人の体も、鉄の塊も、全てのものは分子レベルで見れば、何もない空間に飛び石のように分子が並んだ、スカスカの構造をしている。その全く何の分子も存在しない、文字通り真空の空間をゼロ・ポイント・フィールド(以下、ZPF)と呼ぶ。物理も化学も、本質的に「物質の振る舞い」を研究の対象としてきたから、そもそも物質の存在しないZPFには関心が払われてこなかった──これまでは。
しかし、『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(リン・マクタガート著、インターシフト刊)は、そのZPFが今や最先端の研究者たちがしのぎを削る場(フィールド)に変貌しつつある様子を描き出す。この本を手掛かりに、ZPTが科学の枠組み(パラダイム)にどのような揺さぶりをかけようとしているのかを、日本の脳科学研究の旗手の一人、茂木健一郎が脳の認識に関わる未解決の問題として挙げている「同一性問題」をベースに、私見を交えながら述べていきたい。
脳は、一つひとつの神経単位(ニューロン)が他のニューロンとシナプス結合を作りながら、全体として巨大なニューロン・ネットワークを構成している。同時にニューロン・ネットワークはある単位で特定の働きを行う機能ユニットを形成する。特に大脳皮質は、どの範囲がどんな働きを行う機能ユニットを構成しているのかが研究され、その結果は「ブロードマンの脳地図」や「ペンフィールドの小人(ホムンクルス)」という形でまとめられている──というのは、解剖学の教科書を見れば書いてある話。
こうした「大脳皮質はさまざまな知覚処理を行う機能ユニットに分かれている」という考え方を「機能局在論」と呼ぶ。この「機能局在論」が間違っていないことは、かなり広く確認されていて、脳科学研究もこの「機能局在論」に基づいている。それにも関わらず、「機能局在論」では説明の付かない現象がある。それが、茂木の言う「同一性問題」である。「同一性問題」とは、例えて言えば「さまざまな属性を持った物体を、人はなぜ“それが一つの物である”と認識できるのか?」ということである。
脳では、一つの物体の持つ色、形、音、香り、手ざわり、…といった知覚情報の処理を、それぞれ専門の機能ユニットが分担して行う。しかし、私たちの前には常に複数の物体が存在する。では色、形、…と分解されて処理された情報が、同一の物体のものだと、どうしてわかるのか? 脳の離れた場所でそれぞれバラバラに処理された情報を、どこがつなぎ合わせているのか──「機能局在論」では、それを説明することができない。
それに対して、ZPFを主戦場とする研究者たちは、「生物の仕組みは一種の量子プロセスであり、細胞間コミュニケーションなどの、体内のあらゆるプロセスは量子の変動によって引き金を引かれる」という考え方のもと、「体中の細胞内にある微細管を通じて行われる光子同士の交信(コミュニケート)が、脳全体に集合的協調をもたらす」という仮説によって「同一性問題」の突破を図る。つまり、「脳は、情報処理そのものは専門化された機能ユニットが分担するが、ZPFを通じて常に全体情報を把握している」と考えるのだ。そして彼らは、「記憶は脳自身にではなく、ZPFにホログラフィックなデータ(注)として保存されている。つまり脳とは保存媒体ではなく、ZPFとの間のやり取りを行う変換装置である」とさえ考えている。
(注)ホログラフィックなデータとは、そのどんな小さな一部も全体とほぼ等しい情報量を持ったデータのこと。例えば、フラクタルな図形はホログラフィックな構造をしている。逆に、この文章のように文字列の形で保持されたデータは、一般にその一部を切り出すと残りの部分の情報は完全に欠落し、それは切り出した部分の情報だけでは埋め合わせることはできない。つまり、文字列によるデータはホログラフィックではない。
ちなみに茂木自身は、この説に対して否定も肯定もしていない。「みんなが『局在論』で行こう、と言っている時に、いきなり『全体論』を持ち出されてもなぁ…。それに、そんな考え方は既存の学説とどう結びつけたらいいかわからないよ」という感じで、評価の対象外という立場のようである(柏書房刊『脳の中の小さな神々』)。
だが、ここで更に話を飛躍させよう。仮説の上に更に仮説を重ねるのは、砂上の楼閣に更に上の階を建て増しするようなものだが、かまわず行ってしまうと…
代替医療の世界では、細胞記憶とか身体記憶と呼ばれる、脳の持つ記憶とは別の形の記憶が存在する、ということが広く言われている。これを、上の仮説とくっつけたらどうなるか? ZPFは脳だけが持っているのではなく、体全体に渡って継ぎ目なく存在している。脳の記憶がホログラフィックな形でZPFに保存されるのだとしたら、細胞記憶も同じようにホログラフィックな形でZPFに保存されると考えるのが自然だ。つまり、ZPFには(脳細胞はもちろん)体中の細胞からの記憶がホログラフィックな形で重層的に保存され、そしてその記憶は、体中の細胞が必要に応じて自由にアクセスすることができると考えられる。しかもデータはホログラフィックな形で保存されているから、体のどの部分からでも体全体の情報を得ることができる。言い換えれば、生物の体は、(脳の、ではなく全身の)細胞一つひとつまでが、今この体はどんな状態にあるのか、何が起こっているのかを、ある程度把握した上で動いている、ということになる。
…これが今、私の考える生体の姿であり、こうしたZPFベースの記憶システムを基盤として生体全体が情報化されている、という考えを、私は勝手に「“生体=情報化ホリスティック・システム”仮説」と呼んでいる。これがどこまで正しいのか、私にはまだわからないが、個人的にはかなり近いところまで来ているのではないかと思っている。
『フィールド』にも書かれているように、ZPFについてのほとんどのことは、まだ実証されていない仮説の段階でしかない。けれども、そこにはワクワクするような夢が詰まっている。その夢を、人より先に見ておくのは、悪いことじゃない。昔読んだ『男大空』(原作・雁屋哲、作画・池上遼一、小学館刊)というマンガの中の、こんな言葉が今でも頭の中に残っている。
非合理であることを恐れるな。真理はいつも、非合理の領域にあった。
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脳はかつての体験を「見なかったこと」にしたり「忘れよう」としたり「美化」したりします。ある程度はそれもできたりするんだと思います。「飲まずにいられるかぁ~」ではなく「忘れずにいられるかぁ~」です。引き出しの整理整頓(忘れるとか整理整頓というよりは踏んづけて蓋をしているのかも)。
ZPFが情報を「忘れる」という方便のような小癪な手段を持たない場合、それが時間の経過と共に別のブログでお書きになっていた「1層2層…」の薄衣となって身体の周囲へまとわれていくようなイメージがあります。
古い記憶(納得して解決できていないもの)ほど9層とか離れた位置にいそうな…。
自分と対峙するくらい怖いことはありません。
ズレたことを申し上げているようですが、生命体に対するイメージがまた1つ増えた気がします。
鍼灸学校時代に、解剖学の授業を担当していた講師の一人(歯科大の先生)が、「僕はこれから、わかったような顔をして、解剖学の授業をするけれど、人の体というものは、やればやるほどわからなくなっていく。本当は僕もわからないことだらけなんだ」と言っていたことを思い出しながら、これを書きました。
『フィールド』とは違いますが、心臓も脳に匹敵するような記憶や感情を持っている、という内容の『心臓の暗号』(ポール・ピアソール著、角川書店刊)も、なかなか刺激的な本です
。ご参考までに。
特に、「生物の身体自体が、細胞一つ一つの状態について把握している」というところは、私が日頃から「心は何処にあるのか?」のヒントにもなります。
私は、心は、細胞一個一個の中にあり、その細胞の心の総重心的な位置が胸あたりにあって、心が胸にある感覚を持っているのではないかと思っています。
多くの人は、心は、考える脳の中にあると思っているのかもしれませんが、感覚的には違う位置を感じています。
むしろその感覚的なもののほうが正しいのではないかと思っています。
それこそ、細胞一個一個の間にあるゼロポイントフィールドの中に心があるのかもしれません。
よく、臓器提供者であるドナーの影響を、移植された人が受けるという話を聞きますが、それぞれの細胞の中に心があるとすれば、それの説明もつくように思います。
今度、少し関連した記事を書く予定です。
コメントありがとうございます。
今、脳科学が盛んにクローズアップされていますが、「記憶は“脳の”どこに、どのように存在するのか」や「心は“脳の”中で、どんなふうにして生み出されるのか」といった、全てを脳に還元する形での問題設定はいつか行き詰まるのではないか、と私は個人的に思っています。この記事はそうした思いから書いたものですが、共感していただけたなら幸いです。
今度、山川海人さんの記事も読ませてもらいます。