ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

あるある大事典Ⅱとクイズダービー

2007-05-02 00:18:37 | その他
以下は、メディアリテラシーの話である。

例の「あるある大事典Ⅱ」の「納豆ダイエット」に関するデータ捏造問題について、何かちょっと変だなあとひっかかっていたことがあるので、そのことを書く。

最初に誤解のないように言っておくと、私は、「あるある」の番組の作り方を擁護しようとしているのではない。データ捏造がよくないことははっきりしている。
ただ、ここでは、捏造発覚後の各種メディアの対応はあまりに一面的ではないか、ということを指摘したいのである。
それは、だまされる方はまったく悪くないのか、あるいは、一方的な被害者なのか、ということである。もっとメディアリテラシーの必要性やそのあり方が問題とされるべきではないか。

まあ、そうは言っても、とりあえず、本気で信じていた人たちが少なからずいたとして、その人たちが「だまされた」と思うのは仕方ないとしよう。

だが、変だと思うのはそこから先で、他のメディアや、それのみならず、あろうことか役所までが、そのことをネタにして、すべては制作会社や関西テレビが、つまり、作り手の側が一方的に悪いということにしてしまって、言わばよってたかって制作スタッフ&関係者を袋叩きにしようとしているかのように見えてしまったことが変に思えたのである。

悪かったことについては、どこがどのように悪かったのかを明らかにして、当事者が謝ればそれでよいことだ。それを、他のメディアが正義の剣を振りかざしてどこまでも断罪しようとするように見えたこと自体が解せないし、そのことを一般視聴者が支持し、あまつさえ、騒ぎを煽り立てて糾弾するような読者投稿がいくつも見られたのは残念なことだった。

これは、全国各地の学校で起こっているとされる、「いじめ」の構造と同じではないだろうかというのが一つ目の疑問。

また、もうひとつ奇妙に思ったのは、「あるある」のようなバラエティ番組は、いつから科学情報提供番組になったのだろうか、ということである。

私が思うに、今回のケースの制作会社の失態は、何故、そんな風に思ったのか知らないが、いつの時点からか、この番組が科学的根拠のある情報番組だ、という体裁を繕おうとしたことである(今でも、この点は、ほんとうにそんなことを思っていたのだろうか、という疑問はあるのだが)。何もそんな言い方をしないで、ただ単に、少し演出の入ったバラエティ番組だ、という体裁をとっていれば何の問題もなかったはずであるのに。
そもそも、番組制作の当事者たちは、そういうつもりでこの番組を始めていたのではなかったのだろうか。

そういう言い方が成り立つのは、この番組に限ったことではまったくない。
あらためて言うまでもないことだが、たとえば、マジシャンが出演する番組はあまた存在していて、これらは言うまでもなくバラエティとしてつくられており、科学的事実の探求番組としてつくられているわけではない。世の中の怪異現象を面白おかしく紹介する番組もいっぱいある。それらの番組では、事実だと確認されたことだけが放送されているわけではない。
それらの番組の中身を信じてしまう人も中にはいただろうし、これからもいるだろう。だが、そのことがこれまで糾弾されるべきことだったのだろうか。
テレビにおいては(一応、バラエティ番組においては、と限定した方がよいだろうが)早稲田の大槻教授のような存在すらバラエティ番組のキャラクターとして認識されるのであり、それが正しいメディア・リテラシーのあり方である。

屋上屋を重ねるようだが、もう少しわかりやすいたとえ話を持ち出すとすると、ずいぶん昔のTBSの人気番組に大橋巨泉が司会をしていた「クイズダービー」というのがあった。
これは、クイズに答えるレギュラー回答者があらかじめ用意されていて、その正解予想率をもとに競馬予想よろしくオッズ(賭け率)が出され、出演者が自分の持ち点を正解を答えそうな回答者に賭けて得点を増やすことを競うゲームであった。
この番組では、なぜか、漫画家のはらたいらがものすごい博識でほぼすべての問題に正解を出し、女優の竹下景子がなぜか「三択の女王」と呼ばれて三択問題にはめっぽう強かった。
ここで、はらたいらや竹下景子が、実際にそういう人なのかどうかということは関係ない。おわかりのように、これは、「クイズダービー」というひとつのゲーム世界をつくるためのキャラクターの設定なのである。

このことは、常識的に考えればすぐわかることで、そのことをいちいち「事実に反する」とか「ウソをついている」といって非難したり、放送倫理に反しているというような言い方はしないのが当たり前である。

もし、こうしたたぐいのフィクションあるいは演出がダメだというのなら、現在非常に多くのバラエティ番組で採用されている「再現ドラマ」も全部ウソということになってしまう。それだけでなく、NHKの大河ドラマを含むすべての時代劇はウソだ、ということになってしまう。いくら時代考証をしたって、昔の人は今の時代劇のようにはしゃべっていないわけだから、時代劇はドラマの作者がつくったフィクションである。NHKの大河ドラマだからと言ってすべて史実に基づいているとはいえないのは当たり前だろう。
(もっとも、なにごとにも程度問題というのはあるので、時代劇で「この店はサービスがいい」という台詞は使わないほうがいいとは私も思う。)

結論。

今回の件で、テレビは必ず真実であると確かめられたことしか放送してはいけないというような方向に話が行くのはいかにも野暮であるし、それだけではなく、方向がまったくすっとこどっこいである。(だとしたら、それが真実であるかないかを誰が決めるというのか)

バラエティ番組において、演出は演出として当然あっていい。ただし、どこまでが真実でどこまでがウソかは観る人の側に決定権が委ねられていなければならない。今回の「あるある」のように、これは本当ですよ、と言ってウソをついていたのではさすがに具合が悪いので、これは当然改めるべきである。だが、改める方向性を間違えては事態は却って悪化することになる。

この件は、もし大橋巨泉氏がこのように論評してくれていればすごく説得力があったはずなので、氏が沈黙しているのは惜しい気がする。
(もっとも、氏がこの件について発言しなければならない義理合いはまったくないのであるが。)






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1 コメント

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メディアリテラシー (大澤)
2007-05-10 06:32:36
大澤です。曽田さんに同感です。「あるある」問題のことで、放送倫理がこれほど社会問題になる一方で、メディアリテラシーがさほど問題にならないのは、恐怖を感じるというと、大げさでしょうかね。
メディアによって、私たち自身が社会と接するときに、バランス感覚が失われるのは怖いことです。
タバコを販売している会社が「タバコの吸い過ぎに注意を」と宣伝しているのと同じように、メディアがメディアリテラシーを訴えることは必要だと思うんですが。それが無理なら、まさにブログとかインディペンデントなメディアがやらないと、と思うんです。

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