いま、会いにゆきます スタンダード・エディション東宝このアイテムの詳細を見る |
純愛ブームだそうである。で、話題の純愛映画である。
やはり昨年公開された同じ東宝映画の「スウィングガールズ」のことを、女子高生に対して何の幻想も持たないで撮った映画、と評した文章があったが、この映画は、ある意味で、青春時代(高校時代)の「純愛」に対する幻想でできている映画である。その幻想の持ち方は、私はきらいではない。
この映画には澪(竹内結子)と巧(中村獅童)の二人が高校時代に出会って、その後、お互いの気持ちをわかりあっていく過程がていねいに描かれている。そして、この映画の中では、周りの人物や出来事が必要最小限しか描かれず、現実の日々の生活の中でのさまざまな「感情のリアリズム」がきれいに捨象されている。(日常の悩みや心配事や怠惰や自堕落や損得勘定をベタに描いていては恋愛にならない。)
「お互いに片思いだと思っていたら、実は両思いだった」というような要素は、およそ世の中のどの恋愛にも幾分かはあるものだろう。実際、成就した恋愛というのはほとんどすべてそうなのだ、と言っても良い。(というより、そういうものを本来私たちは「恋愛」と定義していた、と言ってよいのだ。)
この映画のよくできているところは、最初のほのかな恋愛感情が愛情に変わっていく(育っていく)過程を、単なる追憶の中の出来事としてではなく、「現在のこととして」追体験できるようにしくまれていることである。過去にそうであって、それが今につながっている出来事(恋愛と結婚)を、ただ偶然に起こったことではなく、自分の意思で(「いま、会いにゆきます」)選び取ったことだ、と納得できるシチュエーションは普通はなかなかないものだし、そのような感情もなかなか普通感じることの出来る感情ではない。そして、この映画の素晴らしいところは、人間の意思というものは、直接的な行動に現れるというより、むしろ人生に対する態度やたたずまいとして現れるということを静かに語っていることだ、と私は思う。たしかに、澪も巧も、いくつかの小さな思い切った行動をとり、それによって2人の関係は動いていくのだが、むしろ、その行動を後押しする感情の方に原作者も監督も力点を置いているに違いない。いくつかの思い切った行動のうしろにある無数の「ためらい」とやさしさとがこの純愛物語の基調をなしている。
森、湖、雨、木立、空、教室、陸上のトラック、競技場、ひまわり、・・・、森、湖、雨、木立、空、ひまわり。映画が描くのはほんの少しの「世間」と、家族をとりまく自然だけだ。
配役のことをちょっと書いておくと、もちろん、竹内結子と中村獅童、子役の武井証クンは素晴らしかったけれど、澪と巧の高校時代を演じた大塚ちひろと浅利陽介(「新選組!」で近藤勇の養子周平を演じていた)の若手俳優2人が秀逸で、いかにも、という感じでとてもよかった。それに、小日向文世(野口医師)が最近「超」のつく活躍ぶりで、これも嬉しい。中村嘉津雄、市川実日子、よかったなあ。松尾スズキもね。
2月4日渋谷シネ・アミューズにて。
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