★リスト:巡礼の年 第1年「スイス」
(演奏:スティーブン・ハフ)
1.巡礼の年 第1年「スイス」全曲
2.グノーのオペラによるパラフレーズ (全3曲)
(2003年録音)
リストの“ロ短調ソナタ”に次ぐ大規模な曲はこの“巡礼の年”だとブレンデルが言っています。
決して小品といえない規模の曲も含まれていますが、あるカテゴライズされたテーマを持って曲集を作って、さらにそれを“第1年~第3年”とシリーズに編んでしまうというのは、シューベルトが“水車小屋”と“冬の旅”をシリーズにしたみたいなもので結構凄いことではないでしょうか?
したがって、作曲年代は若いころ下書きして中年のときに今の形に仕上げたものから、晩年のどよ~んとした気分の作品がまでそろっており、さながら“展覧会の絵”を生涯にわたって3編作曲したようなものとも言えるかも知れません。
ハフのリストは総じて勝気で威厳には欠けるかもしれませんが、あくまでもそれはブレンデルやボレットといった、更に人生経験を積んだ後録音した大家と比較してのこと。
自分に弾き表せないことはないという自信に裏付けられた、美しい音色と極彩色の表現力を駆使して自分の美学に徹底的に忠実に則った、ファンタスティックな奏楽。
ハフは、とにかく美しいものしかお皿に盛りませんという感じ。
これは他のディスクでもそうですが。。。セレブ向けの音楽作りをしているかのようです。
それがまた、男が聴いてもシビレるからすごいんですよねぇ。
私の性分からすると、最も毛嫌いしそうなタイプなんですが・・・。
一言で纏めるとすると、ブレンデルの演奏の方が思慮深いと思うのですが、別の切り口からみたときにはよりスタイリッシュで捨てがたい盤ということがいえると思います。
★リスト:巡礼の年 「スイス」「イタリア」
(演奏:ホルヘ・ボレット)
1.巡礼の年 第1年「スイス」 S.160
2.巡礼の年 第2年「イタリア」 S.161
3.巡礼の年 第2年補遺「ヴェネツィアとナポリ」 S.162
(1984・1985年録音)
ボレットは巡礼の年の第1年、第2年全曲と第2年補遺も全曲を遺してくれています。それもすこぶるつきの名演を!!
私はリスナーとしてこの上ない贈り物をもらっているような気持ちにすらなります。
第2年補遺は、以前ご紹介したDVDでも演奏姿ともども見ることが出来ます。
音源は別だし、CDではベヒシュタイン、DVDではスタインウエイとピアノも違っていて本当に興味深く見ることが出来ます。
ブレンデルとの相違を2点だけ述べるとすれば、1点目はボレットはブレンデルよりも1世代前の演奏家だけあってグランドマナーを身に付けていること、サロンなどでインティメートな雰囲気で(コンサート会場で多くの聴衆を前にしないで)演奏する術を心得ており、当然楽曲に対する姿勢、演奏に対する姿勢が異なっているということです。
ボレットは曲をよーく理解したうえで楽しく雰囲気よく聞かせる姿勢であること。したがって、演奏効果の高い曲でもその目的に沿った形で聴衆に提示します。ブレンデルだと曲の真意を追い詰めること、美しい音色で奏でることに終始します。
要するに聴衆に向けて演奏するか、自分自身の音楽創造の機会として演奏するかの違いであるかもしれません。それはブレンデルが決してプロの演奏家としては、“愛の夢第3番”をメインに演奏しないことなどにも現れていると思います。
(ブレンデルの“愛の夢”って聴いてみたいですねぇ・・・。恐いもの見たさでしょうか?)
2点目は、例えば“ウィリアム・テルの礼拝堂”では孤高のヒーローへのオマージュを描いているのは確かですが、ボレットの場合ヒーローの弱さ、寂しさまで雰囲気で伝えてきます。音の中に確かに苦みばしったところが感じられるのです。
対してブレンデルは孤高の高みを徹底して表現して、弱さはいっさい感じさせません。
テルは「強者は一人で闘うときが一番強い」という信念を持っていたようですが、時として仲間を思う気持ちが“雑念”となってさいなまれることがあったのかもしれません。
ボレットは「仲間がいるからこそ守るべきコミュニティーが存在する。けれどもその仲間とともにあるために、自分だけなら登れる高みをあきらめなければならないことも少なからずあった・・・。」、そんな心情まで感じさせます。
ブレンデルはそう感じさせることを排除して、あくまでも人々のリーダーとして敬愛された人物をリアルに表現するという解釈を採っているようです。
いずれも味わい深い名演であることに変わりはありません!
★巡礼の年:第3年
(演奏:ゾルタン・コチシュ)
1.巡礼の年:第3年
①アンジェラス、守護天使への祈り
②エステ荘の糸杉に「悲歌」第1番
③エステ荘の糸杉に「悲歌」第2番
④エステ荘の噴水
⑤ものみな涙あり
⑥葬送行進曲
⑦心を高めよ(スルスム・コルダ)
(1986年録音)
とにかくこのころのコチシュの演奏はフレッシュでした。ショパンのワルツにしてもしかり。
恐ろしいほどの技の冴えで、どんな曲でも弾きあげていっちゃうという感じでした。
その後ドビュッシーを録音するころになると、単なる鮮烈さは少し落ち着くんですけど。。。
1970年にハンガリーのベートーヴェン・ピアノ・コンクールで優勝し、1973年にリスト賞を勝ち取っているコチシュは、やはりリストを弾く際に求められるものをすべてその手にしているように思われます。
どんなに技巧的なことをしても、技巧が表に出ない。話題にすることないって感じです。当たり前に弾けちゃってるから・・・。
晦渋な曲なのに、爽やかにフレッシュに聴かせてくれます。かといって、これらがわかりやすい曲では決してありませんが。。。
先述の大家と比べると、聴き手におもねるところなくリストの残した楽譜から呼び覚ました事象・感情などを、とにかく思い切って音響に変換することに徹しているように思います。
後は聴き手が勝手にその音響が何ものかを判断してくださいと・・・。
そんな潔い態度が好感を得るのか、それとも空虚に聴こえてしまうのか?
ことこの演奏に関しては、残念ながら私にはコチシュの言わんとすることがまだ上手く聞き取れないでいるようです。
もちろん音響効果としてのこの曲を鮮やかに描ききった演奏という点からすれば、「他では聴かれない独自の完成度を誇るものである」ことは言うまでもありません。
ドビュッシー、ベートーヴェン、ラフマニノフなどのCDからは、例外なく高い完成度が実現されている現代屈指の名手なのですから!
(演奏:スティーブン・ハフ)
1.巡礼の年 第1年「スイス」全曲
2.グノーのオペラによるパラフレーズ (全3曲)
(2003年録音)
リストの“ロ短調ソナタ”に次ぐ大規模な曲はこの“巡礼の年”だとブレンデルが言っています。
決して小品といえない規模の曲も含まれていますが、あるカテゴライズされたテーマを持って曲集を作って、さらにそれを“第1年~第3年”とシリーズに編んでしまうというのは、シューベルトが“水車小屋”と“冬の旅”をシリーズにしたみたいなもので結構凄いことではないでしょうか?
したがって、作曲年代は若いころ下書きして中年のときに今の形に仕上げたものから、晩年のどよ~んとした気分の作品がまでそろっており、さながら“展覧会の絵”を生涯にわたって3編作曲したようなものとも言えるかも知れません。
ハフのリストは総じて勝気で威厳には欠けるかもしれませんが、あくまでもそれはブレンデルやボレットといった、更に人生経験を積んだ後録音した大家と比較してのこと。
自分に弾き表せないことはないという自信に裏付けられた、美しい音色と極彩色の表現力を駆使して自分の美学に徹底的に忠実に則った、ファンタスティックな奏楽。
ハフは、とにかく美しいものしかお皿に盛りませんという感じ。
これは他のディスクでもそうですが。。。セレブ向けの音楽作りをしているかのようです。
それがまた、男が聴いてもシビレるからすごいんですよねぇ。
私の性分からすると、最も毛嫌いしそうなタイプなんですが・・・。
一言で纏めるとすると、ブレンデルの演奏の方が思慮深いと思うのですが、別の切り口からみたときにはよりスタイリッシュで捨てがたい盤ということがいえると思います。
★リスト:巡礼の年 「スイス」「イタリア」
(演奏:ホルヘ・ボレット)
1.巡礼の年 第1年「スイス」 S.160
2.巡礼の年 第2年「イタリア」 S.161
3.巡礼の年 第2年補遺「ヴェネツィアとナポリ」 S.162
(1984・1985年録音)
ボレットは巡礼の年の第1年、第2年全曲と第2年補遺も全曲を遺してくれています。それもすこぶるつきの名演を!!
私はリスナーとしてこの上ない贈り物をもらっているような気持ちにすらなります。
第2年補遺は、以前ご紹介したDVDでも演奏姿ともども見ることが出来ます。
音源は別だし、CDではベヒシュタイン、DVDではスタインウエイとピアノも違っていて本当に興味深く見ることが出来ます。
ブレンデルとの相違を2点だけ述べるとすれば、1点目はボレットはブレンデルよりも1世代前の演奏家だけあってグランドマナーを身に付けていること、サロンなどでインティメートな雰囲気で(コンサート会場で多くの聴衆を前にしないで)演奏する術を心得ており、当然楽曲に対する姿勢、演奏に対する姿勢が異なっているということです。
ボレットは曲をよーく理解したうえで楽しく雰囲気よく聞かせる姿勢であること。したがって、演奏効果の高い曲でもその目的に沿った形で聴衆に提示します。ブレンデルだと曲の真意を追い詰めること、美しい音色で奏でることに終始します。
要するに聴衆に向けて演奏するか、自分自身の音楽創造の機会として演奏するかの違いであるかもしれません。それはブレンデルが決してプロの演奏家としては、“愛の夢第3番”をメインに演奏しないことなどにも現れていると思います。
(ブレンデルの“愛の夢”って聴いてみたいですねぇ・・・。恐いもの見たさでしょうか?)
2点目は、例えば“ウィリアム・テルの礼拝堂”では孤高のヒーローへのオマージュを描いているのは確かですが、ボレットの場合ヒーローの弱さ、寂しさまで雰囲気で伝えてきます。音の中に確かに苦みばしったところが感じられるのです。
対してブレンデルは孤高の高みを徹底して表現して、弱さはいっさい感じさせません。
テルは「強者は一人で闘うときが一番強い」という信念を持っていたようですが、時として仲間を思う気持ちが“雑念”となってさいなまれることがあったのかもしれません。
ボレットは「仲間がいるからこそ守るべきコミュニティーが存在する。けれどもその仲間とともにあるために、自分だけなら登れる高みをあきらめなければならないことも少なからずあった・・・。」、そんな心情まで感じさせます。
ブレンデルはそう感じさせることを排除して、あくまでも人々のリーダーとして敬愛された人物をリアルに表現するという解釈を採っているようです。
いずれも味わい深い名演であることに変わりはありません!
★巡礼の年:第3年
(演奏:ゾルタン・コチシュ)
1.巡礼の年:第3年
①アンジェラス、守護天使への祈り
②エステ荘の糸杉に「悲歌」第1番
③エステ荘の糸杉に「悲歌」第2番
④エステ荘の噴水
⑤ものみな涙あり
⑥葬送行進曲
⑦心を高めよ(スルスム・コルダ)
(1986年録音)
とにかくこのころのコチシュの演奏はフレッシュでした。ショパンのワルツにしてもしかり。
恐ろしいほどの技の冴えで、どんな曲でも弾きあげていっちゃうという感じでした。
その後ドビュッシーを録音するころになると、単なる鮮烈さは少し落ち着くんですけど。。。
1970年にハンガリーのベートーヴェン・ピアノ・コンクールで優勝し、1973年にリスト賞を勝ち取っているコチシュは、やはりリストを弾く際に求められるものをすべてその手にしているように思われます。
どんなに技巧的なことをしても、技巧が表に出ない。話題にすることないって感じです。当たり前に弾けちゃってるから・・・。
晦渋な曲なのに、爽やかにフレッシュに聴かせてくれます。かといって、これらがわかりやすい曲では決してありませんが。。。
先述の大家と比べると、聴き手におもねるところなくリストの残した楽譜から呼び覚ました事象・感情などを、とにかく思い切って音響に変換することに徹しているように思います。
後は聴き手が勝手にその音響が何ものかを判断してくださいと・・・。
そんな潔い態度が好感を得るのか、それとも空虚に聴こえてしまうのか?
ことこの演奏に関しては、残念ながら私にはコチシュの言わんとすることがまだ上手く聞き取れないでいるようです。
もちろん音響効果としてのこの曲を鮮やかに描ききった演奏という点からすれば、「他では聴かれない独自の完成度を誇るものである」ことは言うまでもありません。
ドビュッシー、ベートーヴェン、ラフマニノフなどのCDからは、例外なく高い完成度が実現されている現代屈指の名手なのですから!