「カバラと『生命の木』」の第26回。第25回までは第7セフィラ、ネツァクについて見てきたので、今回は第8セフィラ、ホドについて見ていく。
「生命の木」において重要なのは、セフィラは単一では機能しないということである。セフィラは均衡の取れた対立する一対を持たねばならず、そこから均衡した第三者が生じて初めて機能するのだ。低次の機能する三角形はネツァク、ホド、イエソドからなる。このうちのネツァクとホドはそれぞれアストラル界における「力」と「形」、イエソドはアカシャとかアストラル・ライトと呼ばれるエーテル的素材の土台となる。
ホドは本質的に自然の諸力によって魂を吹き込まれた「形」の天球であり、魔術師が「形」を明確に組織化するためにそこで作業を行う、「魔法」の天球である。ただし、「形」に魂を吹き込むためにはネツァクの持つアストラル的な「力」の局面と接触しなければならない。
「理性」の天球であるホドと「情念」の天球であるネツァクとの接触においては、共感し感情を同調させ、両者の均衡を維持しなければならない。そのために必要なのが想像力である。我々が自然の諸力と接触するには、想像力によって我々とは異なる存在様式を持つ生命の中に入り込むしかないからだ。
我々をネツァクに象徴される「力」と接触させるのは、内なるヴィーナスである。もし我々自身の中にヴィーナスが存在せず、愛の呼びかけに答える能力がないなら、ネツァクの天球の門は決して開かず、我々はその秘儀を受けることができない。だが同時に我々が知的想像力を持たなければ、ホドの天球を開いたとしても、それを理解することはできない。
「魔法」とは、我々一人ひとりの「情念」と「理性(知性)」の度合いに応じて作り出すことができるものだ。ホドのイエツィラー文は、ホドを「完全なる知性」、「絶対的知性」と呼び、それは「原初者の平均だからである」と述べているが、この「平均」という言葉が意味しているのは、両極端の間の中間的な位置、すなわち力の均衡する場所ということなのである。
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