落ちているようにも思えいます。表面だけの分かりやすさは作り手・しゃべり手の意図によるものが多いわけで、だからむしろ臨床的といわれても現実ではないことも大いにあります。
学術論文もその傾向がありますよね。結果を明白に構成しないといけないから、英語が国際語になっているから、「待てないから」多いわけで、実は捨てられるもの(価値のない論文)を含めると、今なお古典として語り継がれている、残像として検証可能性に残っているものは、率的に旧ソ連を含めると欧州が多いのではないか?と思ったりします。
「待つということ」、そして内部情報化することは自己意識の鍛錬にもなります。
今回、私自身の記憶を辿りながら見ていたわけですが、昔、若いときにみたイメージと、今回異なったのは事実です。それは、私の「自己の経験値」が違うからと思えました。見え方が違うとは、違った視点で観察できるということ、私自身の人間力(TPJ?笑)も年月を得て成長しているのだと、自己の意識から思うことができました。
さてこの映画は、変化のない世界(自己と外界)の素晴らしさと、変化のある世界のすばらしさ(自己と外界)の両義性を教えてくれます。そして教育とは何かを考えることができます。変化の有無や共同注意としての教育の素晴らしさは、この映画の一部のストーリーを利用して、次の機会に書く事ができればと思います。
年をとったせいか、ハラハラドキドキの映画を選択しなくなった、この潜在的意識はソマティックマーカーによるものかもしれません。。。笑。肉食(比喩も含め)でなくなる意識も含めて。。。