JR長岡駅にある良寛像です。
この前で私の次男がポケモンのぬいぐるみを持って、同じ格好をして写っている写真がありますが、それはもちろんナイショです。
だいたい次男だけでなく、長女にも米沢の上杉鷹山像の前で扇子を城下に突き出しているところを“リンゴ飴”を持ってまねして一緒に写っている写真とか、長男にもそんなのがあったっけなぁ~・・・。
そういうのを喜んで写真に撮る親がいるからだ!
というご指摘は、思っても言わないでくださいね。
良寛禅師はもちろん名僧として名高いわけですが、どうも長岡に来るまでは小林一茶のイメージとダブるところがあってごっちゃになっちゃってたようなんですね。
手毬を子供たちとついて戯れているのと、痩せガエルの話なんかがこう・・・ってな感じで。
いずれにせよ“良寛さん”とは、朗らかでのほほんとして・・・言ってしまえば昼行灯みたいな生活をしてた人というイメージだったのです。
大変な誤解ですよねぇ~。そうじゃなかったようですねぇ~・・・。
禅の修業を志して諸国を修行して歩いたけれど、堕落しきった僧にしか巡り会えないことに失望して出雲崎のほうに戻ってきたんですってね。
良寛禅師の志・理想の高さはグンバツだったのでしょう。
でも所詮ひとりはひとりで周りを懐柔できるわけでもないことを悟って、きっと一旦は失意の底に沈んだはず。。。
私が良寛さんを見て学ばなければならないことは、その失意に沈んだ後の動向にこそあると思っています。
きっと良寛さんは子供たちと遊んでいるときにも、他愛ないであろう子供たちの話から親のようす、家のようす、村のようすなどを見聞きし分かり、知識の限りを尽くして自分が目立つことなく(自分を勘定にいれずに)人々の暮らしの安寧を思っていたに違いないと思うのです。
ちょっと宮沢賢治を意識して書いてしまいましたが・・・。
もちろんそのような想いは、禅僧として厳しい戒律に従った仏様への礼拝を通しても自身の中で工まず育まれ続けていたはずです。
だって、それこそが坊さんの本職なんでしょうから・・・。
要するに、誰が見ているとか見ていないということにかかわらず、自分自身の修養を怠らないでいるという姿勢をもち続けたことが凄いと思うのです。
見習えるかなぁ~・・・。難しいなぁ~・・・。
だいたいブログでこういう記事を垂れ流していること自体が、そもそも反しているような気もするんですけどね。
でも当時の良寛さんがブログ書いてたとしたら、見たかったですよね。
読めない文語調の文字で、縦書きだったりして。。。
ところでご承知の方も多いと思いますが、良寛禅師が亡くなる5年ぐらい前(70歳ぐらいのとき)に、貞心尼という30歳ぐらいの勝気な尼僧とのふれあいがありますよね。
いろんな人が小説の題材としてもとりあげていらっしゃるようです。
「蓮の露」という貞心尼が記した“相聞歌集”があるのですが、ここに収められたことがらや歌の意味するであろうことから、いろいろなことを読み取られる方がいるようなのです。
まず“相聞歌”とは“歌を通して心を交し合うこと”であるらしいので、必要条件は心を交し合うこと“だけ”ですよね。
“相聞歌”って書いた時点で「ラブラブ決まり!」ってわけじゃない。
その心の交し合いの度合いが、専門に研究された方々をしていろいろな段階に意見が分かれているということです。
第一に最も普及しているであろうイメージは、70歳の年老いた坊さんと30歳のバツイチ(?)の尼さんの純粋にしてほほえましいプラトニック・ラブと解釈する例。
人によっては行くところまで行ったと断言しちゃってる人もいるみたいですが・・・。
さすがの私も当初からそりゃないと思ってますんですがねぇ~。
第二に良寛禅師はあくまでも禅の道の師であり、貞心尼が悟りを得られず心揺れるところを見事にコーチングして悟りまで引き上げたという解釈。
ふむふむ・・・。
第三は「蓮の露」を著した貞心尼の片思い・・・。
そりゃ、本人の自伝なんですから書くのに目的はあるのでしょう。
昨今だって女優のIさんとかが巷を騒がせてるのだってそんな類かもしれません。
出版したかどうか知りませんが、貞心尼は終生この書物を大事に持っていたということですから、思い入れは相当なもの。
我々が現代で言う「愛情」を持っていたのは紛れもない事実だと思います。
それが、仏の道に仕えるものとしての矩を越えているかはどうかわかりませんが・・・。
さて私は貞心尼側の視点から見た場合に、第三の説に対して、
“越えてたら書かないよね・・・書いちゃったら内緒にしておくよね・・・だってお坊さんなんだもん。”
という立場を採りたいと思っておりまして、当然に禅僧としての自分自身をわきまえた表現をしていると考えています。
また良寛禅師の立場からは第二の説を支持したいと思ってます。
お間違いなく。
“支持したい”のであって事実がそうだったはずだと主張するつもりはありません。
だって、わからないんだもん。(^^)/ かわいくないですね。
禅宗の「悟り」を示唆する良寛の貞心尼に対する慈愛(これも愛ですよね)は、遍く人に対して良寛禅師が持とうと思っていたものであるはずです。
それが特にこれほどの対応(指導?)をしてあげたということは、彼にとって貞心尼とは晩年に出会った極めて感性の高い同門の後輩であり、自身の経験から得た心のありようをただ一人まともに受け継ぎうる素質を持った人間であったということなんでしょう。
仮に男性であったとしても、良寛禅師は相手を成長の度合いをみながら同じように振舞ったに相違ないと思います。
それをホ●とかいう人はよもやおりますまい!
っていう間柄だと思います。あくまでも良寛禅師から見た場合ですが・・・。
いずれにしても、貞心尼は良寛がこの人と見込んだ禅宗の教えに対するスペックの高い人だったことに間違いなく、禅宗の悟りにいたる基本ソフトをインストールしてもフリーズしたりバグを起さないだろうということで、当時の最高度のオペレーションソフトを4年間に渡ってインストールしてあげたという事実はあるんだと思います。
あえて味気なぁ~く書きましたけど。
ここでも濃密にインストールしたなんて書いちゃうと、誤解する人が出てくるかもしれないし。
どうしても「男と女」っていうとゴシップ記事みたいになっちゃいますもんね。
現代でも恐ろしく歳の離れたカップルが現れるし、おこさんなんかできちゃうと「愛はバイアグラを超えた」なんてスポーツ新聞に活字が躍ったりしますからねぇ。
でも、本当はどうだったんでしょうねぇ・・・。あのふたり。。。
というわけで良寛禅師の貴い教えや、心の持ちようを今の我々に伝えてくれた貞心尼にも最大級の感謝をするものであります。
いまさらこんな風に書いたところで怒られるかなぁ?
ここまでは前段(!)で、タイトルの「つきて見よ・・・」とは「蓮の露」に表れる良寛禅師の最初の歌の冒頭です。
良寛禅師の名声を伝え聞き、ぜひ教えを乞いたいと柏崎市から良寛のいる出雲崎の草庵へ、良寛が好きだというきれいな自作の手毬と「歌」を詠んだ手紙とを携えて訪問した貞心尼。
そのとき良寛は不在で手紙と毬を置いて一旦は辞去するのですが、それに応えて良寛禅師が詠んで返した歌です。
要は入門前のお願いの歌と、「いーよ。やってみなさい」という返しの歌ってワケですね。
いずれもご紹介します。
《貞心尼》
師常に手毬をもて遊び玉ふときゝて、
これぞこの ほとけのみちに あそびつゝ
つくやつきせぬ みのりなるらむ
《良寛》
御かへし
つきて見よ ひふみよいむなや こゝのとを
とをとをさめて 又始まるを
私は歌の心得がないので、意訳した意味がぶっ飛んでたらごめんなさいなのですが・・・。
要するに最初の歌では貞心尼が、
良寛禅師さまは手毬を撞いて単に無邪気に遊んでいるように振舞っておいでですけど、実は仏様の道に就いて尽きない仏の教えの実りをその中で実践されているのではないでしょうか?私に教えてくださいな。
とオヤジギャグを交え(遊び給ふ→玉ふ、(毬を)撞く→(仏道に)就く→尽くなど)入門をお願いしているわけですね。
そしたら「こいつなかなか頭よさそうだし、ヤル気も見込みもありそうだ」と思った良寛禅師が、
(仏の道に)就いて(私を通していろいろな事柄を)見なさい。
(仏道とは、手毬を撞くように)一二三四五六七八九十と就いて勉強して、よし修めたと思ってもそれはまだ途上であって、また新たに一から始めるような繰り返しですよ。
と、一緒にやろまいかと入門を許可しているってことなんですね。
字面だけ追うと、単に理屈っぽい男女による、めっぽう手の込んだぜんぜん色っぽくない手紙のやりとりと思えなくもないんですけどねぇ・・・。
少なくとも今風ではないというか、現代でやろうとしたらコケますね・・・多分。
もちろん私はこういうの好きなんですけど、あんまりスキって言うことを公言すると嫌われそうな気もする。
だいたい女性がオヤジギャグを遣ってどうする!
オヤジギャグが語弊があるならダジャレだと言われますよ!
こういうの“掛詞”っていうんでしょ!?
古い人がやると趣があるといわれて、私がやると・・・悲しいから言わないでおきます。
はい、人徳の問題です。
禅宗の仏教って毎日の一瞬一瞬が修行で明け暮れている、何しているのも修行という考え方があるようなんですけど、その中に身をおいてみるとやっぱり大変なんでしょうかねぇ?
小さいときから一日少しずつでいいから勉強を、ピアノの練習をなどと、修行じゃないときのことを楽しみにしながら歯を食いしばってきた(つもりの)私なんかには、ちょいと逃げ場がなくツラいいい方に過ぎると思うのですが・・・。
でもこれを「一瞬一瞬を悔いなく生きよう」なんて言い換えてしまうと、却ってメッチャあやふやになってしまうような気がします。
いずれにしてもここまでの私の4000字余りの記載内容にかかわらず、先の良寛禅師の歌には、やさしさ、希望、期待、厳しさ・・・
すべての人の心の中の全ての感情が濃縮ミックスされているようで、私の心を捕らえて離さないものがあります。
その心の濃縮ミックスを歌で表すと・・・
♪~ あ~れ~もぉ愛 これも愛 たぶん愛 きっと愛
って感じになるのでしょうか?(^^)v
ちなみに第1案のカゲキ説は、もしも貞心尼が網タイツやバニールックで良寛禅師に逢いに行っていたという事実があるのなら採り上げる可能性を残しておきましょう。
私はバドガールのほうがスキですけどね。
余白には、良寛像と同じくJR長岡駅の構内にある名物が描かれた凧をご紹介します。
(すでに余白って感じじゃないですよね・・・)
中央に有名な信濃川の河川敷における大花火。フェニックスって最後に打ち上げられるんですけど、それはそれは凄いですよ。
私は自宅の脇の国道17号線の陸橋から全景を撮影したビデオを持ってますけどね。
初日に目の前で見たときは、スケールがでか過ぎて一部しか見れませんでした。
少し離れた高台にいると全景が見られます。い~でしょ~。へっ・へっ・へっ。
でも、それまでの花火を撮り過ぎて途中で切れちゃってまして、家族からとんでもなく誹謗中傷を受けておりますが・・・。
折角ずっと一生懸命撮ったのに、そんなん言わなくても・・・。
後は地震で大きな被害を蒙った山古志(今は長岡市に併合されています)などで開催されている「牛の角突き」と、同じく山古志の名物である観賞用錦鯉が描かれています。
山古志方面には蓬平温泉という有名な温泉があり、昨年の春に行きました。
3軒あった有名なホテルの一棟は改修して温泉も含めて最新の設備を整えておりましたが、一棟は何とか営業を続けている(中は入ってないのでわからない)状態で、もう一棟はまだ立ち直っていませんでした。
山古志中学校は先ごろ新しく建て替えられましたが、それまでは私の娘の通う中学校に間借りしていたような状況でした。
被災者の方の仮設住宅もまだあるし、まだ災害から完全に立ち直っているわけではありません。
そんな状況って、他のゴシップ記事のように流行り廃りがあっていいものじゃないと思うのですが、メディアは旬(変化があったもの)しか放映しないという恨みが残りますね。
まぁ、これは長岡に限らずどこの地域にも共通したことなんだと思いますが・・・。
安倍総理になって小泉総理のときと比べて極端に総理の露出が減ったように思うのも、そんな思いを強くさせる要因となっています。
支持率下がってますもんねぇ。
東国原知事のように、率先して説明だのなんだのをする必要があるんじゃないですかね?
彼のようにビギナーというエクスキューズが効かないのはよくわかりますけど。
東国原知事も元親分のビートたけしさんにお願いして、毎週5分でも県政がどうなったのかを知事の口から日本全国にアピールするなどしないと、すぐに忘れられちゃいますよ。きっと。
当選したのがアンビリーバボーなんだから番組でずっと「まだ持ちこたえている、アンビリーバボー」なんてやり続けて3年もしたら、宮崎が全国一すばらしい県になってたりして・・・。
そうしたら今の政治屋さんは顔色がなくなって痛快になるんじゃないでしょうかねぇ?
これは長岡市役所の支所のガラスケースにあった米百票大黒です。
売っていたらほしいんですけどねぇ。
見たことないんですね。雷様よりはずっと偉そうですね。太鼓ならぬ米俵が幾重にも周りを取り囲んでいて・・・。
こんなお土産あったら欲しくないですか?(^^)v