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きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Cuando Caliente SHIZUOKA#11

2005年12月17日 | Weblog
 平成ルネッサンスを静岡から発信しよう

 静岡は偉大な政治家、武将であった「徳川家康」終焉の地である。当初彼の亡骸(なきがら)は久能山に葬られたが、三代将軍「家光」が日光に改葬した。これは、元来日本人が縁起を担ぐことを旨とする民族性によるものと思われる。

 古くは、京の都の鬼門(東北の方向)の邪気を祓うため比叡山延暦寺が建立されたと聞く。

 そういう意味合いで、家康は「大権現」と神格化され日光に鎮座して江戸の鬼門の守りに就いたのであろう。

 今日は、千利休(せんのりきゅう、1522~1591)について、考えてみたい。彼は、安土桃山時代の茶人で、千家流茶の湯の開祖で「侘び茶」という領域を大成した人である。
 元々は、大阪堺の商人で、茶道を北向道陳(きたむきどうちん)、武野紹鷗(たけのじょうおう)に学んだ。織田信長、豊臣秀吉の茶頭(さどう)を努め、1585年秀吉の禁中茶会、北野大茶湯を主宰した。
 また、草案風茶室を創意した。「茶の湯天下一の名人」と謳われたが、秀吉の怒りにふれて切腹させられた。(日本史辞典より)

 ここで利休は秀吉の怒りに触れて詰め腹を切らされたということであるが、どうしてそのような事態に立ち至ったかということを考察してみるのも一興であろう。

 利休の茶の湯というのは、織田信長の政治手法にも取り入れられ、大きな成果をあげた。「茶室政治」という言葉が残っているほどのものである。利休が考案した茶房において信長が立てた茶を振舞われながら政治が語られ、そこに参加できることが、当時の武士のステイタスであった。

 秀吉も当初利休の手法を取り入れたのであるが、彼は下克上の寵児であり、とても派手好きであった、大阪城に黄金の茶室を設(しつら)えたほどである。そういう人間に「詫びさび」を理解せよといったところで及ばぬところである。
 黄金には黄金の、銀には銀の価値を与えなければならない、即ち、俗人が求める価値観への回帰が必要と考えた。
 ルソン島から持ち帰ったような素焼きの壺が値千金だの、竹を切ってこしらえたような花瓶の価値が万金などと主張されたのでは困るのである。
 利休が詰め腹を切らされた遠因はそんなところにあったのだと思う。

 大東亜戦争終結後60年経過した今日、敗戦で失ったものの歪が諸に出てきたのだと思う。最近マスコミを賑わせている「耐震強度偽装事件」も一建築士の犯した罪だけかと思っていたら、そんなことは無く、日本国中津々浦々で安易に行われてきているらしい。
 残虐な児童殺害事件も連鎖的な広がりをみせ、留まる所を知らない。これらの惨事は、「日本精神の喪失」に起因するものに違いないのである。我々は、広島と長崎で核による「人体実験」の洗礼を受け、敗戦という憂き目を見た。しかし、本来の「精神」まで売り渡してしまって良いものであろうか。
 大東亜戦争で我々日本人が主張したものは、「白人の有色人種への差別を撤廃せよ」との叫びであった、その正義の叫びが戦争という挙に駆り立てたという根源的本質を理解すべきなのだ。所謂「召使い」的な贖罪意識に囚われ続けるのは、この辺で「卒業」したい。

 新しい「国民の価値観を再構築」したいものである。