深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

本使い

2012-10-25 13:41:51 | 心身宇宙論

読書の秋に合わせて、今回は本の話。もちろん私が書く以上、普通の本の話などであるはずはなく…。過去記事と内容が一部重複するが、一応これまでのまとめという意味も込めて。

BGMはアニメ『ダンタリアンの書架』のOP「Cras numquam scire」でどうぞ。


最近、とみにモチベーションが下がってるなー、と感じていた。いくつか考えられる理由はあって、多分そういうことが続いたからだろう、と思っていたのだが、それだけではないことに今朝、布団の中で気づいた。

普段からメルマガなどを介してネットからさまざまな情報を受け取っているが、ここのところ入ってくる情報の多くが「ポジティヴであれ」「ポジティヴに行け」ということを強調したものだった。あるいは、情報自体は必ずしもそうではなかったのかもしれないが、私の今のポジションからは、強くそう感じられた。

そうした情報は、人間関係のマトリックス的には、ポジティヴ自立、ポジティヴ依存の両方があったのだが、いずれにせよそれが私にとってはポジティヴ方向に傾きすぎていたので、それとのバランスを取るために自分のポジションが自動的にネガティヴな方向にシフトしていたことに気づいたのだ。

そこで、自分の立ち位置をニュートラルな地点に近づけたら、モチベーションが極端に落ちている状態が少し落ち着いた。

──というのは本田健さんの『ユダヤ人大富豪の教え ふたたびアメリカへ篇』で得た知識のちょっとした応用。ちなみに私は本田健フリークではないので、健さんの本は3冊しか持っていないが、自分が持っているものも、そうでないものも、とにかく健さんの出している本には「力(パワー)」があると感じている。

私が本を購入する場合、一番の基準は「その本には『力』があるか」ということである。ここで言う「力」とは単に「いいことが書いてある」とか「よく売れてる」ということではない。端的に言えば「治療に使えるか」ということだ。

「治療に使う」とは、もちろん「その本で読んだことを患者と話す時のネタにする」ということではなく(まぁそういうこともあるけど)、「本そのものを治療ツールとして使う」という意味。そのために「力」のある本が必要なのだ。

「力」のある本とは何か? よく似たことを書いているのに「力」ある本とない本があるが、その差はどこから生じるのか? 「力」ある本は誰にとっても同じように、その「力」が使えるのか? …

疑問はいくらでもあるが、そのほとんどはまだ答が出せていない。ただ上の3番目の問いに対してだけは、一応の答がある。

それぞれの人が自分にとって使いやすい道具があるように、またある一定のスキルがないと使うことのできない道具があるように、「力」を使うことのできる本と使うことのできない本は人それぞれに異なる。また同じ人が同じ本を使う時でも、その人の成長度合いが変われば、引き出せる「力」の大きさも質も変わるのである。

例えば、私は数学書を治療ツールにしているが、既に読んだページからしかその「力」を引き出すことができないのだ(余談だが、私は数学書1冊は1冊の魔書に匹敵する「力」を持つと思っている。その「力」を完全に引き出すことができればの話だが)。


更に言えば、本を治療ツールとして使う場合、それが本当にツールとして機能するかどうかは、本と使い手と受け手の関係性も大きく関わっているように感じる。それは現代西洋医学が立脚する「同一の患者に同一の治療を施せば、施した医者が誰であれ同じ結果が得られる」という基本テーゼ(?)に反するが、そもそも我々は──というか少なくとも私は──そんなところに自分の立ち位置を置いていないので、それ自体、別に不思議だとも奇妙だとも思わない。そもそも、世界は単一の原理で動いているものではないのだから。


さて、この先、本の持つ「力」について何かがわかる時が来るのだろうか?

卑屈な闇が答えた、未来を視た者はいない、と
僕は虚空に手を伸ばし、冷たい風を掴む

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