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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

Cuando Caliente SHIZUOKA#8

2005年12月06日 | Weblog
 戦国三武将のうちで一番人気の無いのが、実は徳川家康ではないのか。
 その理由を訊ね及べば、戦乱の内に天下を手中にしたのではないからという理由に依るらしい。
  
 家康の知恵:
 
 私は、徳川家康終焉の地に生を受けた縁(えにし)で物申すのであるが、果たして家康は凡庸の人であったかと質問されれば、私は彼こそ近世の政治家その人であったと躊躇無く答える。
 何故かといえば、家康ほど自分の亡き後のことを思い、磐石の体制を敷いてあの世に旅立った人物は日本のみならず世界史を紐解いてもそうはいないと思う。

 では、何が偉大だったかといえば、今、徳川家は確かに天下を手中に治めた。その上には天皇と言う存在がある。天皇というお方は今の所謂「徳川の世」を見つめてくださり後の世に、もし徳川家の「功徳」というものを歴史に刻むことがあれば、きっと見届けて下さるお方であろうというスタンスは常に持ち続けた人である。確かに時の権力者として、朝廷が反旗の旗頭とならないような施策は取ったのであるが、その範囲を越えるものではなかった。このことは日本人として肝に銘じておかなければなりません。

 日本史において、悠久の歴史史上二千年の空間において、天皇の価値に口を挟んだのは、彼の「ロボット工学者」とその手下をおいて外には居りません。この馬鹿どもは、60年ほど前に、たった一度だけ「我が大和」=「日本」が自活の為の戦争に負けたからその責めを「天皇陛下」に負えと主張して止まないのである。

 よいか、我が日本国の若者達よ、このロボット工学者なるは日本国の公務員即ち「天皇陛下の下僕中の下僕であった人物である」そのようなものが、軽薄な脳味噌で「大和」二千年の天皇陛下の歴史を蔑ろにしようとしているのである。それを若者達にも考えてもらいたいのである。
 このようなことで「日本人」たる誇りが持てるのか?
 機会は今しかない。もてる知恵で天皇のあるべき姿をよくよく考えてみるがよかろう。

 余談が少し長くなってしまったが、今日は、徳川家康がどれ程深慮遠謀に長けていたか改めて再認識したい。

 戦国三代とは織田信長、豊臣秀吉、徳永家康のことである。
 織田信長は、その意達することなく本能寺で果てた、秀吉は天下を思うままに享受したが、後継者に恵まれなかった。家康はその後、徳永二百六十年の栄華の礎を築いたにも拘わらず、良く言われていない。

 しかし、家康が武将としての功徳だけでなく政治家としての才覚という点にスポットライトを当ててみれば、世界史においても類稀なる逸材であったと日本人として誇りに思うべきである。

 彼は、天下泰平ということが、民の心の叫びであるということを理解していた人物であった、それで、その戦乱のない世の中を維持する術とは何かということを性根で理解していた。

 それは何かというと、親族による「相続争い」こそ世の中を戦乱に導くということを予見することができたということである。だから、彼は将軍というのは個人の資格ではない一種の「職責」であるという価値観を子孫に相続した、所謂「将軍職」という価値観である。この教えがその後三百年近い「徳川の世」を支えたのである。

 先ず、江戸幕府は、初代徳川家康の血筋で支えられねばならないことは当然であったが、血筋が絶えてしまっては元も子もないのであるから、御三家において、「将軍職」継承するように定めた。

 御三家とは:徳川家康の男子三人を祖とする徳川姓の大名。家康の九男義道、十男頼道、十一男頼房が、それぞれ尾張名古屋、紀伊和歌山、常陸水戸藩士に封ぜられたので、尾張家、紀伊家、水戸家と呼ばれ、いずれも将軍の一門として、権威を持つ大名で、将軍に継嗣が無い場合には、将軍家を相続する権利を有した。八代将軍吉宗、十四代将軍家茂(いえもち)は共に紀伊家から宗家を継いだ。

 このように、家康の遺言は将軍宗家がお世継ぎ問題でピンチに至った時、果たして救世主となり得たのである。これは、ひとえに、初代将軍家康が将軍とは個人に属するものではなく「将軍職」というべき公に属するものであるという家訓を残して逝った賜物である。

 御三卿とは:江戸時代中期に将軍家より分立した徳川姓の三家、八代将軍吉宗の二男宗武と四男宗伊をそれぞれ祖とする田安家、一橋家、九代家重二男重好を祖とする清水家で、ともに江戸城内の屋敷に近い門の名をとっている。その所領は各十万石で、将軍に継嗣の無い場合に将軍家を相続することができた。
 十一代家斉(いえなり)は一橋家から、十五代慶喜は水戸家から一橋家に入り、それぞれ将軍宗家を継いだ。

 御三卿というのは、江戸幕府中期になって創設されたのであるが、江戸時代初頭においては、当然、家康から秀忠に将軍職は相続されたのである。しかし、この血統は七代目で絶えてしまって、有名な米将軍吉宗は紀伊家から将軍に就任したものである。このように徳川宗家の血筋はあえなくも七代で絶えてしまったのであるが、初代家康の知恵により、十五代慶喜にまで受け継がれるのである。

 家康は、この将軍職を将来継承させて行く極意を何から学んだかといえば、それは紛れも無く皇室の天皇の皇位継承に学んだのである。

 現在、大問題となっている皇位継承問題もこういうところを参考にしたら如何なものであろう。