★ショパン:夜想曲全集
(演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
《DISC1》
1.ショパン:夜想曲 第1番~第10番
《DISC2》
2.ショパン:夜想曲 第11番~第19番
(2005年録音)
このところレコ芸をまともに読めていない。
時間とお金があれば今もって購入してちゃんと読みたい雑誌なのだが、正直なところ立ち読み、つまみ読み、斜め読みして済ませてしまうことが多くなってしまった。
理由はいろいろある。
まずは先にも書いたとおり私自身に極端に時間が無くなったことと、家族にかかる費用が甚大になってきたのでこれまでのようにディスク(音楽雑誌ほか娯楽一般)にかける金銭の枠が極端に緊縮していることがある・・・
というよりそれに止めを刺す。
それに付随するように、CDを所有する量が膨大になってチャレンジで様子のわからないディスクに手を出すことにためらいを覚えることが多くなるなかにあっては、新たに買い求めるディスクを物色するためのガイドはあまり意味をなさない・・・ということも当然に出てくる。
つまみ読みするにせよ、ネットでチェックしたディスクの評を後追いで確認する場合が多くなった。
国内盤では気になるディスクのみ濱田先生、那須田先生の評を参照させていただくほか、“海外盤のレビュー全般と巻末の発売一覧”を追うことのみ・・・記事を読むとなるとツィメルマンクラスのアーティストのインタビューでもなければ目もくれない・・・って感じになってしまっている。
もちろんレコ芸の質のあがったさがったという話ではない(と思う)。
これまで述べたとおり読者としての私が、ある意味レコ芸を必要としなくなってしまったことが尤も大きな要因であることは疑いないからだ。
そりゃ、少しはもっとこうしてもらえれば・・・という期待もあるにせよ、私だけのための雑誌ではないわけだし、他の冊子を以って替えられないアイデンティティをもっていることに相違ないわけで、今後とも情報源として私の期待を担ってもらうことにはなろう。。。
回りくどい言い方をしたが、要するに『レコ芸』の内容が現在の私のニーズから乖離してしまったということ・・・なのだ。
今回の企画にしてもそうだ。
何年か置きにやってくれている名曲のナンバーワンディスクを、多くの評論家のポイント制で決定するという企画自体は“ある層には”このうえなく有用だし、欲しい情報の筆頭にも挙げられよう。
私とて思いおこせば・・・
87年(ぐらいだったかな?)の結果を反映した評の載っていたCDガイドが、私の最初の入手すべきディスクの羅針盤だった。
その後93年ぐらいに同種の企画がまとまったと記憶しており、つい先だってまではそのときのレコ芸の本体から抜き出して(切り出して)綴じたものをずっとバイブルのように持っていた。
いまや膨れ上がった私のCDの山がこのようであるのも、レコ芸のガイダンスがあったればこそ。
強力な恩恵を受け、影響を被ったわけである・・・いい意味でも、悪い意味でも。
しかし・・・
これはビギナーころの私だったからこそ有効な企画であり、今ほどにスレて来ると、多くのセンセイ方のチョイスを足しこんでしまって得られた結論(順位)には、全く意味は見出せない。
普遍性を楽しむものではないのだから。(^^;)
ところで・・・
ポリーニってそんなに凄いピアニストなんだろうか?
いやいや・・・
当代を代表するとてつもなく凄いピアニストであることに間違いはあるまい。(^^;)
それは私も認める!
いや(特に80年代から前世紀の末頃までの)ポリーニがいかに凄いピアニストであったかは、最近あらためて思い知らされてもいる・・・再評価ってやつを自分でせざるを得なかったことは正直に告白しておきたい。
しかし・・・しかしである・・・
それほどまでに普遍性をもって、遍く魅力的に受け止められてきたピアニストであるとは、私にはどうしても思えないのだ。
はっきり言ってしまえば、彼の芸術や生き方に関係なく“通であればあるほど理解できるピアニスト”とメディアによって必要以上に権威づけられたピアニストというのが私の【ポリーニ評への評価】である。
アシュケナージなら凄みはポリーニに一歩譲っても人気という面でポイントが高位になってると考えるなら・・・そうあっても仕方ないかなと思うけど。。。
当初(80年代末ごろ)、私が参考にしていた文献ではショパンといえば猫も杓子もアシュケナージだったものだ。
そのころアシュケナージによって成し遂げられたショパン全集は、もともとはリサイタルの形でプログラムが組まれていた。
つまり、当初アンソロジーの形で出されていなかったものをアンソロジーに組みなおしてバラード&スケルツォだとか、即興曲+24の前奏曲なんて形で・・・まるでベスト盤を選ぶために出しなおしたように思えたものだ。
もとより音源は変わらないし、普遍的に高い完成度を持っていた(私が好んでいるかは別、聞きやすいけどね)わけだから評価が高いのは当然だとは思っていたけれど。。。
そして、その「人気のアシュケナージ」に唯一比肩できる男性ピアニストとしての「実力のポリーニ」とでもいう、プロ野球のセ・パ両リーグのような、あるいはVHSとベータの戦争のような構図が現われた・・・。
話を戻そう・・・
いかにポリーニがスーパーでスペシャルなピアニストであるにしても・・・
ショパン・コンクールで圧倒的な勝利を収めたピアニストであるにしても・・・
だからショパンに卓越した境地を聴かせることができるピアニストであるにしても・・・
今回の企画における“あの票の集まり方”は尋常ではない。
ソナタでこそアルゲリッチの後塵を拝していたが、バラード、スケルツォ、ノクターン・・・
いずれもトップ当選とはどういうことだろうか?
私もスケルツォ・・・だけは頷ける。
バラードだってレコード・アカデミー賞を獲っている名盤であるのだが・・・果たしてここまで票は集まるものなのだろうか?
またノクターンに至っては、確かにポリーニだからこそ開拓しえた新境地の演奏だといって差し支えないにせよ、その「新境地」がここまで見事に普遍性を獲得してしまっている現実は・・・私にはアンビリーバボーなのである。
うまく言葉にできないのだが、重くなく淡白な中に清々しさみたいなものは感じるし、かといって含蓄というかコクがないともいえないし・・・
でも、圧倒的に何かが足らないような、私が聞き取れないだけなのかもしれないが・・・
本来ノクターンになくてはならない何かがないように思えてならない。。。
ことに私がもっとも重きを置く作品27の2曲、ことに1曲目になくてはならない焦燥感というか心がじれて焦げ付くような火照り、熱さ・・・というものが・・・込められているのかもしれないが・・・感じ取れない点において、どうしても「すごいけどピンとこない」・・・となってしまわざるをえないのが私の評。
ましてやこのディスクについては、若書きながら人気の遺作の2曲も含まれていない。。。
いやいや・・・
「これが音楽のプロたる評論家の耳であればこそその総合的な凄さがわかり、しかるに屈服せざるをえないのだぞよ・・・」といわれるのであれば、「左様でございますか、恐れ入りました」と申し述べるほかない。
ただ、これとて数多ある“ピアニスト”各位がそう仰るなら納得もしようが、実際には“弾かない”評論家各位が技術面、印象面・・・いずれも同じように脱帽するというのであれば、なんと画一的な世界であることよ・・・としらけちゃう人がいてもおかしかないんじゃないか!?
というわけで、シロート向けのおすすめガイドの企画にその基準建てでよいのかどうか、甚だ疑問を提示したくなる衝動を抑えきれない・・・からこんな記事を書いちゃうのだが。。。(^^;)
ざっくばらんに書いちゃえば・・・
評論家各位が自分の良心に立脚しておのおのの好きな演奏を採るのだとすれば、もっと好みがバラけて不思議ではないはずではなかろうか?
ましてや、相手はショパン・・・
星の数ほどとは言わないまでも、夥しい選択肢があり、それぞれのセンセイがたにマイ・フェイバリット・ディスクが存在するはずなのだ。
ハンで押したような候補盤に集中するのでは、評論家の先生方が、そもそも選ぶために十分な量のディスクを聴いているのかどうかから疑問視したくなる。
なぜなら・・・
これらのディスクの新譜にもっとも多く触れておられるであろうかた・・・私が信頼する器楽曲部門の月評子のおふたり・・・濱田先生、那須田先生は、私同様にスケルツォを除き必ずしもポリーニを推してはおられないのだから。
濱田先生のアラウへの思い入れ、那須田先生のノクターンでのチッコリーニへの一位票にはおふたりの良心を感じたし、私の感性に照らしても全く同感で快哉を叫びたい。
もとよりおふたりの嗜好される奏楽のありかたや録音の傾向みたいなものも、正しいかどうかは別にして、私の中にはイメージがある。
私自身のそれとの誤差というか距離もある程度測ることができている・・・と思える。
そしてそのご自身のありようを常に堅持して、月評を展開してくださっていると信じられる。
だからこそ・・・
お2人の評は常に信じられ、器楽の新譜に関するレコ芸での月評は私にとってレコ芸の看板足りえるのだ。
オマケにちょっと提案なのだが・・・
レコ芸ならずとも音楽誌において、もしこのような企画を展開するのであれば、面倒でも階層別に情報を取ってもらわないと信用に足るデータになるとは思えない。
つまり、素人向けには読者アンケート、ちょっと通向けに音大の学生アンケートをとるとかしないとおもしろくない。
そして・・・肝心なこと・・・
少数でも、あるいは知られていない盤でも熱狂的なポイントを稼いだものは紹介してもらうこと。。。
案外、隠れた名盤というのはそういうところに潜んでいるものであるから。
(演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
《DISC1》
1.ショパン:夜想曲 第1番~第10番
《DISC2》
2.ショパン:夜想曲 第11番~第19番
(2005年録音)
このところレコ芸をまともに読めていない。
時間とお金があれば今もって購入してちゃんと読みたい雑誌なのだが、正直なところ立ち読み、つまみ読み、斜め読みして済ませてしまうことが多くなってしまった。
理由はいろいろある。
まずは先にも書いたとおり私自身に極端に時間が無くなったことと、家族にかかる費用が甚大になってきたのでこれまでのようにディスク(音楽雑誌ほか娯楽一般)にかける金銭の枠が極端に緊縮していることがある・・・
というよりそれに止めを刺す。
それに付随するように、CDを所有する量が膨大になってチャレンジで様子のわからないディスクに手を出すことにためらいを覚えることが多くなるなかにあっては、新たに買い求めるディスクを物色するためのガイドはあまり意味をなさない・・・ということも当然に出てくる。
つまみ読みするにせよ、ネットでチェックしたディスクの評を後追いで確認する場合が多くなった。
国内盤では気になるディスクのみ濱田先生、那須田先生の評を参照させていただくほか、“海外盤のレビュー全般と巻末の発売一覧”を追うことのみ・・・記事を読むとなるとツィメルマンクラスのアーティストのインタビューでもなければ目もくれない・・・って感じになってしまっている。
もちろんレコ芸の質のあがったさがったという話ではない(と思う)。
これまで述べたとおり読者としての私が、ある意味レコ芸を必要としなくなってしまったことが尤も大きな要因であることは疑いないからだ。
そりゃ、少しはもっとこうしてもらえれば・・・という期待もあるにせよ、私だけのための雑誌ではないわけだし、他の冊子を以って替えられないアイデンティティをもっていることに相違ないわけで、今後とも情報源として私の期待を担ってもらうことにはなろう。。。
回りくどい言い方をしたが、要するに『レコ芸』の内容が現在の私のニーズから乖離してしまったということ・・・なのだ。
今回の企画にしてもそうだ。
何年か置きにやってくれている名曲のナンバーワンディスクを、多くの評論家のポイント制で決定するという企画自体は“ある層には”このうえなく有用だし、欲しい情報の筆頭にも挙げられよう。
私とて思いおこせば・・・
87年(ぐらいだったかな?)の結果を反映した評の載っていたCDガイドが、私の最初の入手すべきディスクの羅針盤だった。
その後93年ぐらいに同種の企画がまとまったと記憶しており、つい先だってまではそのときのレコ芸の本体から抜き出して(切り出して)綴じたものをずっとバイブルのように持っていた。
いまや膨れ上がった私のCDの山がこのようであるのも、レコ芸のガイダンスがあったればこそ。
強力な恩恵を受け、影響を被ったわけである・・・いい意味でも、悪い意味でも。
しかし・・・
これはビギナーころの私だったからこそ有効な企画であり、今ほどにスレて来ると、多くのセンセイ方のチョイスを足しこんでしまって得られた結論(順位)には、全く意味は見出せない。
普遍性を楽しむものではないのだから。(^^;)
ところで・・・
ポリーニってそんなに凄いピアニストなんだろうか?
いやいや・・・
当代を代表するとてつもなく凄いピアニストであることに間違いはあるまい。(^^;)
それは私も認める!
いや(特に80年代から前世紀の末頃までの)ポリーニがいかに凄いピアニストであったかは、最近あらためて思い知らされてもいる・・・再評価ってやつを自分でせざるを得なかったことは正直に告白しておきたい。
しかし・・・しかしである・・・
それほどまでに普遍性をもって、遍く魅力的に受け止められてきたピアニストであるとは、私にはどうしても思えないのだ。
はっきり言ってしまえば、彼の芸術や生き方に関係なく“通であればあるほど理解できるピアニスト”とメディアによって必要以上に権威づけられたピアニストというのが私の【ポリーニ評への評価】である。
アシュケナージなら凄みはポリーニに一歩譲っても人気という面でポイントが高位になってると考えるなら・・・そうあっても仕方ないかなと思うけど。。。
当初(80年代末ごろ)、私が参考にしていた文献ではショパンといえば猫も杓子もアシュケナージだったものだ。
そのころアシュケナージによって成し遂げられたショパン全集は、もともとはリサイタルの形でプログラムが組まれていた。
つまり、当初アンソロジーの形で出されていなかったものをアンソロジーに組みなおしてバラード&スケルツォだとか、即興曲+24の前奏曲なんて形で・・・まるでベスト盤を選ぶために出しなおしたように思えたものだ。
もとより音源は変わらないし、普遍的に高い完成度を持っていた(私が好んでいるかは別、聞きやすいけどね)わけだから評価が高いのは当然だとは思っていたけれど。。。
そして、その「人気のアシュケナージ」に唯一比肩できる男性ピアニストとしての「実力のポリーニ」とでもいう、プロ野球のセ・パ両リーグのような、あるいはVHSとベータの戦争のような構図が現われた・・・。
話を戻そう・・・
いかにポリーニがスーパーでスペシャルなピアニストであるにしても・・・
ショパン・コンクールで圧倒的な勝利を収めたピアニストであるにしても・・・
だからショパンに卓越した境地を聴かせることができるピアニストであるにしても・・・
今回の企画における“あの票の集まり方”は尋常ではない。
ソナタでこそアルゲリッチの後塵を拝していたが、バラード、スケルツォ、ノクターン・・・
いずれもトップ当選とはどういうことだろうか?
私もスケルツォ・・・だけは頷ける。
バラードだってレコード・アカデミー賞を獲っている名盤であるのだが・・・果たしてここまで票は集まるものなのだろうか?
またノクターンに至っては、確かにポリーニだからこそ開拓しえた新境地の演奏だといって差し支えないにせよ、その「新境地」がここまで見事に普遍性を獲得してしまっている現実は・・・私にはアンビリーバボーなのである。
うまく言葉にできないのだが、重くなく淡白な中に清々しさみたいなものは感じるし、かといって含蓄というかコクがないともいえないし・・・
でも、圧倒的に何かが足らないような、私が聞き取れないだけなのかもしれないが・・・
本来ノクターンになくてはならない何かがないように思えてならない。。。
ことに私がもっとも重きを置く作品27の2曲、ことに1曲目になくてはならない焦燥感というか心がじれて焦げ付くような火照り、熱さ・・・というものが・・・込められているのかもしれないが・・・感じ取れない点において、どうしても「すごいけどピンとこない」・・・となってしまわざるをえないのが私の評。
ましてやこのディスクについては、若書きながら人気の遺作の2曲も含まれていない。。。
いやいや・・・
「これが音楽のプロたる評論家の耳であればこそその総合的な凄さがわかり、しかるに屈服せざるをえないのだぞよ・・・」といわれるのであれば、「左様でございますか、恐れ入りました」と申し述べるほかない。
ただ、これとて数多ある“ピアニスト”各位がそう仰るなら納得もしようが、実際には“弾かない”評論家各位が技術面、印象面・・・いずれも同じように脱帽するというのであれば、なんと画一的な世界であることよ・・・としらけちゃう人がいてもおかしかないんじゃないか!?
というわけで、シロート向けのおすすめガイドの企画にその基準建てでよいのかどうか、甚だ疑問を提示したくなる衝動を抑えきれない・・・からこんな記事を書いちゃうのだが。。。(^^;)
ざっくばらんに書いちゃえば・・・
評論家各位が自分の良心に立脚しておのおのの好きな演奏を採るのだとすれば、もっと好みがバラけて不思議ではないはずではなかろうか?
ましてや、相手はショパン・・・
星の数ほどとは言わないまでも、夥しい選択肢があり、それぞれのセンセイがたにマイ・フェイバリット・ディスクが存在するはずなのだ。
ハンで押したような候補盤に集中するのでは、評論家の先生方が、そもそも選ぶために十分な量のディスクを聴いているのかどうかから疑問視したくなる。
なぜなら・・・
これらのディスクの新譜にもっとも多く触れておられるであろうかた・・・私が信頼する器楽曲部門の月評子のおふたり・・・濱田先生、那須田先生は、私同様にスケルツォを除き必ずしもポリーニを推してはおられないのだから。
濱田先生のアラウへの思い入れ、那須田先生のノクターンでのチッコリーニへの一位票にはおふたりの良心を感じたし、私の感性に照らしても全く同感で快哉を叫びたい。
もとよりおふたりの嗜好される奏楽のありかたや録音の傾向みたいなものも、正しいかどうかは別にして、私の中にはイメージがある。
私自身のそれとの誤差というか距離もある程度測ることができている・・・と思える。
そしてそのご自身のありようを常に堅持して、月評を展開してくださっていると信じられる。
だからこそ・・・
お2人の評は常に信じられ、器楽の新譜に関するレコ芸での月評は私にとってレコ芸の看板足りえるのだ。
オマケにちょっと提案なのだが・・・
レコ芸ならずとも音楽誌において、もしこのような企画を展開するのであれば、面倒でも階層別に情報を取ってもらわないと信用に足るデータになるとは思えない。
つまり、素人向けには読者アンケート、ちょっと通向けに音大の学生アンケートをとるとかしないとおもしろくない。
そして・・・肝心なこと・・・
少数でも、あるいは知られていない盤でも熱狂的なポイントを稼いだものは紹介してもらうこと。。。
案外、隠れた名盤というのはそういうところに潜んでいるものであるから。