多田洋介著「行動経済学入門」(日本経済新聞社)を読む。
現在の標準的な経済学では、人間は極めて経済合理的に行動する「ホモ・エコノミカス」(合理的経済人)であると仮定されている。
ここでは、人間は、「超合理的」(常に効用を最大化するように行動する)であり、「超自制的」(あらかじめ立てた計画は必ず実行し、衝動買いをしない)であり、「超利己的」(他人のことを思いやったり、ボランティアに興味を持ったりしない)であるという、3つの特性を持っている、とされる。
現実には、そういう人間はなかなか存在しないのであるが、そのような行動特性を持つ人間の行動は、数学的に表現することが比較的容易であることと、ダーウィニズム的な市場適合の論理からすると、間違いを犯したり、他者に利益を譲ったりするような人間は、市場から淘汰され消えていく、という考え方から、従来の経済学では、「ホモ・エコノミカス」のような「非現実的」な仮定を元に考察されていたのである。
ところが、2002年に米・プリンストン大学の心理学の専門家であるダニエル・カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したことに象徴的に示されるように、ここ10年ほどのあいだに、心理学の発想を経済学に生かそうという流れが出てきている。
このような「新しい」経済学の分野を「行動経済学」とか、「経済心理学」と呼ぶという。これらは、従来の経済学の標準モデルをベースにしつつ、現実の経済現象や人間行動を説明するよう、これを補完するアプローチを取っている。
つまり、人間は、間違いも起こせば、感情にも流されたりする、より身近で現実的な存在としてとらえられることになったのである。
この本の中で説明されている、「限定合理性」(の生ずる理由に関するさまざまな説明)とか、「プロスペクト理論」などについては、正直言って私は、読了後もよく頭に入っていないと言わざるを得ない。
ただ、限定合理的な思考法が現実に多く見られることや、人間が必ずしも利己的にだけふるまうわけではない、ということを説明する際に、その都度「ゲームの理論」が用いられ、多くの人間の行動に「相互応報的」な行動原理(あるいは、相互応報的動機 reciprocity )がしばしば観察されることが説明されている。(必ずしも合理的でない心理的行動要因のために、「ナッシュ均衡」とは違った結果になることもあるという。)
さらに、著者は別の箇所では「人は『貢献』に価値を見出す」という見出しをつけて「利他的な行動」を説明してもいる。
では、現実社会において、「合理的な行動」は日常の中ではあまり観察されない理念型に過ぎず、現実的には多くの人々の行動が「相互応報的行動」に収束し、そのことで多くの人々がより多くの満足を得ることが常に期待されて言ってよいのだろうか。そうではあるまい。
もし、そうであるなら、世界中がグローバル資本主義に席巻されるという事態は起こらないだろうからだ。著者も、「行動経済学」とは、これまでの経済学を否定するものではなく、それを補完するものだと述べている。
だが、少なくとも、ここには、新しい経済学のみならず、新しい経済人類学へのヒントがあるのではないだろうか。
相互応報的であるためには、あるいは、社会に対して貢献がを行うためには、対象となる相手の存在が見えていなくてはならない。そして、それらが人間の生きる価値として重視されるような社会においては、個人が社会にコミットして行く権利(自由権的権利と社会権的権利)をいかに保証していくか、がもっとも重要な課題として追求されなければならない。
考えてみれば、行政改革(行政の非効率の改善)、公務員のモラル・ハザード、マネーゲーム化による市場の暴走、ニート問題(若年層雇用の問題)など、多くの問題がこのことに直接関わってくるのではないだろうか。
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現在の標準的な経済学では、人間は極めて経済合理的に行動する「ホモ・エコノミカス」(合理的経済人)であると仮定されている。
ここでは、人間は、「超合理的」(常に効用を最大化するように行動する)であり、「超自制的」(あらかじめ立てた計画は必ず実行し、衝動買いをしない)であり、「超利己的」(他人のことを思いやったり、ボランティアに興味を持ったりしない)であるという、3つの特性を持っている、とされる。
現実には、そういう人間はなかなか存在しないのであるが、そのような行動特性を持つ人間の行動は、数学的に表現することが比較的容易であることと、ダーウィニズム的な市場適合の論理からすると、間違いを犯したり、他者に利益を譲ったりするような人間は、市場から淘汰され消えていく、という考え方から、従来の経済学では、「ホモ・エコノミカス」のような「非現実的」な仮定を元に考察されていたのである。
ところが、2002年に米・プリンストン大学の心理学の専門家であるダニエル・カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したことに象徴的に示されるように、ここ10年ほどのあいだに、心理学の発想を経済学に生かそうという流れが出てきている。
このような「新しい」経済学の分野を「行動経済学」とか、「経済心理学」と呼ぶという。これらは、従来の経済学の標準モデルをベースにしつつ、現実の経済現象や人間行動を説明するよう、これを補完するアプローチを取っている。
つまり、人間は、間違いも起こせば、感情にも流されたりする、より身近で現実的な存在としてとらえられることになったのである。
この本の中で説明されている、「限定合理性」(の生ずる理由に関するさまざまな説明)とか、「プロスペクト理論」などについては、正直言って私は、読了後もよく頭に入っていないと言わざるを得ない。
ただ、限定合理的な思考法が現実に多く見られることや、人間が必ずしも利己的にだけふるまうわけではない、ということを説明する際に、その都度「ゲームの理論」が用いられ、多くの人間の行動に「相互応報的」な行動原理(あるいは、相互応報的動機 reciprocity )がしばしば観察されることが説明されている。(必ずしも合理的でない心理的行動要因のために、「ナッシュ均衡」とは違った結果になることもあるという。)
さらに、著者は別の箇所では「人は『貢献』に価値を見出す」という見出しをつけて「利他的な行動」を説明してもいる。
では、現実社会において、「合理的な行動」は日常の中ではあまり観察されない理念型に過ぎず、現実的には多くの人々の行動が「相互応報的行動」に収束し、そのことで多くの人々がより多くの満足を得ることが常に期待されて言ってよいのだろうか。そうではあるまい。
もし、そうであるなら、世界中がグローバル資本主義に席巻されるという事態は起こらないだろうからだ。著者も、「行動経済学」とは、これまでの経済学を否定するものではなく、それを補完するものだと述べている。
だが、少なくとも、ここには、新しい経済学のみならず、新しい経済人類学へのヒントがあるのではないだろうか。
相互応報的であるためには、あるいは、社会に対して貢献がを行うためには、対象となる相手の存在が見えていなくてはならない。そして、それらが人間の生きる価値として重視されるような社会においては、個人が社会にコミットして行く権利(自由権的権利と社会権的権利)をいかに保証していくか、がもっとも重要な課題として追求されなければならない。
考えてみれば、行政改革(行政の非効率の改善)、公務員のモラル・ハザード、マネーゲーム化による市場の暴走、ニート問題(若年層雇用の問題)など、多くの問題がこのことに直接関わってくるのではないだろうか。
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