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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

アイスブレイクということで・・・

2007年09月24日 23時19分59秒 | 長岡
今日はブレイクにさせてくださいね。(^^)/

新商品が出たために安くなっていた旧型デジカメを買ったんですが・・・高画質にしようとしたらなんか要領が大きすぎるとかでどこにも取り込めなくって・・・予定が狂ってしまいました。(^^;)

格落ちの在庫整理のワンチャンスを狙っていたのでまったく思惑通りだったのですが、いいものにするってのも自分のキャパを越えると問題多いですな・・・。


記事については、聴く時間が取れないとディスクのことは書けないですからね。。。(^^;)
もし期待してくださってる人がいらしたとしたら、申し訳ありません。
ちょっとばかしお待ちを・・・。



写真は新潟は燕市の「道の駅」国上にある良寛像です。

父の日の父兄参観で・・・

2007年06月18日 01時02分02秒 | 長岡
おやつの役割とは・・・(^^;)

・ 栄養を補う
・ 楽しい気分になる
・ 疲れを取る

小学校の父親参観でやっていた「学活」の授業です。
栄養士の先生と、担任の先生のコラボレーションの授業がどのようなものかを見てくださいということだったのですが・・・。

授業の内容は。。。

前段の説明として、栄養にはエネルギーの素になるものがあり、すぐエネルギーになる糖(疲れを取る働きがある)、少しでたくさんのエネルギーになる脂(ビタミンの吸収を助ける)があります・・・フムフム。。。


ここで、子供達にオレンジジュース&“透明な液体”を室温のまま「水」と称して飲ませます。

すると、子供は口々に・・・「甘めぇぇぇぇえ~!(>_<)」
実はこの“透明な液体”にはオレンジジュースに含まれるのと同じ量の砂糖が溶かしてあるのです。


次なるはポテトチップスを配り、10cm四方に切った油紙の上に乗せておきます。
すると、ジュースを飲んでいる間に紙にはじんわりとシミの跡が・・・。


先生は、エプロンのポケットからおもむろに角砂糖を14個と、油の入ったプラスチックの入れ物とを取り出して言うのです。

「オレンジジュース1本にはオレンジの味付けでわからなくなっているけれど、今飲んだ水と同じ割合のお砂糖が入っているの。それは、この角砂糖14個分。みかんの味と“カキーン”と冷やされていることでみんなは騙されているのよ!」

「ポテトチップス一袋分には、25gの脂が入っているの。それはこの入れ物に入っている分全部よ!」

1日に小学4年生が摂取するのに相当な砂糖は角砂糖6個分、脂は20gとのことです。
「先生2人は声を合わせて、ポテトチップス一袋を自分で全部食べてしまったら大変!!」と訴えます。
                  

栄養士の先生は、まとめに黒板に食物の絵を貼り、その下に含有量に相当する数の角砂糖と油の絵を貼っていきます。

こんな感じで・・・。
・ ジュース・コーラ ⇒ 角砂糖 14個
・ ポテトチップス  ⇒ 角砂糖 10個 油25g
・ ケーキ・板チョコ ⇒ 角砂糖  5個 油15g
                     などなど

先にも書きましたが、小学4年生ならば1日に必要な量は角砂糖6個、脂20g。
これを摂り過ぎると太りすぎ、イライラ、だるい・眠い、血液がドロドロ、虫歯になりますよ・・・云々。。。


たとえ絵であっても、それぞれの食べ物の横に含まれる数の角砂糖、油の量が添えてあると威力満点!!
私もカロリー数は気をつけていましたが、角砂糖に換算されると・・・"く(""0"")>


説明の後、「出された食べ物は残しちゃいけない」などど、殊勝にして大ボケな感想を述べる子もいて先生のご苦労が偲ばれましたが、私も含めて子供よりも後で参観していた恰幅のいいめの父兄のほうが凍り付いていました。。。

   カキーンと・・・( ̄□ ̄;)!!




※冒頭は長男の切り絵、中ほどは次男の絵です。
 バカ親なので以前お褒めいただいたのを思い出して、また掲載させていただきました。

まいまい姫

2007年04月20日 00時00分00秒 | 長岡
長岡駅前通りを信濃川方面に真っ直ぐ行くと・・・。(^^)/

カタツムリに腰掛け横笛を吹く少女。彼女こそ“まいまい姫”その人であります。
こうして見ると、どういうシチュエーションに彼女がいるのかわからないのでちょっとパンアウトします。
                  

いろいろ調べたのですが、“まいまい姫”が何ゆえこんなところにこんな姿でいらっしゃるのかはまったくわかりませんでした。
何故笛を構えているのかもねぇ、まさか笛吹童子というわけでもないだろうし・・・。
礒絵里子さんによると、フルーティストは美人が多いって言われてたので、それでかもしれません。
でも、昭和33年に出来た像だって言うし、そんなことはないんじゃないかと思ってみたり・・・。

この像の脚元にはこのような家来が!?
    

この像を見ると、TV版『星のカービィ』に出てきた“デデデ大王”の家来の“エスカルゴン”を思い出してしまう私の脳年齢は58歳!?
実年齢より15歳も年上! 
体年齢だって53歳からちょっと頑張って50歳に落ちたところなのに・・・。ショックですねぇ。

最近、音楽鑑賞にしても音を感じることを主眼としているため、右脳を使うばかりで左脳をつかってないからなぁ・・・。
その右脳もこんなイメージばかり浮かべていては、左脳で言葉に変換処理してもしれてるわなぁ、と呆れることしきりであります。

この像のある辺りは、道路の拡張工事等々で最近整備されて、そのときにこのようなナイトというか部下ができたようです。
で、どうしてカタツムリなのかは未だにまったくわかりませーん。


この像のある大手通のすぐ近くには、このような碑もあります。
      

これは“米百俵之碑”。
かの米百俵の故事にちなんで国漢学校跡地に設けられているものであります。まいまい姫のひとすじ東側(長岡駅方面)の信号の交差点のところなんですよね。
ロケーション的に隣り合ったものの落差感に、何とはなく奥ゆかしいものがあると思ったりしています。


★ドビュッシー:前奏曲集
                   (演奏:ホルヘ・ボレット)

1.デルフィの舞姫たち
2.ヴィーノの門
3.雪の上の足跡
4.パックの踊り
5.とだえたセレナード
6.野を渡る風
7.ヒースの茂る荒地
8.変わり者のラヴィーヌ
9.カノープ
10.西風の見たもの
11.亜麻色の髪の乙女
12.ミンストレル
13.沈める寺
14.水の精
15.月の光がふりそそぐテラス
16.花火
                  (1988年録音)

ドビュッシーの前奏曲集といえば古今東西のピアノのレパートリーの中でも重要なものであることはいうまでもなく、全集を含め何種類も持っているのですが、どれもこれもそれなりの雰囲気を持っていて興味深いものです。

反面、「これは!?」という演奏に出会うこともあまりないように思います。
ミケランジェリ盤にしても代表盤といわれている割には、硬いというかミケランジェリ自身が何かにがんじがらめにされているような気がして、“映像”の大名演で聴かせたような芳香が立ち上ることが少ないようにも思われるのです。

青柳いづみこさんが同じような感想を述べておられる記事を読んだことがあり、自分はこのような一流ピアニストとよく似た感覚を持っているのだろうかと、ちょっと自慢したくなったことを覚えています。
と、しゃーしゃーと書く私。(^^)v

というわけ(どういうわけかは訊かないこと)で、最も聴く機会が多いディスクは今回ナイショにして、最も心安らかに聴ける一枚をご紹介・・・ということでボレットです。

ところで「何故ドビュッシーの前奏曲集なのだ?」というご質問はないとは思いますが、それについては「曲名をよく見てください」とお答えしておきましょう。

かのリヒテルが「この曲集は『デルフィの舞姫』、これが弾ければ大丈夫」とまでのたまわっているようですね。
そのリヒテルは『亜麻色の髪の乙女』を「なんて蒼白く不健康・・・」と嫌悪して、録音していないとのこと。そういえば、昔NHKでYAMAHAのピアノに感激したリヒテルが製作者の方などを前にドビュッシーを演奏した際に、和室(!)で何曲か弾くたびに袖に戻って細切れに弾いていましたが、『亜麻色~』は飛ばしてましたもんね・・・。

そしてボレットの演奏を聴くと、確かに少々不健康そうな女の子像が脳裏に浮かぶように思われます。
『沈める寺』なども何が不足というわけではないのですが、どことなく神妙・・・よく言えば静謐で、先ほども述べたように心安らかに聴けるのですけど・・・。
もちろんボレットのこと、響きも精妙極まりないし文句なしの演奏なんですけどね。
この曲集全体、静謐な音の集まりといったイメージの曲(西風の見たものは別ですが)で、ドビュッシーの言によると、あまり人がいっぱいいる大ホールで演奏されることを想定されていないということなので、ここでのボレットの解釈はきっと当を得たものなんでしょう。

ドビュッシーは曲順についても熟慮を重ねて編んでいますが、この順に演奏されなければとか、全曲を通して演奏されねばならないとは考えていなかったようで、たっぷりとした解釈(必ずしもいつも響や演奏自体がたっぷりしているわけではありません)を一枚のディスクに放り込むのに、こういった選集にするというアイデアもなかなか秀逸なものだと思います。

しかし、ボレットの演奏はリスト、シューマン、フランクなどとシューベルトのタッチの違いを際立たせて素晴らしいものであることはわかっているのですが、ここでのドビュッシーも他の誰とも違いながらドビュッシーとしてまったく違和感のない世界を作り出していて見事であります。

中音から高音にかけての煌めきかた、明滅の仕方といったほうがピンと来るかもしれませんが、これは他の誰の演奏からも聴けないものであり貴重な記録であると思います。

使用されているピアノはボールドウィンのそれであり、リストで使用していたベヒシュタインと違います。
DVDではスタインウェイを使っているものもあり、当然コンサートに行けばスタインウェイもベーゼンドルファーもあったことでしょうから、録音に当たって敢えてボールドウィンを選択したのでしょう。

こんなエピソードにおいて、さりげないこだわりを感じさせるところがグランド・マナーを纏った最後の巨匠といわれているこの方に相応しい気がしてうれしい気持ちにさせられますね。


最後に、私は森鷗外のある作品の本を持っています。その本とは・・・マイ“舞姫”。。。

お後がよろしいようで・・・。(^^)v

長岡の春 ♪~

2007年04月09日 01時22分56秒 | 長岡
《1番》
  菜のはなぁ~

   青い花 県議選
     

  つくし萌ゆ原っぱ 長岡の あぁ 長岡のぉ はぁぁるぅ~
     

  桜は~2分咲きでいまいちだけどぉ~ たまには満開でうれしいじゃあないかぁ~
     

  あのセンセイは サクラ咲く? サ~クラぁ散ぃるぅ~?


《2番》
  水仙~~~
     

  青空 釣り日和
     

  アメフラシ、長男つかまえる あぁ 長岡のぉ はぁぁるう~
     

  今年はぁおかしくて カレイが釣れない・・・
     

  アイナメをブラクリで、狙うっきゃなぁいぃよぉ~
     

  あの留守宅へ 帰ろかな 帰ろかなぁ~



《3番》
  フレイレ 新譜は ベートーヴェン
     

  慈しむ解釈 感激の あぁ 長岡のぉ~夜~


  次男は親父似で とってもひょうきん~
     

  ガーターでぇ反省の 腕立て伏せか~

  
  あの留守宅へ 帰ろかな 帰ろぉかぁな~



《解説》
今しがた留守宅から帰って来ました。新幹線で着想しこの2日間を思い出してたった今仕上げました。
帰った理由の大きな一つは県議選投票だったのですが、そのほかにも天気に恵まれ家族でいろいろできて楽しい休みになりました。
疲れたけど、リフレッシュ効果は満点だったかな。

桜を楽しみに帰ったのですが、まだ殆ど咲いていなくて意外でしたね。やっぱり太平洋側とは開花時期に大きな差があるようですね。

上記写真で釣りをしているのが長男で、ボウリングでコケているのは次男です。
ちなみに、アイナメ3匹釣れた写真の下に小さなイカが写っていますが、長女が網ですくったものです。
久しぶりにバカ親振りを発揮してみました。(^^)v

それにしても、この歌詞泣けるねぃっ!!  よろしければ、ご唱和ください!(^^)/

なんてね・・・。

禁断の詩

2007年03月12日 00時00分10秒 | 長岡
長岡に戻ってきています。写真は信濃川にかかる長生橋です。
やはり今年も冬は来ていたということを、感じ取っていただけますでしょうか?

さてさて、先の記事で“真実(エロス)・セオリスト”を標榜したからには、一回ぐらい真実の追究をした記録を残さねばと思いこの記事をアップします。
良寛さんの記事をもってしても、一部エロから離れられないでいるようにもみえますので、今回はゆめゆめそのようなことがないように、注意して記事を掲載したいと思います。(^^)/


同僚と昼食を共にとっているとき何故か最近話題になることは、空腹時血糖値・γーGTP・白血球数などの数値・・・。
仲間たちも私同様に真実を追究する、またはハードボイルドに仕事をこなす中で、数字に裏付けられた話題を緻密に積み上げるというのは、発言に対して責任をとる姿勢を感じさせるまことに誠実な態度と申せましょう。

しかし、これらの不健康自慢を聞かせていただいていると、何かしら自らの会社への奉職というか献身の副作用としてわが身にこのような災いが降りかかっているのであるという語調にきこえてしまうのは気のせいでしょうか?
それほどに会社の要請が過酷であるのだ・・・と共通認識を抱いて、それを前提にして話が組みあがっていっているような・・・。

会社の要請が、ある意味で過酷であるのはよくよく分かります。心から共感します。
でもね、みなさんの体の指標が悪い真の原因は・・・

   不摂生

会社の要請の如何を問わず、これしかないのが真実だということを、私は知っています。


禁断というのは、真実(エロス)を追求するときには避けて通れないもの。かくのごとく雪に閉ざされた中にあればこそ、このような思索に耽ってしまう私がいるのでありました・・・。


法律について述べます。
法律はしばしば指摘されるとおり、正義の味方でも真実を暴く理論でもなんでもないということを学びました。
要するに、法律は知ってる人の味方であると・・・。

ここでは触れませんが、確定申告をしたときの経験に照らせば税務も然り。
納税が国民の義務であるから、全てを白日の下に晒して一円でも多くの税金を払うことに満足感を覚えるという態度で臨まない方にとってみれば、どのように申告するかという点について、説明の冊子を見るだけでは見解の相違が発生する余地は充分にある。


さて、誰も見ていない真実の瞬間に起こったことがらについて、十全に審理を尽くすとはいえ同じ(はずの)事象を検察は有罪だといい、弁護側は無罪あるいはもっと軽い量刑であると主張する・・・。

たとえ起こった事象(構成要件)には疑義がなくても、悪くないことことをした(正当防衛のような違法性阻却)のではないか、精神的にどうかしていた(心神耗弱のような責任阻却)のではないか、などというゴールに至るまでのハードルがあったりするもんだから、余計に思い通りの結論にするための権謀術数が横行することになる・・・。

当然に法律の条文は、今、その事案を判断する基準としては絶対であります。
だとすれば、裁判官が“それ”を適用したうえで自らにとって合理的な結論を導くためにするためにどうするか?
そのためには、多かれ少なかれ“事実を”それにあうように合わせてしまう工程を彼の頭の中でする、しかありませんよね。

制度の運用上はまことに適当なことと思うけれど、だいたい不服がある人がいて控訴するということが想定されていること自体、誰しもが納得する完全な理論でないことを証明しているようなもんじゃないですか?


なぜこんな話をするかというと、裁判員制度が話題になっていますよね。

私もそうですが“こんなことやりたくない、面倒に巻き込まれたくない”と言われるかたが大勢を占める中、「やりたい!」という人にごくまれにお会いすることがあります。
そして、そのような方ってえてして“王様ゲームを好む”という事実を私はたゆまぬ真実の追究の結果、知っているのです。

してみると、もし実現した場合にその運用を誤ると、この制度は大変な危険を孕んでいるように思われます。


かねて、我が家のテレビ君が天寿を全うしようとしているという記事を書きましたが、この度後継のプラズマテレビを導入しました。


前のテレビ君はS社のもので長野オリンピックに際して購入したもの・・・。当時はハイビジョンが写るということで“ふはははは・・・∞”と思っておりました。
そして不調を訴えるまで、私の「トリニトロン管は天下無敵だぁ~」という思いをただの一度も損ねられた記憶がないという稀に見るお利口なテレビだったのであります。
ちなみに今、留守宅で打ち込んでいるデスクトップのVAIOのディスプレイもトリニトロン管であり、そう聞いただけで私の眼には最高の画質であり解像度に思えてしまうのであります。

後継のこのテレビはH社の“うー”と呼ばれる機種です。
当初は候補にも挙げておりませんでしたが、さんざん液晶テレビでどれにするか悩んだうえで販売店店頭に行って、凄くさばけた店員さんのひとことによってあっという間に液晶テレビの選択肢が消え(厳密に言えばサザエさんのスポンサーのT社液晶テレビは残った)、プラズマテレビを擁するH社・Pa社・Pi社に絞られ、結局37型というサイズでの攻防によってこのテレビ君が我が家の“主役”の座を射止めたのです。

“地デジはとてつもなくきれいだぞ!”というわけで、またまた“ふはははは・・・・・∞∞”という気分でありますが、ホントに家に置いたときの坐りといい画面(販売店だとプラズマは液晶に比して暗いように思えるけど、家に帰るとプラズマで充分明るい)の鮮やかさといい良い買い物をしたと思っております。

決め手は、画面の強度でした。

小さな子供がいて、これまでトリニトロン管の画面には絶えず子供の指紋が付いており・・・、あるいは家の中でヘタするとボール遊びなどして画面に何かがぶつかる恐れがある、ひどいときには不安定極まりないテレビの上にジュースが置いてあったりする・・・。

液晶画面はノートPCの画面と大差ないわけで、衝撃に弱いし、ましてや飲み物などがかかったらどうなることやらということはご想像いただけるかと思いますが、これがプラズマテレビであれば前にブラウン管テレビと同様のガラスじゃないにせよ硬質のパネルが張ってあるため、ずいぶん安心感があると思ったのです。
現に、今日も子供の紙飛行機が何回もテレビ君に衝突しています・・・。
“大正解”だったと思っています。
我が家の過酷な使用状況に耐え、前任者のように永く家族に楽しみを提供してくれることを心から願ってやみません。

先ほど“テレビが我が家の主役を射止めた”といいましたが、ついている限りは親が何を言っても子供は振り向かず、テレビの言うことを聞いていることが多いという意味では決して誇張でも何でもありません。

このようなことは、“サラリーマン川柳”などでも詠われているとおりで、巷には私同様“真実(エロス)の追究”に余念がない皆さんがいっぱいいらっしゃることを感じます。
先般有楽町を訪ねた折に、主催している生命保険会社のロビーに投票用紙があったので、最優秀を決めるための一票を投じてきました。

著作権の問題で、句をご紹介することはマズイと思いますので全文は掲載できませんが“武勇伝”について詠んだ句を選びました。
流行のセリフを織り込みつつ、まことにうまいコトいったもんだと感服しました。

気になったのは、ロビーにサラセンの大賞候補100篇の色紙が掲げてあったのですが、そのうち1篇の作者よりエントリー辞退の申し出があったということで色紙が1枚空席になっていたこと・・・。

考えてみれば、これらの多くが恐ろしく権威ある“禁断の詩”ですものね!!

つきて見よ・・・

2007年03月11日 00時26分38秒 | 長岡
JR長岡駅にある良寛像です。
この前で私の次男がポケモンのぬいぐるみを持って、同じ格好をして写っている写真がありますが、それはもちろんナイショです。

だいたい次男だけでなく、長女にも米沢の上杉鷹山像の前で扇子を城下に突き出しているところを“リンゴ飴”を持ってまねして一緒に写っている写真とか、長男にもそんなのがあったっけなぁ~・・・。

そういうのを喜んで写真に撮る親がいるからだ!

というご指摘は、思っても言わないでくださいね。

良寛禅師はもちろん名僧として名高いわけですが、どうも長岡に来るまでは小林一茶のイメージとダブるところがあってごっちゃになっちゃってたようなんですね。
手毬を子供たちとついて戯れているのと、痩せガエルの話なんかがこう・・・ってな感じで。
いずれにせよ“良寛さん”とは、朗らかでのほほんとして・・・言ってしまえば昼行灯みたいな生活をしてた人というイメージだったのです。

大変な誤解ですよねぇ~。そうじゃなかったようですねぇ~・・・。

禅の修業を志して諸国を修行して歩いたけれど、堕落しきった僧にしか巡り会えないことに失望して出雲崎のほうに戻ってきたんですってね。

良寛禅師の志・理想の高さはグンバツだったのでしょう。
でも所詮ひとりはひとりで周りを懐柔できるわけでもないことを悟って、きっと一旦は失意の底に沈んだはず。。。

私が良寛さんを見て学ばなければならないことは、その失意に沈んだ後の動向にこそあると思っています。
きっと良寛さんは子供たちと遊んでいるときにも、他愛ないであろう子供たちの話から親のようす、家のようす、村のようすなどを見聞きし分かり、知識の限りを尽くして自分が目立つことなく(自分を勘定にいれずに)人々の暮らしの安寧を思っていたに違いないと思うのです。
ちょっと宮沢賢治を意識して書いてしまいましたが・・・。
もちろんそのような想いは、禅僧として厳しい戒律に従った仏様への礼拝を通しても自身の中で工まず育まれ続けていたはずです。
だって、それこそが坊さんの本職なんでしょうから・・・。

要するに、誰が見ているとか見ていないということにかかわらず、自分自身の修養を怠らないでいるという姿勢をもち続けたことが凄いと思うのです。

見習えるかなぁ~・・・。難しいなぁ~・・・。
だいたいブログでこういう記事を垂れ流していること自体が、そもそも反しているような気もするんですけどね。
でも当時の良寛さんがブログ書いてたとしたら、見たかったですよね。
読めない文語調の文字で、縦書きだったりして。。。

ところでご承知の方も多いと思いますが、良寛禅師が亡くなる5年ぐらい前(70歳ぐらいのとき)に、貞心尼という30歳ぐらいの勝気な尼僧とのふれあいがありますよね。
いろんな人が小説の題材としてもとりあげていらっしゃるようです。

「蓮の露」という貞心尼が記した“相聞歌集”があるのですが、ここに収められたことがらや歌の意味するであろうことから、いろいろなことを読み取られる方がいるようなのです。

まず“相聞歌”とは“歌を通して心を交し合うこと”であるらしいので、必要条件は心を交し合うこと“だけ”ですよね。
“相聞歌”って書いた時点で「ラブラブ決まり!」ってわけじゃない。
その心の交し合いの度合いが、専門に研究された方々をしていろいろな段階に意見が分かれているということです。

第一に最も普及しているであろうイメージは、70歳の年老いた坊さんと30歳のバツイチ(?)の尼さんの純粋にしてほほえましいプラトニック・ラブと解釈する例。
人によっては行くところまで行ったと断言しちゃってる人もいるみたいですが・・・。
さすがの私も当初からそりゃないと思ってますんですがねぇ~。

第二に良寛禅師はあくまでも禅の道の師であり、貞心尼が悟りを得られず心揺れるところを見事にコーチングして悟りまで引き上げたという解釈。

ふむふむ・・・。

第三は「蓮の露」を著した貞心尼の片思い・・・。
そりゃ、本人の自伝なんですから書くのに目的はあるのでしょう。
昨今だって女優のIさんとかが巷を騒がせてるのだってそんな類かもしれません。
出版したかどうか知りませんが、貞心尼は終生この書物を大事に持っていたということですから、思い入れは相当なもの。
我々が現代で言う「愛情」を持っていたのは紛れもない事実だと思います。
それが、仏の道に仕えるものとしての矩を越えているかはどうかわかりませんが・・・。

さて私は貞心尼側の視点から見た場合に、第三の説に対して、
“越えてたら書かないよね・・・書いちゃったら内緒にしておくよね・・・だってお坊さんなんだもん。”
という立場を採りたいと思っておりまして、当然に禅僧としての自分自身をわきまえた表現をしていると考えています。

また良寛禅師の立場からは第二の説を支持したいと思ってます。

お間違いなく。
“支持したい”のであって事実がそうだったはずだと主張するつもりはありません。
だって、わからないんだもん。(^^)/    かわいくないですね。

禅宗の「悟り」を示唆する良寛の貞心尼に対する慈愛(これも愛ですよね)は、遍く人に対して良寛禅師が持とうと思っていたものであるはずです。
それが特にこれほどの対応(指導?)をしてあげたということは、彼にとって貞心尼とは晩年に出会った極めて感性の高い同門の後輩であり、自身の経験から得た心のありようをただ一人まともに受け継ぎうる素質を持った人間であったということなんでしょう。
仮に男性であったとしても、良寛禅師は相手を成長の度合いをみながら同じように振舞ったに相違ないと思います。

それをホ●とかいう人はよもやおりますまい!
っていう間柄だと思います。あくまでも良寛禅師から見た場合ですが・・・。

いずれにしても、貞心尼は良寛がこの人と見込んだ禅宗の教えに対するスペックの高い人だったことに間違いなく、禅宗の悟りにいたる基本ソフトをインストールしてもフリーズしたりバグを起さないだろうということで、当時の最高度のオペレーションソフトを4年間に渡ってインストールしてあげたという事実はあるんだと思います。
あえて味気なぁ~く書きましたけど。
ここでも濃密にインストールしたなんて書いちゃうと、誤解する人が出てくるかもしれないし。

どうしても「男と女」っていうとゴシップ記事みたいになっちゃいますもんね。
現代でも恐ろしく歳の離れたカップルが現れるし、おこさんなんかできちゃうと「愛はバイアグラを超えた」なんてスポーツ新聞に活字が躍ったりしますからねぇ。

でも、本当はどうだったんでしょうねぇ・・・。あのふたり。。。

というわけで良寛禅師の貴い教えや、心の持ちようを今の我々に伝えてくれた貞心尼にも最大級の感謝をするものであります。
いまさらこんな風に書いたところで怒られるかなぁ?

ここまでは前段(!)で、タイトルの「つきて見よ・・・」とは「蓮の露」に表れる良寛禅師の最初の歌の冒頭です。

良寛禅師の名声を伝え聞き、ぜひ教えを乞いたいと柏崎市から良寛のいる出雲崎の草庵へ、良寛が好きだというきれいな自作の手毬と「歌」を詠んだ手紙とを携えて訪問した貞心尼。
そのとき良寛は不在で手紙と毬を置いて一旦は辞去するのですが、それに応えて良寛禅師が詠んで返した歌です。

要は入門前のお願いの歌と、「いーよ。やってみなさい」という返しの歌ってワケですね。

いずれもご紹介します。

《貞心尼》
  師常に手毬をもて遊び玉ふときゝて、

   これぞこの ほとけのみちに あそびつゝ
           つくやつきせぬ みのりなるらむ
《良寛》
  御かへし

   つきて見よ ひふみよいむなや こゝのとを
           とをとをさめて 又始まるを


私は歌の心得がないので、意訳した意味がぶっ飛んでたらごめんなさいなのですが・・・。
要するに最初の歌では貞心尼が、

良寛禅師さまは手毬を撞いて単に無邪気に遊んでいるように振舞っておいでですけど、実は仏様の道に就いて尽きない仏の教えの実りをその中で実践されているのではないでしょうか?私に教えてくださいな。

とオヤジギャグを交え(遊び給ふ→玉ふ、(毬を)撞く→(仏道に)就く→尽くなど)入門をお願いしているわけですね。

そしたら「こいつなかなか頭よさそうだし、ヤル気も見込みもありそうだ」と思った良寛禅師が、

(仏の道に)就いて(私を通していろいろな事柄を)見なさい。
(仏道とは、手毬を撞くように)一二三四五六七八九十と就いて勉強して、よし修めたと思ってもそれはまだ途上であって、また新たに一から始めるような繰り返しですよ。

と、一緒にやろまいかと入門を許可しているってことなんですね。

字面だけ追うと、単に理屈っぽい男女による、めっぽう手の込んだぜんぜん色っぽくない手紙のやりとりと思えなくもないんですけどねぇ・・・。
少なくとも今風ではないというか、現代でやろうとしたらコケますね・・・多分。
もちろん私はこういうの好きなんですけど、あんまりスキって言うことを公言すると嫌われそうな気もする。

だいたい女性がオヤジギャグを遣ってどうする!
オヤジギャグが語弊があるならダジャレだと言われますよ!
こういうの“掛詞”っていうんでしょ!?
古い人がやると趣があるといわれて、私がやると・・・悲しいから言わないでおきます。
はい、人徳の問題です。

禅宗の仏教って毎日の一瞬一瞬が修行で明け暮れている、何しているのも修行という考え方があるようなんですけど、その中に身をおいてみるとやっぱり大変なんでしょうかねぇ?
小さいときから一日少しずつでいいから勉強を、ピアノの練習をなどと、修行じゃないときのことを楽しみにしながら歯を食いしばってきた(つもりの)私なんかには、ちょいと逃げ場がなくツラいいい方に過ぎると思うのですが・・・。

でもこれを「一瞬一瞬を悔いなく生きよう」なんて言い換えてしまうと、却ってメッチャあやふやになってしまうような気がします。


いずれにしてもここまでの私の4000字余りの記載内容にかかわらず、先の良寛禅師の歌には、やさしさ、希望、期待、厳しさ・・・
すべての人の心の中の全ての感情が濃縮ミックスされているようで、私の心を捕らえて離さないものがあります。

その心の濃縮ミックスを歌で表すと・・・

 ♪~ あ~れ~もぉ愛   これも愛   たぶん愛   きっと愛

って感じになるのでしょうか?(^^)v

ちなみに第1案のカゲキ説は、もしも貞心尼が網タイツやバニールックで良寛禅師に逢いに行っていたという事実があるのなら採り上げる可能性を残しておきましょう。
私はバドガールのほうがスキですけどね。


余白には、良寛像と同じくJR長岡駅の構内にある名物が描かれた凧をご紹介します。
(すでに余白って感じじゃないですよね・・・)


中央に有名な信濃川の河川敷における大花火。フェニックスって最後に打ち上げられるんですけど、それはそれは凄いですよ。
私は自宅の脇の国道17号線の陸橋から全景を撮影したビデオを持ってますけどね。
初日に目の前で見たときは、スケールがでか過ぎて一部しか見れませんでした。
少し離れた高台にいると全景が見られます。い~でしょ~。へっ・へっ・へっ。

でも、それまでの花火を撮り過ぎて途中で切れちゃってまして、家族からとんでもなく誹謗中傷を受けておりますが・・・。
折角ずっと一生懸命撮ったのに、そんなん言わなくても・・・。

後は地震で大きな被害を蒙った山古志(今は長岡市に併合されています)などで開催されている「牛の角突き」と、同じく山古志の名物である観賞用錦鯉が描かれています。
山古志方面には蓬平温泉という有名な温泉があり、昨年の春に行きました。
3軒あった有名なホテルの一棟は改修して温泉も含めて最新の設備を整えておりましたが、一棟は何とか営業を続けている(中は入ってないのでわからない)状態で、もう一棟はまだ立ち直っていませんでした。
山古志中学校は先ごろ新しく建て替えられましたが、それまでは私の娘の通う中学校に間借りしていたような状況でした。

被災者の方の仮設住宅もまだあるし、まだ災害から完全に立ち直っているわけではありません。
そんな状況って、他のゴシップ記事のように流行り廃りがあっていいものじゃないと思うのですが、メディアは旬(変化があったもの)しか放映しないという恨みが残りますね。

まぁ、これは長岡に限らずどこの地域にも共通したことなんだと思いますが・・・。

安倍総理になって小泉総理のときと比べて極端に総理の露出が減ったように思うのも、そんな思いを強くさせる要因となっています。
支持率下がってますもんねぇ。

東国原知事のように、率先して説明だのなんだのをする必要があるんじゃないですかね?
彼のようにビギナーというエクスキューズが効かないのはよくわかりますけど。

東国原知事も元親分のビートたけしさんにお願いして、毎週5分でも県政がどうなったのかを知事の口から日本全国にアピールするなどしないと、すぐに忘れられちゃいますよ。きっと。
当選したのがアンビリーバボーなんだから番組でずっと「まだ持ちこたえている、アンビリーバボー」なんてやり続けて3年もしたら、宮崎が全国一すばらしい県になってたりして・・・。

そうしたら今の政治屋さんは顔色がなくなって痛快になるんじゃないでしょうかねぇ?

これは長岡市役所の支所のガラスケースにあった米百票大黒です。


売っていたらほしいんですけどねぇ。
見たことないんですね。雷様よりはずっと偉そうですね。太鼓ならぬ米俵が幾重にも周りを取り囲んでいて・・・。

こんなお土産あったら欲しくないですか?(^^)v

長岡戦災資料館にて(その2)

2007年02月12日 00時00分01秒 | 長岡
息子二人との長岡ちゃりんこ道中記、最終記事です。

長岡が空襲されて焦土と化してしまった様子を再現した模型の話は先の記事で書きました。
その奥に横たわって陳列されているのがこの“焼夷弾の模型”です。
この中に38もの小さい爆弾(伝単といわれるらしい)を搭載して、これがばら撒かれるしくみになっているということのようです。

ホンモノはこれです。個人の方から寄贈されたもののようです。


こんなのが上からいくつも降り注いだとしたら・・・。言葉になりません。

防空壕が危ないということで家族・友達が助け合って移動していたとき、不運にも子供さんの頬をこの飛来物が直撃して“痛い”という一言も発することなく亡くなってしまったおかあさんの話が、書き置かれています。
その後立ち尽くした様子は想像できるのですが、もはや画面が映らないテレビ・音の出ないラジオのようなご心中ではなかったか・・・いやそんなものじゃすまないお母さんにとっての時間の流れが会ったのだと思います。

平易な文章だったので、子供に読み聞かせました。
涙目になって「ここにいるとそんなことにまたなるのか?」という次男に、「そういうことにならないようにみんな一生懸命頑張っている」と伝えました。

千人指、防火服、千羽鶴、寄せ書きの日章旗など展示されているさまざまなものを「なんだこりゃ?」と尋ねてくる息子に、できるだけ優しく答えてやったつもりです。

資料館入り口スペースの脇に置かれていた母子像・・・。


この姿はキリスト教でもおなじみのもののはず。
目前の焼夷弾を撒いていった兵士達は、その瞬間この全人類共通の姿を思い浮かべることはなかったのでしょう。
たとえ家族の写真をそのコクピットに搭載していたとしても・・・。

たぶん普通の人であるそれらパイロットに、疑問なく悪魔のような所業をさせうる戦争というシチュエーションは、やはり決して繰り返されてはならないものだと強く思いました。

この資料館は、本土にあって出征した兵士の無事を祈り、空襲によって狼狽した一般市民の目線で展示がなされているのが特徴であると思います。
そしてそれは得がたい着眼点である・・・そういった資料館ってありそうでないのです。

出征した人を讃えたり、ねぎらったり、戦死した方を弔ったり、その生前の思いを浮き彫りにしたりという施設はあります。
原爆記念館のようにそのとき惨事に巻き込まれた方がどうであったかという施設もあります。

知覧の特攻隊の記念館に行ったとき、青年(少年?)の張り裂けんばかりの胸のうちを綴った文章や、散っていった彼らの写真・遺品を目にしました。
他の施設では寄せ書き日章旗に血糊が撞いているものまで展示されてて、強烈な印象を受けた覚えがあります。
もちろん、長崎にいたときに浦上の原爆博物館には赴きました。片足鳥居など観光マップにも名を連ねた原爆被害の名残ですよね。

でも長岡戦争資料館には、物品として戦争を美化したり、徒に武勇を称揚したり、逆に悲嘆にくれさせるようなものは余りありません。
もちろん伝単をばら撒いた使用済みの爆弾とか、焦土と化した土地の模型とかありますが、あくまでも事実として淡々と展示されているのです。
そんなスペースにふと先に触れた空襲時の母親の手記が置いてあるのが、最もショッキングな展示といえるのでしょうか?

静かな展示物のひとつひとつが深く、戦場に赴くことになった方ではなく、当時の長岡市に住んでいた人々の想いを偲ばせて、私の心に語りかけてくるようでした。


《閑話休題》
大学生の頃ドイツ軍のUボートやらなんやらミリタリー関係の流行があったように記憶しています。
仲間内でも、ミリタリールックやら軍人用のベレー帽やらに造詣の深い、否、ファッションとして纏っているだけの奴らがいて、戦いそのものまでもファッションの道具として語っていたように思われます。

エンリケ・グラナドスが“ゴィエスカス”のオペラを演奏するための楽旅の船旅の帰途、ドイツの攻撃により夫人ともども海の藻屑と消えたことを想起するまでもなく、今にして思えば決してファッションで語られるようなものであってはならなかったのかもしれません。

大和・武蔵・零戦・・・私も小さい頃ある種の憧れを持っていたのですが、それらの用途に関してはあまり意を用いておりませんでした。
玉砕というのは人が死ぬんだという意識が極めて希薄だったのです。
これが私だけの懸念ならいいのですが・・・。
今なら人の親になったことや身内を亡くすことを経験して、人が死ぬということがどういうことか体感できていますから。

知識は知識、ファッションはファッションで良いのでしょうが、後戻りが出来なくなってから、戦争の無残さに気づいても手遅れになるということだけは頭に入れておかねばなりません。

戦争の場ではいいも悪いも、正義も悪もない・・・。
ただ殺戮するという目的だけがある・・・そしてそれを実行する兵士達はそれが何のために必要なことであるかを知らないし、決して知らされない。
むしろ知る必要もないとされている。。。

そういうものだと思います。
そんなことができるのは、数知れぬ動物のうちでも人間という種族しかいないのではないでしょうか。
戦争は犬畜生にももとる行為ではないか・・・?
首謀者とそれに付き合わされる人たちの間にどのような関係が生じると、人間はそんなモードになってしまうのか?
過去の事例を紐解いて、よく研究をしないといけないのだと思います。


さてさて子供たちは帰った後もいつもと変わらない様子で騒いでいますが、食事のときもちゃりんこで出かけた先の事柄にふれ「戦争NO」の意思表示をしてくれています。
当たり前のことかもしれませんが、一旦頭の中で「どういうことが起こるのか?」をイメージした上での発言だけに連れて行った親としては目を細めたくなるのですけれど・・・。

本当は子供と一緒に行ったことで自分の親としての感性が少し敏感になっていて、独りで行ったら見過ごしてしまいそうなことに気づくことが出来たり、子供が尋ねてくれたことに答えること腑にで落ちたりしたことが多いというべきなのかもしれません。
むしろ、私が子供達に感謝しなくてはいけないんですよね。



長岡戦争資料館は、駅前の大通り(大手通)の駅から見て2つ目の信号を越えてすぐ左側にあります。駅から徒歩で3分もかかるかという距離であること、展示物も一渡り見るだけであればそれほど多くの時間を要しないだろうことから、ぜひとも長岡に来られることがあれば、また新幹線を何分も待つようなお時間が出来たならご覧になってはいかがでしょうか?

長岡戦災資料館にて(その1)

2007年02月11日 23時09分39秒 | 長岡
息子2人との長岡市内ちゃりんこ道中の続きです。
ここは正月に三島徳次郎を記事にした際に“たまたま長岡人”さんにご紹介いただいた施設です。
“たまたま長岡人”さんありがとうございました。

考えてみれば私がいま長岡市民であるのは、たまたま私が今の会社に入って、たまたまそれが転勤族で、たまたまいろんな事情があって・・・<中略>・・・たまたま長岡に配属されて、たまたま転勤になったけど東京へは単身赴任で来ることになったからであります。

私など“たまたまたまたまたまたまたまたまたまたま・・長岡人”。

張り合ってどうするという気もしますが。。。
それほどまだ長岡のことを承知していないので、たまたまの数だけ謙虚にならなきゃという意志の顕れ・・・には見えませんね。
失礼しました!(^^)/

あの記事を特集したのも、たまたま娘が北越戦争前後のリーダーの功罪を云々する授業を受けることになり、ヘルプを求めてきたというのが発端です。

そういう課題のクラスを持ったという記録が、長岡市立南中学校のHPにきちんと整理されていて、やはり私と同じように北越戦争における河井継之助・小林虎三郎に対するアンチテーゼ、むしろジンテーゼとして三島の存在に気づかせようという学校側の見識が伺えて興味深かったですね。


いつもマクラが長くなっちゃうんですよね・・・。マクラだけじゃないけど。。。

さてさて山本五十六記念館では戦争に行くと本当に飛行機に乗っているところを撃ち落されることがある・・・「戦争とはそういうものだ」と苦し紛れに言った父親の言葉からちょっと神妙になっていた息子二人ですが、セブンイレブンでウルトラマンのオモチャつきのお菓子(お菓子つきのおもちゃ?)をゲットするや、傍若無人なワンパク兄弟に戻りました。

よっしゃ、読みどおり・・・。

先のテンションでは、もう一箇所戦争がらみの資料館へ行くのはどうかと思ったのですがこれなら大丈夫。
自転車で行く道も、子供が必死で漕がないとついてこれないスピードで子供のテンションアップに努めました。

もちろん交通安全には気をつけましたが・・・、子供にあんな運転は危ないと怒られた。。。

怒るぐらいなら大丈夫(勝手なオトナの言い分!)と、悲惨な掲示があるかもしれない資料館のある建物の入口から通路をすすみます。
このフロアは他の関係のブースもあって、一番奥のスペースが戦争資料館なのです。

その最前列に透明なケースがあって・・・


なんだかわかりますか?

昭和20年8月1日に長岡市が空襲を受けた直後の、駅前側から見た荒廃のようすです!

もちろん当初は焼けた残骸もあったのでしょうが、それを取り除いたら不燃材でできているごくごく一部の建物が形をとどめているに過ぎません・・・。
子供以上に私が言葉を失いました。。。

非武装の国民(戦闘員でない人民)の居住地域を“いかに戦争を早く終結させるため”とはいっても、連合国軍にはここまで徹底的に破壊しなければいけない必然性があったのでしょうか?
このとき被害にあったのは長岡ばかりではなく富山もそうだったようだし、この後にも余った爆弾をどこかにばら撒いていったような記録を(ネットで)目にしましたけど・・・。

さらに5日後に広島、8日後には私も4年間住んで浦上の惨状をよく知っている長崎に原爆が投下されている!!

やりすぎじゃないんでしょうか!?
当時の状況を詳らかに知らないのでこれ以上言えませんが・・・。
我が国は、現在これほどに親密にしている米英にここまでさせるほど歯向かっていたんだと考えるべきなんでしょうか?

未確認情報ですが、会戦当時の我が国の全世界におけるGNPは1%程度と聞いたことがあります。それで何を思ったか戦争をしかける方も悪いのはわかりますが、ここまでコテンパンにやらなくても・・・。

逆に我が国の戦争指導者の判断にも憤りを感じます。
さすがに原爆のときは大本営をして非人道的であると抗議したようですが・・・この8月1日時点でギブアップじゃないんですか?
これ以前にも本土空襲はあったと思いますので、ここから先の被害は食い止めようと思えば何とかなったのでは・・・。
この後の原爆被害など、これを見ると人災であるような気がしてしかたありません。
(もちろん爆弾を落とされたわけですから人災だけど、我が国の出方で防げたんじゃないかという意味でですよ! 念のため。)

あらためて大本営発表の罪深さを実感しました。

そういえば父から「一億総玉砕」という話を聞いたことがあって「そうならずによかった」と紅顔のころホッとしたのを思い出しましたが、当時の指導者は国民を何と思っていたんでしょうか?
一面では、そういう考えが当時の“是”であり“正義”であったのかもしれませんけど・・・。

それ以上に昨日今日の世界情勢においての、イラク・アフガンへの米国の対応状況がダブりました。
こんな焦土が今もって作られてしまったのかと。。。

またまた余談ですが、中東とて宗教を拠り所とする絆で結ばれた人民の数は、当時の日本よりははるかに多いですよね。フセインも受け入れられているかどうか別にして、アラーの神に順ずるようなことを言っていたわけだし・・・。
あらためて、我が国はたとえ独・伊と連合したとしてどこに勝算を見出して開戦に臨んだんでしょうか?

また世界情勢に戻って、あの北朝鮮はなんらなの武力行使したら、めちゃめちゃ虐げられているとされる人民がいる本土はこんな風にされちゃうのでしょうか?
何かむしろ、我が国がまっ先に「やっちまえ!」組に加担しちゃうような気がしてたまらないのですが・・・。

閑話休題。
さまざまな官庁・企業が改竄だなんだがあったと「悔い改めます」発言が出ていますが、これこそ今もって大本営発表を続けていることが多いことの証ではないでしょうか?

そのなかでも原発推進は必要なことだと思うけど、こんなことしてたら余計に信用できなくなっちゃいますよね。

必要はわかっていて技術的に大丈夫だろうけど、オペレーションする人が信じられないから進めてほしくないなんて悲しいですよね。
我々の世代以上であればチェルノブイリの事故を知っているだけに、万一のときはあれよりも数段悲惨な被害が想定されるんですからそう思う人がいても仕方ないでしょう。

ところで長岡市内の我が留守宅は、刈羽原発からの距離が比較的近いということで“ご心配おかけします料”みたいなのを振り込んでいただいているようですが、電力会社さん、お願いしますよ。信用してますからね!
だってエネルギー事情を考えたら、保障の有無にかかわらずそういわざるを得ないですもんねぇ。


さて、以前の記事に山本長官の故郷であることと空襲の候補地になったことに因果関係があるのかに言及しましたが、実は真相はまだ確認できていません。
“事実なら山本長官は無念”みたいにも書きましたが、この焦土を見たとき「誰がどうこうではなく結果として我が国全体がそうさせてしまったというよりない」のではないかと思いました。
誤った判断をしたとされる指導者とて、当時の我が国のワン・オブ・ゼムの人物であるわけですから。

過去の事実を踏まえて、同じことをもう二度と起さない。世界中のどこにも起させない。

これを実現することこそが、山本長官だけでなく戦争で亡くなった多くの魂に捧げる最良のわれわれの行いに違いありません。


現在の長岡駅から同じ方向を見た景色です。


展示の焦土を見て「(ここに展示してある)爆弾をいっぱい落とされて、一瞬にしてこんな焼け野原にされてしまった」と説明したら凍り付いていた息子二人ですが、帰り道、駅のまん前からこの景色(そのときは夕方でしたけどね)を見て「ここに住んでいる人たちは、頑張ってまたこんなに立派な町にしたんだ」と話したところ、とても感慨深そうな顔をしていたのが印象的でした。

他の展示品について、もう一本記事をこしらえる予定です。
この記事でもまた音楽の話ができなくなってしまいましたね。

山本五十六記念館(その2)

2007年02月03日 00時16分09秒 | 長岡
先の記事の続きです。
この前の週末に帰ったとき、息子2人を連れてサイクリングがてら山本五十六記念館へ行ったときのことです。

我が家の子供は少なくとも父親よりは優秀で愛らしいのですが、そんな評価はもしかしたらその父が“親バカ”のはるか上を行く“バカ親”であるからかもしれません。
彼らは亀とクワガタの面倒を見るっちゃ見てますが、“たまごっち”のキャラを含めた生き物でないものを大切にしないので、戦争の頃はもっとタイヘンだったんだということを教えることも必要かと思って連れて行った・・・というわけです。

まぁ、たまにしか会えないので父親じゃないとしないだろうことをしようと思ったわけでもあります。
などとエラそーに言いつつ、実は大半は私の興味本位でありました・・・。

嗚呼正直者也哉。

先の記事で触れたとおり山本五十六長官は全人的な魅力に溢れた方であるとともに、たいへんに書がうまいひとでありました。
否、うまいかどうかの判断は私には出来ませんがその文言のみならず、筆致・字体・墨の置かれようなど全ての要素が相俟って、まるで音楽が私達の心にある感動的な気持ちを起させるかのように、私の心に働きかけてくる・・・。
そんなパワーを持った作品を生み出すことができたかたである、ということです。

こと私に関しては“居住いを正される”というか、厳粛な気持ちを覚えさせられたものであります。

冒頭の色紙の書(常在戦場)をご覧になれば、その感覚を少しは感じ取っていただけますでしょうか?
もちろんホンモノは色紙ではなくきちんと表装された書でありますから、私が感じた迫力の多くはスポイルされております。
いささかなりともご関心をお持ちのかたがいらっしゃれば、百聞は一見に如かず、新潟県長岡市の山本五十六記念館へレッツゴーということでお願いします。
別に宣伝しようと思ってませんが、感動を伝えたいということで・・・。(^^)v

★常在戦場 (じょうざいせんじょう)

これは高野五十六さんが養子に行った山本帯刀家の家訓なんだそうです。
文字通り“心は常に戦場にある”もしくは“あるかのごとし”ということだと思いますが・・・。

実際に目の前で戦場の戦いが繰り広げられている刹那でないときの意味を考えるとき、これを「治において乱を忘れず」の意と読むか、日々どんなことをしているにもその目的を達することは戦いのようなものであるから、自分の心に正直に、決してサボルなよという教えと解釈するかは各々の勝手だと思います。

果たしてもっともっと深い意味があったりして・・・。
まぁ解釈なんてものは、自分の精神の成熟度合いというかそのときの身の丈より深くはできないものだから、仕方ありませんよね。
仕方ないで済ませちゃダメなのか・・・。

いずれにせよ、山本五十六長官はかくも凄い人でありましたということで・・・。

“ちょポット夫人”の宣伝みたいですな。あのノリ好きなんです。。。


★忠誠貫於金石 孝悌通於明 (忠誠は金石を貫き、孝悌は明に通ず)

朱子学の書物“近思録”の中の聖賢17という長い文章の中の一節です。
帰ってきてから記事を書くに当たってインターネットで調べたので、もしかしたら間違っているかもしれません。
出典に関しては99%大丈夫だと思っていますが・・・。

写真で読める漢字を検索サイトに入力したら、ぜーんぶ中国のサイトにヒットしてしまって“近思録”さえ“録”の字が“つくり”の方だけの漢字になっていたりしたのでウラを取るのに苦労したのです。
と、たまには努力のアピールを・・・。

え、山本長官の記事で見苦しいだって!?
うーーーー、ごめんなさい。

中国の古い文章では特に、単語それ自体にとても深いいわく因縁があったりして、単純に読んだだけでは真意が理解できないものが少なくないですよね。
それを仮に知っていたとしても、多様な解釈を許すような思わせぶりな表現方法であるともいえるかもしれませんが・・・。

え、何でそんな穿った見方をするんだって!?
うーーーー、ごめんなさい。

でも新聞の墨に書かれている運勢なんかでもカタクルシイ短文でイミシンに書かれておりますが、“何月生まれ”にせよ“何色何星”にせよ1日を振り返ってみるとどこにでも当てはまるというか思い当たるフシがあるように書かれていますよね。
結局、良くても驕るな、悪ければ慎重にコトに当たれということなんでしょう。

え、まだいうか、だって!?
うーーーー、わん!!!

要するに、この書の文言は出典と読み下しは判ったのですが、文字通りの意味以上の解釈はわからないということです。


★心如鉄石 (心は鉄石のごとし)

山本長官がお好きだった言葉らしいです。

(ただし山本五十六記念館にある書は、山本長官筆ではありません。
コメントにて至誠様よりご教示いただきました。至誠様ありがとうございました。)

「心は鉄石のごとく揺るぎなく堅固であれ」というような意味だと思います。
彼の生き様を見ているとまったく軸足がぶれるということがなく、見事なまでにこの言葉を体現されているのが判ります。

気骨・胆力・・・

根性とか精神力とかいう昨今の言葉(これらも死語か?)よりも、遥かに深く志が高く揺るぎないイメージの言葉が浮かびます。
どうしてそのような(カンタンに言っちゃいますと)「強い心」を持ち得たかということに関心がある・・・というのではなく、少なくともどうして私は持ち得ていないのかを問題視しないといけないのかもしれません。

でも、私はその答えを知っているので・・・。

要するに山本長官は、そのようなものを自分が持ちたいと願い、そして持っていると信じ、持っているものとして振る舞いをされたから持っていることが出来たんでしょう。
翻って私は、最初からそういうものが“現在の自分の中にない”という前提から話をスタートさせている。
その時点で最早アウトじゃあーりませんか。

じゃ「気骨を持ったものとして振舞えはいーじゃんか!」と言われれば、そのとおり!
でもねぇ・・・。
「わかっちゃいるけど止められない」のが骨のないクラゲ人間たるゆえんでして。

「そっかぁ、クレイジー・キャッツが悪いんだ!」

またまた・・・。


冒頭写真の“常在戦場”の色紙には山本五十六長官の(館内に展示してあった)ものと思しき落款印が押してあります。
確認したわけではないのでホントにそうかはわかりませんけど・・・。

でもその色紙に対峙すると、少しだけ背筋が伸びる私でありました! (^^)/
記事の内容にその心証を反映し切れていないのが返す返すも惜しいところであります。



《訂正経緯のご報告と至誠様への御礼》
2月3日に一旦掲示しましたが、コメントにて至誠様より不備事項をご指摘いただいたことをうけ、2月4日に誤りを正し内容改変のうえ再掲させていただきました。
至誠様ありがとうございました。

山本五十六記念館(その1)

2007年02月02日 00時42分18秒 | 長岡
先週末帰ったときに小3と小2の息子ふたりの子守をおおせつかって、ちゃりんこに乗って出かけることにしました。
子供とともに自転車を駆って辺りをふらつくことができるというのも、考えてみれば幸せなこってす。
何はともあれ自分も(メタボながら)それなりに健康で、子供も元気に成長してくれているということに他なりませんから・・・。(^^)v
ホント、ありがたいことです。

私の住まい(留守宅)は長岡駅の東にあります。
自宅を出発し長岡駅東口の近くにある、例の“米百俵”で発足した学校のひとつ“阪之上小学校”の横をすり抜けて、長岡駅北のJRの線路をくぐる通路を走り抜けるルートで山本五十六記念館へ向かいました。
(その後、長岡戦災資料館に行ったのですがそれは記事を改めます。)

しかし面白いもので線路をくぐるのに急勾配を一旦下って線路を渡り、向こうに出たら上るわけですが、兄弟でぜんぜん違う・・・。
長男は全速力でくだりを突っ込んで勢いでのぼりを半ばまで行くのですが、上りきれないと見るや変速を緩めてちんたら漕いでくる。次男は安全運転でくだり、のぼりは(変速器はついているのに)腰を浮かせてえっちらおっちら上ってくる。
対照的ですなぁ。同じ環境で暮らしてるのにね。
ちなみに私の小さいころは、長男ヴァージョンでした。どっちかというと容姿も長男の方が子供のころの私に似てるんで。B型ってところも・・・。
次男はかみさん方に似ているかもしれません。O型ってところも・・・。

さらにオモシロいのは、スキー板をはくとまるで逆でやんの。
それも兄弟それぞれ父方・母方に似ているだけなのかもしれません。
おっと私はスキーを滑るのはわけないですよ!! 曲がる・止まるが難儀なだけで。

さて山本五十六記念館に着きました。
子供にはどこに行くとも言っていなかったので「ここどこぉ~?」「なにすんのぉ~?」状態だったのですが、隣にセブンイレブンがあると見るや飲み物を買えだの菓子をくれだの騒ぎ始めました。

実は先日の記事の“たまごっち死亡事件”のすぐ後の話なので、私はつかつかと館の中へ・・・。
子供はしぶしぶついて来たという感じ。
入館料は長岡市在住の小中学生は無料という入り口のアナウンスに、思わずラッキー!

何やかや言いながら先に展示室へ飛び込んでいった二人はわいわいしていましたが、まぁ“他にお客さんが誰もいない!”ので許してくれぃというワケで私は展示を観ておりました。

手紙類の陳列が多く、山本五十六長官の人となりが滲み出た展示に思わず深い感銘を受けました。他にも山本長官の書が何点か飾ってあったのですが、もの凄く達筆なんですね。
遺された最初の手紙も子供の手になるとは思えない達筆さ、そして内容。
大人になってからも、山本帯刀家を継ぐにあたって家督相続会議が延期されることになったという兄宛の手紙などでの柔和円満な文字・字句のあしらいに、人徳の高さやどっしり構えながらも朗らかな印象を受けました。
思わず見入っただけでなく、ほとんどの書簡の全文を通読してしまいました。
それは山本五十六という人がどのような人であったのかをイメージしやすいように、展示が纏められているためでもあったと思います。

逆に書はといえば、雄渾無比。
自身の心情を刻み込むがごとくの筆遣い・・・。
私に書の心得はありませんが、音楽を聴くのと同様にその字体から何を伝えたいかは明確にわかりました。
生前の山本長官がどんな方であったかを追いながら、書を前にしたから余計にそう思えたのかもしれません。
書に関しては記事をあらためてご紹介したいと思っています。

要するにそれらを通して彼の周りには彼を慕う人がどれほど多かったか、如何に強固な意志を持った方だったか、自分(達)の意に反し日独伊三国同盟が成った経緯、連合艦隊司令長官となってなお早期講和を主張したなど時流の本質を見抜く目の確かさなどが詳らかに伝わってきました。
まさに畏敬の念を覚えるばかり。。。

知らぬ間にやや静かになっていた(と思う)子供達が、携帯のカメラを貸せと寄ってきました。
それは連合艦隊司令長官に着任するに当たって側近に配ったという“短刀”を撮りたいと言ってきたのですが、撮影後「ここはどこ?」で「真ん中にある“これ”はなんだ?」と彼らから尋ねてきてくれました。

ちなみに「真ん中にある“これ”」とは ↓ のことです。

        (山本五十六記念館のパンフレット裏面より部分を撮影のうえ掲載しています。)

山本五十六長官がパプアニューギニア上空で、暗号が米軍に解読され(解読されていた事実は終戦後まで伏せられていた)てしまっていたために待ち伏せされて撃墜された飛行機の左翼です。

子供には概略「長岡出身のとっても勉強して人に慕われた山本五十六という人が、日本が戦争にならないように一生懸命頑張ったけれども、軍隊の一番偉い人になってしまったのでアメリカと戦って打ち落とされたときの飛行機の羽」だと説明しました。
子供からは「なぜそのような戦争を嫌った人が、最前線で殺されなければならなかったのか?」というような質問をされたのですが、答えられませんでした。

何とか口にした台詞はこれです。

「戦争とはそういうものだ。どっちがいい悪いではなく殺し合いなんだから。」

あってますかねぇ・・・。
自分としては子供にメッセージしたかったことのど真ん中を突いた質問をしてもらいながら、明確な答えを提供できなかったことが気になってるんですが。。。

まぁ子供が「戦争は絶対してはいけないことだ」と絵に描いたようにうなずきあってたのを見たときは嬉しかったですけどね。
勝手に感じ取っててくれたようであればそれはそれでよい・・・ということで。

「そういういい人を戦地に送り込んだ悪いやつはどうなったのか?」という質問も受けたような気がしたのですが、さらにわからなかったので「死刑になったのかなぁ~」と誤魔化しました。
これは懺悔室行きですかねぇ~。

そういえば昔にも「何で日本は戦争したのか?」と訊かれてごまかしたっけ?
やばいやばい。子供はスルドイから!!

山本五十六記念館の案内パンフレットの表面です。


“誠意と慈愛の人”という謳い文句になっていますが、まさにそのとおり。
郷土の英雄という理由だけでなく、私は山本五十六という人のすべてに魅了されました。
人望の篤さはビジネスの世界でもつとに有名で、この記念館には特に掲示はなかったようですが、次の名文句がありますよね。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」

考えてみれば以前も触れましたが、山本長官の実の祖父(高野家の人)は北越戦争で戦死しています。
実は家系図を見たときにその方が亡くなった場所が、今私が住んでいる場所に非常に近いところ(いつも行くスーパーがある。かっぱ寿司もある・・・)だったので驚きました。

また養子入りした山本帯刀家は長岡藩の家老の家柄ですが、山本帯刀といえば北越戦争で河井継之助を逃がすためのしんがりを務めるなど武功高く、会津で24歳にして殉死したひとでしたよね。
囚われの身となってなお官軍から“殺すに惜しい”と降伏を打診され、主君からそのような命を受けていないとして果てる道を選んだという・・・。
こういうのって、現代に生きる私にはなんて言っていいかわかりません。

思うに実家も養子縁組先も、北越戦争以来踏んだり蹴ったりの名家であり、なおこのような大人物を輩出した挙句に、アメリカにとっての我が国を代表する敵役になっちゃったというのはなんとも皮肉。
でも決してビンラディンやフセインのような敵役ではなく、一目置いた敵将という位置づけだったに違いない、少なくともそうであったと信じたいという思いを禁じえません。

さてさて朱子学等の儒教的な考えにも造詣が深かった、すなわち先祖を尊ぶ思想に根ざしていた山本長官は祖父の最期を思うにつけ、北越戦争の惨状と大東亜戦争をダブらせていたに相違ないと思います。
もしかしたら自身の最期も、更には日本の敗北はもとより衰退をも憂いていたかもしれません。

それを端的に示す山本五十六が中国古典からよく引いたと言われる言葉を、最後にご紹介します。
今日は音楽の話はなしです。たまには許してください。
そしてこの文句は、ひょっとしてひょっとしたら本日ただいま現在の我が国への警鐘であるのかもしれません。
みなさんはどのように受け止められますでしょうか?

   国大なりと言えども戦いを好まば必ず亡ぶ
      天下安んずるといえども若し戦わば必ず危うし



かくて我が息子達はセブンイレブンにてお目当てのお菓子を手に入れましたとさ。

長岡駅

2007年01月30日 23時40分42秒 | 長岡
これがJR長岡駅であります。

文化・歴史を誇る町、そして何より北越戦争ならびに昭和20年8月1日の空襲で壊滅的打撃を蒙りながら、今の町を築き上げられたこの町のみなさんには頭が下がる思いです。
比較的早くに東京へ転勤との辞令が出た昨年、私の住んでいる地域は震災でこれまた大打撃を受けられているところなのですが、そんな惨事を経てますます温かいご近所のみなさんと町をひどく気に入った私の家族から、なんとか長岡から離れないでいられないかと訴えられたために、結局私一人で現在の赴任地である東京に住むことになったわけであります。

昨年が長岡市制100周年で、悠久山公園で花見の際に記念行事が開かれていたところに行ったりしました。
こんなに歴史がある-だからこそかもしれないが-のに、やはり駅前などもうひとつ活気があってよさそうだと思うし、信濃川を渡った方に物流関係の中心があるのですが今もって開発中というイメージがいたします。

第二次産業の中堅企業などで世界に通用する会社もあるとはいうものの、何かもうひとつブレイクするものができて町に勢いがついたらいいのにな、と思う町でもあります。
要するに活性化のポテンシャルはまだまだ眠っていて、飛躍的に発展する余地も十分にありそうだということです。

ところでヴァイオリニストの礒さんのブログなどで、新潟県のいろんなグルメ食材が紹介されておりましたが、私に言わせれば最も美味しいものはといえば「米」。
これに尽きるでしょう!!


話を戻して長岡駅西側壁面には特徴的なレリーフがあります。
いずれも部分ですが写真でご紹介します。


もうひとつ・・・。

で、これらは結局なんやねん!?

最後に駅に注文をひとこと。
駅の西口の前の地面の素材には筋が入れてあるなど工夫は見えるんですけれども、それでもなお雨や雪のときには滑りやすいです。
革靴はもとより、スニーカーで歩いていても靴底あるいは地面が濡れていると“すべります”。
これでは受験生やお笑いタレントならずとも困ります。
機会があれば、ご検討・改善をお願いします。

この記事の目的は、ひとえにこの一言が言いたいがためでありました。(^^)v

もしかしたら、この後に長岡をご紹介するときの伏線になってたりして・・・。
そんな計画的なことが、私に出来るだろうか???