♪~ ささやかだから愛しくて、ささやかだから大好きで・・・
笑うことが 泣くことが 悩むことが 生きることが。。。
ニューミュージック世代としては松山千春さんのこの曲に、いろいろな思いを重ねる人も少なくないのでは。。。
私は当時彼のオールナイトニッポンをよく聴いていました。ぶっきらぼうでも温かみのある声で話すトークが好きでした。ちなみに、中島みゆきさんのDJぶりも大好きでした。
二人とも北海道出身でビミョーな距離感で話をしていたように思います。
松山千春さんには“ズルむけペンギン”、中島みゆきさんには“ぺったん”という俗称があったことを覚えておいでのかた。。。いらっしゃいませんか?
当時ニューミュージックの歌い手は、時間の制約のあるテレビではメッセージが伝えられないというような理由でテレビに出ませんでした。松山千春さんもその代表みたいな存在でしたが、数少ない例外はありました。
ファンの声に応えて紅白歌合戦出演したとき。そして、コンサートの様子をまるごと放送したとき。。。BSなどない時代、いちアーティストのコンサートを一部始終放送するというのは前代未聞だったと思います。
私はといえば、当時も普段テレビは殆ど見なかったにもかかわらず画面に食い入った覚えがあります。
ビデオも普及してなかった時代なもので。。。(^^)/
そのときのオベーションの蒼いアダマスを抱えて弾き語りする彼の姿とギターの音は、当時の私にとっては崇拝すべき偶像として心に刻み込まれました。今もこうしてぼちぼちと楽しく当時の曲を、我が愛器を抱えて振り返られるのはとても幸せなことだ思います。
決して人様に聞かせられるシロモノではありませんが。。。
さて、“残照”というと私はなぜかしら紅葉の輝きを連想することがあります。それは最後の一瞬を前にしたまばゆい輝きだからなんでしょうかねぇ?
みなさんには、そんなことありませんか?
残りわずかな秋を惜しんで晩秋の陽に映える色とりどりの木の葉。。。
なんてステキなん“ざんしょう”・・・・・・おそまつ。
しばらく前に“葉っぱのフレディ”なる絵本がはやったように、新緑から落葉までを人生や季節にたとえることにはまったく違和感がないように思われます。
“人生の黄昏は紅葉のようにありたいな”などとふと思う私は、もはや立派なおじさん!
上の写真のように木々の葉は、それまでに生きてきた知恵と経験によって“それ自身”がさまざまな色をまとい平和なハーモニーを奏でています。そしてそこに日光が当たったときの美しさといえば、語るまでもありません。
陽が差してくれるかどうかは運ですが、それにかかわらず自分の色を精一杯描き出している。。。
そこに感動したりします。
★モーツァルト、ベルリーニ、R.シュトラウス:オーボエ協奏曲集
(演奏:ハンスイェルク・シェレンベルガー(オーボエ)
レヴァイン指揮 ベルリン・フィルハーモニー交響楽団)
残照というと、私の場合このディスクも反射的に頭に浮かびます。
オーボエという楽器自体がそのような心象を誘うようにも思われます。。。
特にシェレンベルガーの音色は、ホリガーのそれと違っていい意味で存在感が淡い。
単に録音のせいかもしれませんが。。。
この中にあって、とくに私の心を捉えて話さないのがR.シュトラウスのオーボエ協奏曲。
若くして数々の名曲をものしていたR.シュトラウス、長寿を全うした彼が人生の最後に手がけた作品です。
“ツァラツゥストラはかく語りき”で夜明けをイメージさせた彼が、最期の到達点で残照をイメージさせるというのも、意図されていなかったことでしょうけれど趣深いものがありますね。
果たしてこの作品は、彼自身の過去の作品のエコーがそこここに聴こえるような素晴らしい作品であり、穏やかで達観した世界が展開されています。それはまさに彼の人生の残照のきらめきであるかのようです。
紅葉の後には、葉は散ります。 残照の後には、陽は落ちます。
それを知っていることは果たして幸せなことなのかどうか?
笑うことが 泣くことが 悩むことが 生きることが。。。
ニューミュージック世代としては松山千春さんのこの曲に、いろいろな思いを重ねる人も少なくないのでは。。。
私は当時彼のオールナイトニッポンをよく聴いていました。ぶっきらぼうでも温かみのある声で話すトークが好きでした。ちなみに、中島みゆきさんのDJぶりも大好きでした。
二人とも北海道出身でビミョーな距離感で話をしていたように思います。
松山千春さんには“ズルむけペンギン”、中島みゆきさんには“ぺったん”という俗称があったことを覚えておいでのかた。。。いらっしゃいませんか?
当時ニューミュージックの歌い手は、時間の制約のあるテレビではメッセージが伝えられないというような理由でテレビに出ませんでした。松山千春さんもその代表みたいな存在でしたが、数少ない例外はありました。
ファンの声に応えて紅白歌合戦出演したとき。そして、コンサートの様子をまるごと放送したとき。。。BSなどない時代、いちアーティストのコンサートを一部始終放送するというのは前代未聞だったと思います。
私はといえば、当時も普段テレビは殆ど見なかったにもかかわらず画面に食い入った覚えがあります。
ビデオも普及してなかった時代なもので。。。(^^)/
そのときのオベーションの蒼いアダマスを抱えて弾き語りする彼の姿とギターの音は、当時の私にとっては崇拝すべき偶像として心に刻み込まれました。今もこうしてぼちぼちと楽しく当時の曲を、我が愛器を抱えて振り返られるのはとても幸せなことだ思います。
決して人様に聞かせられるシロモノではありませんが。。。
さて、“残照”というと私はなぜかしら紅葉の輝きを連想することがあります。それは最後の一瞬を前にしたまばゆい輝きだからなんでしょうかねぇ?
みなさんには、そんなことありませんか?
残りわずかな秋を惜しんで晩秋の陽に映える色とりどりの木の葉。。。
なんてステキなん“ざんしょう”・・・・・・おそまつ。
しばらく前に“葉っぱのフレディ”なる絵本がはやったように、新緑から落葉までを人生や季節にたとえることにはまったく違和感がないように思われます。
“人生の黄昏は紅葉のようにありたいな”などとふと思う私は、もはや立派なおじさん!
上の写真のように木々の葉は、それまでに生きてきた知恵と経験によって“それ自身”がさまざまな色をまとい平和なハーモニーを奏でています。そしてそこに日光が当たったときの美しさといえば、語るまでもありません。
陽が差してくれるかどうかは運ですが、それにかかわらず自分の色を精一杯描き出している。。。
そこに感動したりします。
★モーツァルト、ベルリーニ、R.シュトラウス:オーボエ協奏曲集
(演奏:ハンスイェルク・シェレンベルガー(オーボエ)
レヴァイン指揮 ベルリン・フィルハーモニー交響楽団)
残照というと、私の場合このディスクも反射的に頭に浮かびます。
オーボエという楽器自体がそのような心象を誘うようにも思われます。。。
特にシェレンベルガーの音色は、ホリガーのそれと違っていい意味で存在感が淡い。
単に録音のせいかもしれませんが。。。
この中にあって、とくに私の心を捉えて話さないのがR.シュトラウスのオーボエ協奏曲。
若くして数々の名曲をものしていたR.シュトラウス、長寿を全うした彼が人生の最後に手がけた作品です。
“ツァラツゥストラはかく語りき”で夜明けをイメージさせた彼が、最期の到達点で残照をイメージさせるというのも、意図されていなかったことでしょうけれど趣深いものがありますね。
果たしてこの作品は、彼自身の過去の作品のエコーがそこここに聴こえるような素晴らしい作品であり、穏やかで達観した世界が展開されています。それはまさに彼の人生の残照のきらめきであるかのようです。
紅葉の後には、葉は散ります。 残照の後には、陽は落ちます。
それを知っていることは果たして幸せなことなのかどうか?