最近ブログでは本の話ばかり書いているが、本ばかり読んでいるので今回もまた本の話。
時間があると毎日でも本屋に行って時間を過ごす(言い換えれば、本屋くらいしか行くところがない、ということでもあるのだが)。毎日本屋に通っていると時々、「本に呼ばれる」感じを受けることがある。「自分が本を選ぶ」のではなく「自分が本に選ばれた」ような感じ。この『時間と自己』(木村敏著、中公新書刊)は、私が選んだ本ではなく、私を選んでくれた本である。
最近、中公新書では既刊で評価の高かった本を「中公新書の森へ」という帯をつけて平積みにしている。『時間と自己』を見つけたのも、これがそうして平積みにされた中の1冊だったためだが、普段なら『時間と自己』なんてパッとしないタイトル(失礼!)の本は、たとえ平積みになっていてもスルーしていたところだ。しかし、その時は何かに導かれるように手に取り、カバー折り返しの概要を読んでいた。
これを読んだら、何だか買わなければならない気になってしまい、この本を買うことになったのである(が、買ったのは本屋ではなくamazonのマーケットプレイスでだった)。
『時間と自己』は、精神疾患を哲学的な意味の時間という切り口で論じた本である。ここで「哲学的な意味の」とあえて断ったのは、時間にはもう1つ「物理学的な意味の」時間があり、それと明確に区別するためだ。時間には1分、1時間、…という形で測定される客観的な側面と、楽しい時間は速く過ぎ、辛い時間は延々と続く、といった主観的な側面があり、それぞれ物理学的な意味の時間と哲学的な意味の時間に対応していると考えられる。
現代の日本で「時間」と言う時、それは主に物理学的な意味の時間を表しているように一見感じられるが、実は我々にとって本当の意味で身近な「時間」とは、自分自身のありようと不可分な主観的な時間、つまり哲学的な意味の時間の方だ。
──とここでふと思ったのだが、アインシュタインの相対論がなぜ衝撃的だったのかというと、確固として不変だと思われていた物理学的な時間が実はもっとグニャグニャした曖昧なものであること、つまり客観的な意味の時間と主観的な意味の時間が実は同じものだったことを、相対論が明らかにしてしまったためではなかっただろうか。実際、相対論以降、最先端の領域では物理学と哲学、宗教の境界はどんどん曖昧なものになりつつある。
話を元に戻そう。
私は『時間と自己』の著者である木村敏先生のことを全く知らなかったので、途中までこの本は哲学者が書いたものと思って読んでいた。そのため「離人症が──」、「精神分裂病が──」(注)…という話に対して「哲学者なのに精神病についていやに詳しい人だな」くらいに思っていた。だから途中で思いついて巻末の著者略歴を見てビックリ。木村敏先生はれっきとした精神病理学者だったのだ。精神病理学者なのだから精神疾患に詳しいのはわかるとして、逆にアリストテレスからベルグソン、ハイデッガー、サルトルまでの思想を論じる、素人の付け焼き刃と言ったレベルではない、この哲学的な知識の広さと深さはどうだ!?
(注)現在は統合失調症という病名に変わったが、この本が出版されたのは1982年なので、この呼称が使われている。
精神疾患については、脳のどの部分が変性あるいは萎縮しているだとか、脳内の化学物質の分泌がどうだとかといった解剖学・生理学的な議論がなされ、さまざまな治療法や治療薬が考案されているが、この本は、そういった医学の枠を超えて哲学という全く違った視点から見ると全く違うものが見えてくる、ということを教えてくれる。「視点を変えると見えるものが変わる」などと言うと、当たり前すぎて「何を今更」と言いたくなる向きもあろうが、この本を読むと「違う視点から見る」ことの本当の凄味を感じざるを得ない。
それともう1つ。この木村敏先生の思索は、「日本語」というフォーマットの上でなければ、かなり困難だっただろうと思われる。改めて「思考・思索は、使う言語に規定される、あるいは制約される」ということを思った。
このブログを読んでいる人の多くが日本語環境の中で生き、日本語環境の中で思考活動を行っている。そんな我々は、どんなに自由に思考・思索を行っているつもりでも、それを「日本語」という枠組みの中で行っている限り「日本語」の持つ制約から逃れることはできないが、同時に「日本語」というフォーマットの上だからこそ到達できる世界もまたあるのだ。そしてこの『時間と自己』が見せてくれるのは、そんな世界である。
時間があると毎日でも本屋に行って時間を過ごす(言い換えれば、本屋くらいしか行くところがない、ということでもあるのだが)。毎日本屋に通っていると時々、「本に呼ばれる」感じを受けることがある。「自分が本を選ぶ」のではなく「自分が本に選ばれた」ような感じ。この『時間と自己』(木村敏著、中公新書刊)は、私が選んだ本ではなく、私を選んでくれた本である。
最近、中公新書では既刊で評価の高かった本を「中公新書の森へ」という帯をつけて平積みにしている。『時間と自己』を見つけたのも、これがそうして平積みにされた中の1冊だったためだが、普段なら『時間と自己』なんてパッとしないタイトル(失礼!)の本は、たとえ平積みになっていてもスルーしていたところだ。しかし、その時は何かに導かれるように手に取り、カバー折り返しの概要を読んでいた。
時間という現象と、私が私自身であることとは、厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡づけ、さらに精神病理学的思索を通じて、悲痛は健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。前夜祭的時間、あとの祭り的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間──「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
これを読んだら、何だか買わなければならない気になってしまい、この本を買うことになったのである(が、買ったのは本屋ではなくamazonのマーケットプレイスでだった)。
『時間と自己』は、精神疾患を哲学的な意味の時間という切り口で論じた本である。ここで「哲学的な意味の」とあえて断ったのは、時間にはもう1つ「物理学的な意味の」時間があり、それと明確に区別するためだ。時間には1分、1時間、…という形で測定される客観的な側面と、楽しい時間は速く過ぎ、辛い時間は延々と続く、といった主観的な側面があり、それぞれ物理学的な意味の時間と哲学的な意味の時間に対応していると考えられる。
現代の日本で「時間」と言う時、それは主に物理学的な意味の時間を表しているように一見感じられるが、実は我々にとって本当の意味で身近な「時間」とは、自分自身のありようと不可分な主観的な時間、つまり哲学的な意味の時間の方だ。
──とここでふと思ったのだが、アインシュタインの相対論がなぜ衝撃的だったのかというと、確固として不変だと思われていた物理学的な時間が実はもっとグニャグニャした曖昧なものであること、つまり客観的な意味の時間と主観的な意味の時間が実は同じものだったことを、相対論が明らかにしてしまったためではなかっただろうか。実際、相対論以降、最先端の領域では物理学と哲学、宗教の境界はどんどん曖昧なものになりつつある。
話を元に戻そう。
私は『時間と自己』の著者である木村敏先生のことを全く知らなかったので、途中までこの本は哲学者が書いたものと思って読んでいた。そのため「離人症が──」、「精神分裂病が──」(注)…という話に対して「哲学者なのに精神病についていやに詳しい人だな」くらいに思っていた。だから途中で思いついて巻末の著者略歴を見てビックリ。木村敏先生はれっきとした精神病理学者だったのだ。精神病理学者なのだから精神疾患に詳しいのはわかるとして、逆にアリストテレスからベルグソン、ハイデッガー、サルトルまでの思想を論じる、素人の付け焼き刃と言ったレベルではない、この哲学的な知識の広さと深さはどうだ!?
(注)現在は統合失調症という病名に変わったが、この本が出版されたのは1982年なので、この呼称が使われている。
精神疾患については、脳のどの部分が変性あるいは萎縮しているだとか、脳内の化学物質の分泌がどうだとかといった解剖学・生理学的な議論がなされ、さまざまな治療法や治療薬が考案されているが、この本は、そういった医学の枠を超えて哲学という全く違った視点から見ると全く違うものが見えてくる、ということを教えてくれる。「視点を変えると見えるものが変わる」などと言うと、当たり前すぎて「何を今更」と言いたくなる向きもあろうが、この本を読むと「違う視点から見る」ことの本当の凄味を感じざるを得ない。
それともう1つ。この木村敏先生の思索は、「日本語」というフォーマットの上でなければ、かなり困難だっただろうと思われる。改めて「思考・思索は、使う言語に規定される、あるいは制約される」ということを思った。
このブログを読んでいる人の多くが日本語環境の中で生き、日本語環境の中で思考活動を行っている。そんな我々は、どんなに自由に思考・思索を行っているつもりでも、それを「日本語」という枠組みの中で行っている限り「日本語」の持つ制約から逃れることはできないが、同時に「日本語」というフォーマットの上だからこそ到達できる世界もまたあるのだ。そしてこの『時間と自己』が見せてくれるのは、そんな世界である。
お蔭様で、nanahoshiは、九州にいながら
治療技術がアップするのですから、
このブログの前では、いつも合掌です!
今回の治療も、ありがとうございました!
定例セミナーにまで出して頂き、クラニオの手技のチェックまで、直々にsokyudo先生にして頂き
至福の喜びです。
まんまと、自称 魔法使いの弟子の策略に落ちた御蔭で、有意義な関東生活を送っております。
ありがとうございます!
ディズニーランド行きの時間をズラしてセミナーまで出ていただいて、もう恐縮しまくりです。多少でもお役に立てたようで、何とか面目を保ちました(最後は、先生の火鍼の技に完全に喰われてしまいましたが)。
>またまた、セミナー丸ごと公開じゃないですか!
いえいえ、そんなことはないです。ネタがないので、セミナーのマクラで使った話を再利用しただけで…。
そのうちまた、魔法使いの弟子(自称)の策謀に落ちてくださいませ。