SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

残照

2006年12月03日 00時00分01秒 | オーケストラ関連
♪~ ささやかだから愛しくて、ささやかだから大好きで・・・
                笑うことが 泣くことが 悩むことが 生きることが。。。

ニューミュージック世代としては松山千春さんのこの曲に、いろいろな思いを重ねる人も少なくないのでは。。。

私は当時彼のオールナイトニッポンをよく聴いていました。ぶっきらぼうでも温かみのある声で話すトークが好きでした。ちなみに、中島みゆきさんのDJぶりも大好きでした。
二人とも北海道出身でビミョーな距離感で話をしていたように思います。
松山千春さんには“ズルむけペンギン”、中島みゆきさんには“ぺったん”という俗称があったことを覚えておいでのかた。。。いらっしゃいませんか?

当時ニューミュージックの歌い手は、時間の制約のあるテレビではメッセージが伝えられないというような理由でテレビに出ませんでした。松山千春さんもその代表みたいな存在でしたが、数少ない例外はありました。
ファンの声に応えて紅白歌合戦出演したとき。そして、コンサートの様子をまるごと放送したとき。。。BSなどない時代、いちアーティストのコンサートを一部始終放送するというのは前代未聞だったと思います。
私はといえば、当時も普段テレビは殆ど見なかったにもかかわらず画面に食い入った覚えがあります。
ビデオも普及してなかった時代なもので。。。(^^)/
そのときのオベーションの蒼いアダマスを抱えて弾き語りする彼の姿とギターの音は、当時の私にとっては崇拝すべき偶像として心に刻み込まれました。今もこうしてぼちぼちと楽しく当時の曲を、我が愛器を抱えて振り返られるのはとても幸せなことだ思います。
決して人様に聞かせられるシロモノではありませんが。。。

さて、“残照”というと私はなぜかしら紅葉の輝きを連想することがあります。それは最後の一瞬を前にしたまばゆい輝きだからなんでしょうかねぇ?
みなさんには、そんなことありませんか?
残りわずかな秋を惜しんで晩秋の陽に映える色とりどりの木の葉。。。
なんてステキなん“ざんしょう”・・・・・・おそまつ。


しばらく前に“葉っぱのフレディ”なる絵本がはやったように、新緑から落葉までを人生や季節にたとえることにはまったく違和感がないように思われます。
“人生の黄昏は紅葉のようにありたいな”などとふと思う私は、もはや立派なおじさん!


上の写真のように木々の葉は、それまでに生きてきた知恵と経験によって“それ自身”がさまざまな色をまとい平和なハーモニーを奏でています。そしてそこに日光が当たったときの美しさといえば、語るまでもありません。
陽が差してくれるかどうかは運ですが、それにかかわらず自分の色を精一杯描き出している。。。
そこに感動したりします。

★モーツァルト、ベルリーニ、R.シュトラウス:オーボエ協奏曲集
            (演奏:ハンスイェルク・シェレンベルガー(オーボエ) 
                  レヴァイン指揮 ベルリン・フィルハーモニー交響楽団)


残照というと、私の場合このディスクも反射的に頭に浮かびます。
オーボエという楽器自体がそのような心象を誘うようにも思われます。。。
特にシェレンベルガーの音色は、ホリガーのそれと違っていい意味で存在感が淡い。
単に録音のせいかもしれませんが。。。

この中にあって、とくに私の心を捉えて話さないのがR.シュトラウスのオーボエ協奏曲。
若くして数々の名曲をものしていたR.シュトラウス、長寿を全うした彼が人生の最後に手がけた作品です。
“ツァラツゥストラはかく語りき”で夜明けをイメージさせた彼が、最期の到達点で残照をイメージさせるというのも、意図されていなかったことでしょうけれど趣深いものがありますね。
果たしてこの作品は、彼自身の過去の作品のエコーがそこここに聴こえるような素晴らしい作品であり、穏やかで達観した世界が展開されています。それはまさに彼の人生の残照のきらめきであるかのようです。


紅葉の後には、葉は散ります。 残照の後には、陽は落ちます。
それを知っていることは果たして幸せなことなのかどうか?

朝焼けの凄み

2006年12月02日 00時03分30秒 | オーケストラ関連
仕事で籠もっていた山で、生(なま)“朝焼け”を目の当たりにしてそのイメージが変わりました。

“劇的”で“力強い”ものだったんですね!  感動!!

冒頭の写真でどれだけイメージが伝わるか。。。 
でも実物はこんなもんじゃありません!
これまではもっとずっと“のほほん”としたものだと思っていたんですけど。。。。

したがって、下記ディスク中の“夜明け”は私には大げさに過ぎると感じられてきましたが、まさに“朝焼け”から“日の出”に至る刹那のイメージが正しく描写されているんだと思うようになりました。

★ラヴェル:ダフニスとクロエ 全曲
            (演奏:ピエール・ブーレーズ指揮
                     ベルリン・フィルハーモニー交響楽団)

この演奏の“夜明け”は、その壮麗さを表現している点では比類ありません。
その日が明けるというイベントは、私が考えていた以上にドラマチックであり、鳥たちのさえずりなどとともに太陽が山間(やまあい)あるいは地平線に顔を出す直前、その境界が燃える様子が徐々にクレッシェンドしていく中で多彩に表現されているように思われます。

確かに太陽が地平線を通過している間のまばゆさ、美しさには目を見張るばかりです。

でも、実は“夜明け前”のほうが緊張感のピークなんじゃないでしょうか?
そして、太陽がそのすべてで地平を照らすようになった後は、それまでの緊張はウソのように穏やかで平和な“朝”となるのです。

私にはこれまでオーディオショウのデモ常連曲として印象深かったですが、本来描かれていたものをイメージできるようになったと思えることが嬉しいです。

海の夜明けを目にした記憶はないのですがこんな迫力で迫ってくるものだとしたら、ドビュッシーの“海”第一曲終盤も“夜明け”の力強さを巧みに表現しえているのかもしれません。
これも私にはずっと大袈裟に思われてきた表現でしたけれど。
彼は幼いころから海を見つめてきたようですから、きっと曲調は正しくそのイメージを反映しているのでしょうね。

リスト没後120年特集 (その7 ロ短調ソナタ編4)

2006年12月01日 00時02分03秒 | ピアノ関連
アリストテレスの「自然学」という著作の中に“ゼノンのパラドックス”という話があるのをご存知でしょうか?
私はこういう詭弁が大好きでして。。。したがって、モテないわけです。

その中のひとつに“アキレスと亀”の話があります。
簡単にご紹介すると、アキレスと亀が徒競走をすることになりアキレスのほうが足が速いことは明らかなので、亀に「いくらか前からスタートしてよい」というハンディをあげることになりました。するとアキレスが亀がスタートしたA地点に着いたときは、亀はその先B地点を行っており、アキレスがB地点に着いたときは亀は既にC地点に行っている・・・
したがって差が縮まることはあっても、アキレスは永遠に亀に追いつけないということになるというものです。
確かに「その地点に辿り着かなければ・・・」という考え方をしていくと、この無間地獄に引きずりこまれてしまいますよねぇ。

今日リストのロ短調ソナタの演奏家としてご登場いただくかたがたは、現時点でピアノ界の“最高の”頂点に立っておられると目される方であります。
巨匠中の巨匠、大家中の大家。。。ピアノ・アスリートのうちでもアキレス級であるといって誰も文句はありますまい。
さて、ロ短調ソナタという亀とどのように“対峙”されておられるか。。。
この曲相手だとヘタなピアニストでは“退治”されちゃいますもんね! (またやっちゃった!)

★リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調   
                  (演奏:アルフレッド・ブレンデル)

1.詩的で宗教的な調べ:葬送曲
2.ピアノ・ソナタ ロ短調
3.灰色の雲
4.クラヴィーア・シュテュック 嬰へ長調S.192-3
5.夢の中に(夜想曲)
6.リヒャルト・ワーグナー-ヴェネッィア
                  (1991年録音)

実はブレンデルが、私のクラシック・ピアノ音楽鑑賞の原体験のピアニストなのです。私の初めて聴いたクラシックピアノのレコードは、彼の70年代録音のベートーヴェンのソナタ全集から月光・悲愴・熱情の3曲を抜粋した廉価版のLPでした。したがって、とてもブレンデルのピアノの音を聴くと和みます。いつもコラーゲンたっぷりの潤いいっぱいっていう感じの音色。ピアノ自体も“たぁ~っぷり”豊かに鳴っています。このリストの一枚も例外ではありません。

ところでブレンデルは、若くして将来の自分の進路を考えるにあたって“独墺系の曲で身を立てる”ことを決心し、ショパンやロシアの曲(除く展覧会の絵)を封印していることはご承知のとおりです。彼自身ショパンの“24の前奏曲”などには未練を持ちながらも、“二兎を追うものは一兎をも得ず”という信念を貫いているようで、立派と思うと同時にいささか残念な気もしないではありません。
ただ、そのショパンとかがないぶんリストは彼の活動当初からの重要なレパートリーであるとともに、彼が何度も集中して取り組み、世評も高いディスクがひしめくという結果に繋がっているのも確かです。

このディスクは、彼による現時点での最新の“ロ短調ソナタ”の録音であり、彼の芸術の精華ともいうべきできばえだと思います。
私にとって昔なじんだ音による安心感に満ち溢れた演奏でありながら、聴くたびに深く感銘を受ける大切なディスクなのです。
演奏技術に関しタッチの絶妙さはいうまでもなく、ペダルを極めて有効かつ精妙に活用して無限の音色のバリエーションで艶っぽい音楽を実現しています。
どの部分に対しても余裕あるテクニックを背景に、道端の様子や踏みしめた土の感覚をかみしめながら抑制した表情で思索しているといった風情。。。
アキレスとしてのブレンデルには風格すら漂う様子ですから、競走にも格闘にもなりません。
私にとってはどこも不自然なところがなく、あるべきところにあるべきものが存在してくれるためにとても充足した時間がもたらされるというすわりのいい演奏であるわけです。

ブレンデルはリストを高く評価し、ことにロ短調ソナタへは賛辞を惜しんでいません。すべての部分に納得がいき、最後消え入るように終わることにすら共感を表しています。
そんなリストへの敬愛と稀有な楽曲をもたらしてくれた感謝の気持ちが、演奏にも満ち溢れているように思われます。

さて、ブレンデルには1981年にも評価の高いロ短調ソナタの録音があります。私がこの曲のよさをはじめて感じることができたのは、実はこの演奏によってです。
リストのロ短調ソナタとの出会いは、後日登場いただく野島稔さんのディスク中でした。そのときには“唯一よさがわからないやたら長い曲”としか思えなかったこの曲。。。NHKのブレンデルのリサイタル番組で取り上げられていたのを見たときに、しっかり聴いてみようという気になったものです。
そこでは思索の末に -痛々しいほどにテープを巻いた指で- 一音一音鍵盤を打ち据えていくような演奏風景が繰り広げられていて、非常に興味をそそられました。
早速ディスク(当時は標記の新盤は未発表)を買い求め、繰り返し聴いたのです。ですから、幼少のみぎりのベートーヴェンに続き、私にはここで改めてブレンデルが刷り込まれていることになります。
併録の伝説曲も素晴らしかったため、さらにリストのピアノ独奏曲を“まとめて楽しみたい”とごそっと買い集めて、慣れないと晦渋なところもある“巡礼の年”なども部屋を真っ暗にして集中できるよう工夫し、我慢を重ねて聴き続けたことでリスト独特の詩情を感じられるまでになりました。
芸術をただ受身に味わうだけでもやはり研鑽が必要です。今の私があるのはそのときの成果であると言ってもいいのかもしれません。なんといっても自分で弾けないものを楽しむわけですから、完成品をしこたま聴かないと、設計図である楽譜から体系的に理解して臨む演奏家の方と同じようには感じられないでしょう!
もとより敵うとは思っていませんが。。。 ここでは、私がアキレスに対する亀みたいなものですね。。。

★リスト:ピアノ・ソナタ ほか
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)

1.ピアノ・ソナタ ロ短調
2.灰色の雲
3.凶星!
4.悲しみのゴンドラ1
5.リヒャルト・ワーグナー―ヴェネツィア
                  (1989年録音)

マウリツィオ・ポリーニの演奏にしては-確かにピアノの弦にハンマーがジャストヒットした美しい音色が聞かれるというものの-武骨です。ぶっきらぼうとさえ言ってもよい部分もあります。
瑣末なことに感知せず弾き進められていくさまには、まるで円空仏を眺めるときのような感銘を受けます。
圧巻はやはりクライマックスであらゆる音が重なり合って登り詰めたときの盛大に混濁した和音!!
他のピアニストは概ねペダルを細心の精度でコントロールして濁らない響きを作るところです。それをよそに、混濁を恐れないどころか“倍音も含めた全ての音をそこに放り込むのをためらわないぞ”という覚悟が感じられ、それにより言葉にしづらい何かが確かに表現しているように思わされます。
さらにその音をすぐに減衰させることにより、洗面台にたまった水が栓を抜かれて吸い込まれて消えていくのを見るようなある種の“はかなさ”“厳しさ”をも感じさせるのです。

ポリーニはブライトな芯をはずさない美しい音をピアノから引き出すことにかけて、最高の技術を持っていると思いますし、それは異口同音に定着した評価だとも思います。しかし、音を消すことに関しては、あまり頓着していないのではないかと思えてしまうことがままある。。。
したがってこの部分について混濁を“ズサンな処理”だと言う人もいるようですが、私は決してそうではないと思います。

どの音も深いタッチを押し切り、一音たりとも揺るがせにしないで弾き切るというこれも極めて厳しい執念、感興が高まったところでは-この人では珍しくありませんが-うめき声まで聞かれる本当に入れ込んだ演奏で、ヴィルトゥオジティよりもスポンティニュアスな勢いに気圧され、結局完全にノックアウトされたという聴き応えを得ることができます。
アキレスとしてのポリーニは、とんでもなくウルトラスーパーな迫力でパラドックスの壁を正面から打ち破ってしまったというイメージですね!

★≪アルゲリッチ / リスト、シューマン、ピアノ・ソナタ≫
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ)

1.リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
2.シューマン:ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 作品22
                  (1971年録音)

アルゲリッチ。。。
なんの思い入れも屈託もなく、しなやかにすべてを包み込んでしまう。。。
弱音のところは彼女がピアノを鳴らしているのではなく自在に音楽が溢れてくるようであり、強奏するところは何の強引さもなく統べてしまう。

ここでは多分、私の聴き取ることのできるレベルをはるかに超えたステージで演奏がなされているのではないかと思います。陸上選手などが100m走で10秒を切ると“違った世界が見える”というのと同様にアルゲリッチクラスになると、我々の五感では感知できないことのほうが多いかもしれません。
演奏時間とかは物理的には認知できても、その世界に遊んだときの心象的なことは残念ながら共有することはムリです。最早、彼女は超アキレス級であり全知全能の神であるようにすら思えてしまう。。。パラドックスなんか、すべて彼女の望むとおりに解決されてしまうのです。

この“ウルトラスーパー”をすら超越した演奏は、他の誰よりも演奏時間が短いのですが聴き終わって全く速いというイメージはありません。
本能的な閃きに導かれての奏楽に唖然としながらも、確かな充足感を残してくれるディスク。アルゲリッチの演奏を聴くことは、まこと非日常的な行為を目の当たりにすることでもあります。

さて、ここまでの演奏が出来てしまったアルゲリッチ。
彼女にとっても音楽の霊感の世界を体験しに行くことは、かつては、価値あることであったに違いありません。
しかし、聴衆はもちろん他に誰もその同じ世界を共有してくれるだけの人がいないとしたら。。。そんな孤独に耐えられなくなってしまうのではないでしょうか?
だからこそ彼女はリサイタルでのソロ演奏を避けペースメーカーとしての“パートナー”がいてくれる協奏曲や室内楽を演奏し、他人と一緒に合わせることでこの世に“居る”ことを実感し安心できているんだろうなと思います。
もちろん今でもその気になれば、そんな世界に遊びに行くことは出来るのでしょうが、自分ひとりで“行っちゃった”あと戻ってくる自信がなくて恐いのかもしれません。

我々にも、多分大多数の同業者ピアニストにも理解しえない世界なんでしょうが、彼女はそんなふうに思わずにはいられないほど凄いピアニストなのです。


“アキレスと亀”の話は2500年も前から議論されていて、いまだに決着がついていないと言われているようですねぇ。
私なんかは最初に聞いたときから「この考え方によると亀もゴールに着けないじゃないか?」ということで、話の次元をすり替えただけだと取り合わなかったのですが。。。
「本当ならゴールに着けるという事実とどう折り合いをつけるのか?」ということこそが問題だと思うんですけど・・・ 「それを言っちゃおしめぇよ!」ですね。

ゼノンには他にも“飛ぶ矢は止まっている”というパラドックスなどもありますが、ばかばかしいと思いますか?
それとも、考えちゃいますか。。。?