SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

Oslo Kammerkor : Strid

2015年06月07日 18時08分00秒 | 声楽・宗教曲関連
これが2014年にもっとも私が繰り返し聴いたであろうSACDです。


それまでの私の嗜好からすると、まったく射程外のこのディスク・・・
オスロ室内合唱団にによる「戦い~ノルウェーの伝承曲」と題された2Lレーベルの作品であります。

2014年2月15日に名古屋国際会議場で行われた「オーディオフェスタ・イン・ナゴヤ」で、たしかK先生とおっしゃるオーディオ評論家のセンセイが、ウィーン・アコースティックス社のスピーカーでハイレゾのデモをなさっていたときにかかったのがきっかけで手に入れました。

ノーススターデザイン社のDACの説明だったと思うのですが、私は機材ではなく音源が気になって仕方がなかった・・・。


入手に当たってたよりになる情報は「e-onkyo music」のサイトからファイルを入手されたということだけでした。
なにしろセンセイのご説明では、デモ曲の途中にラフマニノフの合唱曲が織り込まれていたのに「クラシックらしくない」なんてコメントが挟まっていたもので・・・私的には混乱してしまったのです。

いや、もちろん、ハードや使いこなしについてのプレゼンはブースの担当者と示し合わせながらでしたから事実としてきわめて正確だったのでありましょう。
ただ、楽曲へのコメントについては「?」となってしまった、そういうことです。


帰ってからe-onkyoのサンプル音源を片っ端から聴き始めたのですが、当時は2Lのことなんて何も知らず、「BISあたりがクサいのでは?」とあたりを付けちゃったためにずいぶん遠回りをしてしまいました。
なにしろ2Lのサンプル音源は、同サイトのレーベル一覧の一番上にあるのに・・・
玄関にある「お宝」を、それと知らず、家じゅう探し回る探検家(空き巣とはいいたくない)になってしまったわけです。


それでも、なんとかこのディスクを発見し(この根気をほかのことに生かせればと心底思うのですが)、3月1日にはSACDをオンラインで注文するに至りました。
そして・・・
心底、眼を見開かせられた、いや、耳を聴き開かせられたというわけです。


まず、録音の素晴らしさ。
密閉型のブックシェルフで聴いた(その後ウォークマンで聴いても)一聴でそれと分かる空間の広さ、透明感、どれだけホメても褒めたりないと感じたものです。
のちのち2Lレーベルの何たるかを知るにつけ「なるべくしてなった音」と得心が行ったものですが、ウソっぽいほどにいい音で鳴る。

もうひとつ、奏楽の凄さ。
上記の録音に支えられ・・・というか、録音のよさに負けず劣らず、いつ聴いても飽きさせないうえに惹きこまれてしまう素晴らしい歌唱・合唱です。

もちろん伝承曲とクラシックの合唱曲をミックスアップするというアイディアそしてアレンジの妙味も秀逸なんでしょう。
ここらへんはこの種のディスクを他に持ってないのではっきり言えませんが。。。

いまに至るまで、聴くたびに何らかの感銘を与えてくれる、音盤としては異例なほどコスパ最高の買い物となりました。



いまにして思えば・・・
この「オーディオフェスタに行くべ」とふと思い立ち、このディスクを手に入れたことが、小型(ブックシェルフ型)スピーカーの低音の限界を悟らせ、Electra1028Beを手に入れる決定的な伏線となったようにも思います。


それまでにもチェロ・ソナタを近接録音したディスク(たとえばECMレーベルのペレーニとシフのベートーヴェン)を聴いたりすると、なんか低音域がごまかされてるような気がしないでもなかったのですが・・・
「思いっきり低い男声は、実はスピーカーから聴こえていないのではないか」ととうとう気づいてしまいました。

トールボーイ・スピーカーであるSonus Faber のコンチェルト・グランドピアノを使っていたときには、ちゃんと低い音も出てると思っていた・・・これもホントはドローンコーンによる幻だったかもしれない・・・ので、しぜん「やはりエンクロージャー(容積)のでっかいスピーカーが欲しい!」となっちゃったわけです。

その後さらに詳しく2Lレーベルのことを知り、ネット上の同好の志による各種情報などからも、同じようなコンセプトのレーベルの手になるSACDが手許に次第に増えてゆきます。

そして(仕事外における)根気のよさがまたしても発揮され、出物を待つ日々が過ぎてゆき、とうとう幸運の女神の前髪をガッと摑んだ結果、とにもかくにもElectra1028Beが今ここにある。。。


前回の投稿同様、スピーカーのことばかり書いていてディスクについてのコメントはほとんどないですが、私が今に至るまでに欠かせなかったディスク・・・
制作者にしてみればまったく与り知らないことでしょうが、そんなインパクトを買った人に与えうる傑作であるに違いありません。

バンセン番組嫌い

2013年01月30日 21時58分26秒 | 声楽・宗教曲関連
★ラス・ウエルガスの写本
                  (演奏:パウル・ファン・ネーヴェル指揮 ウエルガス・アンサンブル)
《13世紀スペインの音楽》
1.輝かしき血統より生まれし
2.誰しも皆、十字架にかからむ
3.おお、マリア、海の星
4.臨終の血より
5.あまねく知られたるベリアル
6.サンクトゥス
7.アニュス・デイ
8.ベネディカムスドミノ
9.南風は穏やかに吹く
10.いざ、信徒らの御母よ
11.誰がわが頭に
12.けがれなきカトリック教徒よ
13.哀れなる人よ
                  (1992年録音)

このディスクが録音されてからすでに20年余・・・
当時、圧倒的な支持をうけて、レコード芸術の古楽部門賞を受賞した盤であります。

私が勝手に感性が近しいのではないかと思い込んでいる月評子でいらっしゃる濱田滋郎先生が、「力こぶを入れて推したい」というような表現で絶賛されていたことをはっきり覚えています。
で、入手してはみたものの、そのよさが感じられるようになるまではずいぶんと時間がかかってしまいました。
今だって、どれだけの良さを汲み取れているのかわかったもんじゃありませんが、少なくとも時間をかけてわが身に馴染ませたことで・・・味わって聴こうかと思えるぐらいにはなっているんじゃないかなと思います。

質朴でありながら確固とした存在感のある音の重なり、ハモってるんだかどうかわからないけど不思議な感覚に誘われる旋律線、不自然なまでに音を揺らして所期の効果を狙ったり・・・と、まさに温故知新というべき響。
なにぶん同時期の音楽のディスクはたぶん何も持っていないので、違う演奏を聴いてもシューベルトやショパンの楽曲を聴き比べるようにはいくはずもないのですが、たぶん声部のハネ具合とかいろんなところで似たような効果を聴いているので、アファナシエフとピリスほどの極端な解釈の相違はないんじゃないかなと想像したりしています。

私が、「それなりに何枚かのディスクを持ってる」といえるクラシックの作曲家といえば、ジョスカン・デ・プレとかパレストリーナ以降になると思います。
彼らをもってしても、この曲集に収められた作品との年代差は、われわれがショパンやリストの曲を偲ぶのと同じぐらいの時代の差があるわけですから、えらく古い曲ということに異論はありますまい。
これより古いのものはといえば、CD棚のどこを探してもグレゴリオ聖歌ぐらいだもんなぁ~・・・。

とはいうものの、これが世に出て1/5世紀になるんだから、こんな調子で行ったら700年前とかいっても実はそんな昔といえないのかもしれませんね。


いきなりこんな曲集を持ち出して、何が言いたいかといえば・・・

NHKの「ヒストリア」のBGMである梶浦由紀さんの楽曲のテイストが、私には、この曲集のそれとそっくりのように思えてならない・・・

ということなんです。


もとより、ここで歌われている内容も背景も全く異にすると思いますし、もしかしたら「Kalafina」なる、女性のヴォーカルユニットの編成に共通項があって、結果として織りなす旋律の綾は必然的に似てしまう・・・だけかもしれませんが、とにかく最初に「ヒストリア」で聴いたときから、「あれ、この雰囲気どこかで聴いたことがある」と思って気になっていました。
そしたら、これだったんです。。。

その当否は別として、ヒストリアの音楽は単なるBGMを超えて親しみを感じるものになっています。
梶浦さんのその他の曲は、ガンダムなどのアニメにもゲームにも興味がない私にとっては未知のものですが、やはりこういった風情を湛えたものなんでしょうか?
そこは非常に気になります。。。


さて・・・
当の「ヒストリア」ですが、テレビをニュースと「ダーウィンが来た」ぐらいしか見ない私が珍しくつとめて視聴している番組であります。
松平アナの「そのとき歴史が動いた」を見ていた惰性・・・かもしれませんが、進行の女性の着物の模様がうにょうにょ動くのを楽しみに見ていたりする・・・関心の高い番組。

しかし・・・
昨年度は、大河ドラマのいわゆる「バンセン」のための番組になってしまった感があって、本編のレベルの高さはきっと変わっていないのに、私の受け止め方としては、また大河の助太刀をしてる・・・と、ネガティブなものになっていました。

NHKは宣伝がない・・・というのはウソで、きっとあらゆる番組を使って大河ドラマの応援をしてるんだというのは、誰の眼にもけっこうロコツに見えてしまっていたんじゃないでしょうか?

ネット上でも、大河ドラマの視聴率の話題でもちきりでしたが、私にいわせりゃナンセンス。
週刊時代劇・・・
と大河を喝破したのは武田鉄矢さんだったと記憶していますが、国民的番組だからとありがたがることなく興味のあるかたが見ればいいにすぎません。
ましてや放送と同時間に視聴しなければならないなんてことはないんだから、「視聴率」なるものの定義にしたがってそのときに見た人の割合で値打ちを判断するなんてことはばかげている・・・と当事者じゃない私は思ってしまうわけです。

うちだって夏場、中日戦のナイターを放送していたらその時間はそちらを私がテレビを占拠して、大河好きの家人は、録画したものを後程じっくり楽しむ・・・んですが、こんなのは日本中どこでもありうる光景ではないでしょうか?
移動中にワンセグで見てる人もいるだろうし、きっと、大河ドラマを視聴している人口に昔も今もそれほど差はないんじゃないかな・・・というのが私の想像です。

「以前の大河の方が優れていたから、その時間に茶の間で見てくれる御仁が多かったのだ」と言われたならば、たしかにそうかもしれません。
・・・けど、私には、なんかこうしっくりこないねって感じです。

たとえ力こぶを込めた番組が芳しくない評価であったとしても・・・
自分の局の「特定の番組」を支援する目的をうすうすでも感じさせるような番組編成を組む方が、心証を害するデメリットは大きいような気がするんですけどね。

ま、いずれにせよ余計なお世話なんですけどね。


個人的には、Kalafinaは露骨な大河応援の論功行賞・・・などとのそしりを受けても、昨年の紅白に選んでよかったユニットと思っています。
・・・などと、とつぜん前言と相容れないことを書いたりして。(^^;)
要するに、「ヒストリア」の梶浦さんの音楽を、私はとても気に入っているということであります。


ところで、最近、朝の番組も「同じ理由」が不愉快で「今日の占いカウントダウン」を除いてはNHKを見ている私。
自局のドラマなどの夜の番組を、他番組を活用して宣伝しないでほしいものです。
もっとも、私を除く視聴者に需要があるからそうされているのでありましょうが・・・私はダメです。

視聴率競争・・・視聴者の目線に全く立っていない、放送側の理屈しか私には見えてきません。
もっと違った尺度を見出さないと、私のようにニュースとナイターと自然科学の番組しかみない人・・・それも録画で・・・が増えちゃうかもしれませんよ。
それだけでも結構テレビの前にくぎ付けになるんだから・・・。

というわけで、今から「ヒストリア」を観に行きます。

ディスクに記録されているもの

2009年06月15日 00時59分00秒 | 声楽・宗教曲関連
★ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉
               (演奏:ジョルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・デ・ナシオン)
※ハイドン:『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』管弦楽版(1785)
1.導入
2.福音書朗読 『父よ、彼らをお赦し下さい』
           (ルカ福音書第23章第34節)
3.ソナタ第1番
4.福音書朗読 『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』
           (ルカ福音書第23章第43節) 
5.ソナタ第2番
6.福音書朗読 『婦人よ御覧なさい。あなたの子です』
           (ヨハネ福音書第19章第26節)
7.ソナタ第3番
8.福音書朗読 『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』
           (マタイ福音書第27章第46節)
9.ソナタ第4番
10.福音書朗読 『渇く』
           (ヨハネ福音書第19章第28節)
11.ソナタ第5番
12.福音書朗読 『成し遂げられた』
           (ヨハネ福音書第19章第30節)
13.ソナタ第6番
14.福音書朗読 『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』
           (ルカ福音書第23章第46節)
15.ソナタ第7番
16.『地震』プレスト・コン・トゥッタ・ラ・フォルツァ
                    (2006年録音)

このところ聴きまくっているディスクがある。
聴きまくるには理由がいくつかあって、まずは当然に演奏が素晴らしいことがあげられるわけだが。。。


折からのこのご時世、新譜を以前のように買いまくるということができない懐事情によるところも大きかろう。
したがって厳選された新譜しか手を出せなくなったわけだが、それがアタリでしっかり聞き込む時間をもつことができるのであれば、決して悪いことばかりではあるまい・・・。

と、口惜しさを封じるために書いているが、確かに次のを、そのまた次のを・・・と求めてしまうと本来ディスクに封じ込められていることの多くを聞き逃してしまうことに繋がりかねないとはうすうす思ってはいる。

もちろん聴きまくっているディスクの最右翼がここに挙げたサヴァールによる、ハイドンの『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』というタイトルに“の”がいっぱい入る楽曲の再録音盤である。
以前の録音も持っているのだが・・・比較にならないぐらいディスクの中につまっているものが多く深い。
このことにいたく感じ入って今月の盤として採り上げたわけである。



周知のとおりこの楽曲はハイドンがスペインはカディスのセント・クェバ教会からの委嘱によって作曲されたもの。
解説を読んだところでは朗読途中の瞑想時のBGMみたいなイメージの使われ方をしたらしい。

キリスト教にはこのような祈りの機会に演奏される多くの宗教曲があり、その文化に関しては非常に羨ましいと思える。
なによりもその響きの美しさ(声楽が入っていてもなくても)、共通の事情をバックボーンに持っているためにたとえゲンダイオンガクになったとしても、その神なるものを希求する思いだけはしっかりと感じ取ることができるからだ。

我が国にも祝詞に添って流れる神楽みたいなものもあるが、なぜか(実は当然にして)外国のそれよりも馴染みが薄い。
是非を問う気はないが、もったいないことである。

我が国では概ね仏教にせよ外国から取り入れることは上手だし、本地垂迹なんて日本の旧来のものとがちゃがちゃぽんにするなど合理的に吸収することはお得意の巻なのだろうが・・・じゃあ、日本中にその教えが行き届いているかというと実は日常生活にはほとんど何も関係していない。
遣っているイディオムの中には宗教用語が山のようにあるくせに、そうとは知らず遣っているわけだし、そんな言葉のオンパレードの人たちが無宗教だと仰るお国柄である。。。

西欧(含む米国)のように、キリストを信じていないとカルチャーショックを受けるぐらいの共通基盤を持っていることは、同じ文化の受容にとってはとても有利なことだといえよう。
いや、宗教が同じだから文化が同じななんだというニワトリとタマゴのような論法も成り立つだろう・・・でも、どっちが先かということはここでは問題ではない。

そんなことを、このサヴァールのディスクからは感じるのである。
演奏に込められた情熱、その非常に素直な発露、人懐っこいとでもいいたくなる純粋無垢な魂を感じさせるもの。
作曲経緯の所縁の地であること、最新の録音技術・・・丹念に準備された演奏であることは一聴にして明らかであり、それらが詰まったディスクから溢れ出てくるのだから居住まいを正して聴かされてしまう。

朗読が入っているのもよく理解できる。
声楽がない曲だが、朗読が入り、それに寄り添うように温かい演奏が続いていくさまは、まさにこの曲がそのようなシチュエーションで演奏されるべく作曲されているのだと知らせてくれる。

没後200周年にあわせてこの曲にもいろんなディスクが登場しているようだ。
ブリュッヘンやブルーノ・ヴァイルといった斯界の雄たちも力作を発表しているようだが、私にはこの一枚があれば十分である。
(ネットの視聴で一部を確認したけれど、そこで既にディスクに格納されているものの質が私に合っているかどうかはわかってしまった。)


この曲を最初に知ったのは、レコードアカデミー賞も獲ったと思うけれどリッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルによる管弦楽版だった。
ムーティはそれ以前にもこの曲をウィーン・フィルで録音していたようだが、ベルリン・フィルのそれは批評家によるとそれを凌駕しているとのことで、あのときにはこんな壮絶な宗教曲があるんだという思いで聴き込んだ覚えがある。

今、聴きなおすとシンフォニックに素晴らしい演奏が展開されていると思うが、ショウピースみたい・・・少なからぬ敬虔な祈りが感じられるとしても・・・に思えてしまう。
大仰でなくても、大パノラマでなくてもこの曲のあるべき姿は伝えられると思ってしまうのだ。

また、ハイドンみずから手がけた編曲としては弦楽四重奏版とオラトリオ版があり、弦楽四重奏は著名なクァルテットがこぞって採り上げてもいる。
クイケン四重奏団による演奏が好きだったし、いまでも好きではあるのだがこの管弦楽版を耳にして以降はどうしてもサヴァール盤を取ってしまう。


SACDであること、読めない言語で解説が異様に詳細に書かれているだろうこととは異質のものだが、それらの事情も決して悪い印象は与えない。
たしかにCD層の再生とSACDの再生は雰囲気が異なるから。
私が欲しい情報は、確かにSACDのほうからより多く感じ取ることができたわけだし。。。

全般にSACDのメリットを感じる箇所はあるが、最後の『地震』でのティンパニがかもし出す雰囲気は圧巻だった。
古楽器の演奏では、音楽的というより圧倒的な存在を表す『イカヅチ』みたいなイメージを表現する効果をティンパニは担っていたんだと再確認させられる。
現代のオーケストラのティンパニがヘタするとメロディー楽器のように聞こえるときがあるのとは対照的に。。。

ともあれ、今しばらくの間、このディスクはしょっちゅう私の耳を楽しませてくれることだろう。(^^;)



★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1・2番
              (演奏:クリスティアン・ツィメルマン(p・指揮)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

1.ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
2.ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
                   (1991年録音)

新譜をなかなか手に入れられないということで、旧譜を引っ張り出して聞くことが増えてきた。
これらのディスクは国内盤3000円で購入しているから、出てすぐに買っているものだと思う。
当時、ビッグネームが新譜を発表したら勉強のつもりでしこたま買い込んでいたから・・・先に述べたとおり他により共感できるものがあったりするとそのままCD棚の肥やしになってしまっているのだ。

これらもその被害盤なんだろう。
まず曲がいけない。
そのころベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば、まず『皇帝』というのが私の思い込みであった。
今でも5曲中最高傑作は第4番だと思っているのだが。。。

要するに当時これら初期の2曲は私の感覚の中では足切りに遭ってしまったわけだ。
ツィメルマンの指揮は、バーンスタイン急逝を受けてのものにしては堂に入っている、『皇帝』などよりは弾き振りがしやすい曲調であることも幸いした・・・云々の解説を見ていたのもしっかり覚えているのだが、そんなことはどうでもよくって、演奏自体がバーンスタインが指揮していた後半の3曲よりもウィーン・フィルの素直な響が楽しめて、文字どおり楽しい演奏だと思った。

ツィメルマンの美しさを自認しながら弾いているかのようなタッチも若々しい曲調によくマッチしているし、実は彼のラヴェルやラフマニノフ、バルトークと言った協奏曲のディスクにイマイチ違和感を感じている私としては、彼の協奏曲のディスク中さっぱり系ではこれ、こってり系ではショパンがベスト(いずれも弾き振り)じゃないかと、個人的には思ってしまった。


★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1・2番
             (演奏:マルタ・アルゲリッチ(p),ジュゼッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団)

1.ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
2.ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
                   (1985年録音)

そして同じプログラムのもう一枚。
レーベルも同じDGのこれらを聴いて思うこと・・・やっぱりDGは信用でき実力のあるレーベルなんだということ。
少なくともこの時代はそうだろう。
ラップなんて音楽(?)が出てくるまでの80年代ぐらいまでのよきアメリカのポップスが持っていた底抜けの楽しさが、失われてしまったのと同様に、あるいはDGなどメジャーレーベルの慧眼もかすんでしまっているのかもしれないが・・・。

ツィメルマンがすっきりと見通しのいい音楽作りをしているのに対し、アルゲリッチ&シノーポリも確かに重くならない響を作っているが随分骨太であるように思われた。

アルゲリッチが暴れ馬なんていうのはここでは感じられない。
でも、音楽的ということに関しては本当に頼もしい限りの演奏で、これもこれの楽しみを十二分に満喫させてくれる演奏である。

シノーポリも早世が惜しまれるが、素晴らしい演奏は悪いけど活動初期に多かったような気がするな。
ウィーン・フィルとのシューマンの第2番の交響曲なんか素晴らしかった、今でもあの曲はあの演奏だと思うぐらいに。。。

新譜も魅力的なものが次々出てきて見逃せないとの思いも強いが・・・
我が家のCD棚にも実はまだまだその魅力を存分に発揮してくれる機会を待っているディスクたちがあるんだな。

ディスクに記録されているもの、受け手にその素養やTPOが揃わないとすべてを開陳してくれることは難しいのかもしれない。
精進せねば。(^^;)

異太利亜旅行気分

2007年08月05日 00時08分29秒 | 声楽・宗教曲関連
★ラッスス:ダヴィデ懺悔詩篇曲集 (1584年)
                  (演奏:フィリップ・ヘレヴェッヘ(指揮)/コレギウム・ヴォカーレ)
《ダヴィデ懺悔詩篇曲集》
1.主よ、怒りもて罰したもうなかれ
2.その悪行を許され
3.主よ、怒りもて罰したもうなかれ
4.神よ、われを憐れみたまえ(ミゼレーレ)
5.主よ、わが祈りを聞きたまえ
6.深き淵より、われ汝を呼ぶ
7.主よ、わが祈りを聞きたまえ
                  (2003年録音)

オルランド・デ・ラッススはルネサンス時代の作曲家。
どこぞの大臣がアセヤンの会合でバカ殿さまみたいなことをしてましたが、この曲が作曲されたことのわが国では“本能寺の変”を経て光秀を討った秀吉が勢力を伸ばし大阪城を築いた頃のこと。
そして、作曲家はドイツ・ミュンヘンで秀吉の天下統一を見届けた後亡くなっています・・・って、時期的にはそうだけど、そんなハズないか。(^^;)

でも各国大臣の話、あないな(思わず関西弁)パフォーマンスをしてたのが、わが国のヒトだけじゃないところがまたスゴイ会議ですなぁ~。


ラッススはフランドル学派の最後の巨匠と讃えられており、確かにバロック音楽に至る躍動感には至っていないものの、複雑な旋律線が絡んだポリフォニー(っていうんですか?)の綾が敬虔で品格の高いということは一聴すれば判ります。
そんなこんなを考えれば、かの時代にも高尚な音楽だったんだろうなぁ~と思う次第であります。

金曜日は本社に出社したのですが、久しぶりに昼休みに雨が上がっておりました。
したがって、腹ごなしの散歩については駅周辺をうろつくのではなく公園に行ってみようかということにいたしました。(^^)/

会社では夏休みの話題が出る時期になっており、社員食堂で昼飯をゆ~っくり食っている時(早食いは太るもと)にも周りから女子職員の声がい~っぱい聴こえてくるんです。
いつもながらムシンケー極まりなく、やれ韓国へ行くだの、南の島がいいだの、ゴールドコーストに出向くなどとほざいているものまでおる始末・・・。
ウラヤマシ・・・いや、まだ夏休みでないのに緊張感0とはけしからん事であります。

どいつもこいつも、何故か1人・・・あるいは女子数名といくっていうのがこれまた無神経。
いったい何しに行くんじゃい!?
と詮索しても始まらないので、ほっとくことにします。

キミたちがそのような態度で出るなら、私はこの昼休みに『イタリア旅行』をしちゃうもんね~だ。

たまたま通勤の時に「優しい音楽」を聴きたくてディスクマンに入れてきたのがこのCD。
そりゃこんな心地よい音楽をBGMにして、街中から緑あふれる公園を歩いたらどこであってもイタリアみたいになるでしょう!

と、やってきましたこの公園・・・。(^^)/
誰が何といってもこの陽光はイタリアそのもの、かのゴッホがゴーギャンが愛したアルルを髣髴させるじゃありませんか?
                  

さすがイタリアの新宿中央公園!
入場した途端に、“アオスジアゲハ”が颯爽と目の前を横切って行く。

昼飯前まで“アオスジタテタ”人を見てたモンで、余計に珍しく見えてしまった!
このチョウは幼虫の時に食べる葉が特殊な木に限られているから、今はめっきり見る機会が減ってしまったんですよね。
“キアゲハ”なんて、絶滅しちゃったんじゃないかというぐらい見ない。
むしろ各種の“クロアゲハ”の方がよく見かけるんじゃないだろうか・・・?

私が小さい頃は、いろんなアゲハチョウが飛び交い捕虫網を持って追い掛け回したもんだけどな~・・・などと、ポリフォニーのアンサンブルを聴きながら思っておりました。


そもそもこのディスクを手に入れようと思ったのは、どうだろう・・・15年以上も前に読んだCDジャーナル関係のある本(よく覚えてない)で、

ラッススは家族を持った身持ちの堅い作曲家であって、当時より最高の評価を得て堅実な生活を送った人である。作曲された作品もみな高く評価され最高傑作とされる“ダビデ懺悔詩篇曲集”は、ヨコシマな心が洗われ思わず懺悔せずにはおられないほどムズムズしちゃうぐらい美しい曲である・・・

云々という記事を覚えていたからであります。


さらに歩いていくと、おお、このように整備された花壇もまさにイタリア的ではありませんか?
                  

ラッススはこの曲集を作曲したことで多くの報酬を得たとのこと。
ところがその記事によれば、ラッススはこんな皆を懺悔させちゃうような曲を書いておいて、自分は仕事ばかりしていて「懺悔しているヒマはない」という態度であったということでした。

「懺悔の値打ちもない」という歌詞をものした昭和の大作詞家も鬼籍に入ってしまい、ご冥福をお祈りするばかりですが、懺悔推奨とも思える曲を作って自分が懺悔しないんじゃ、自分で作った農作物を自分で食べないというどこかの国の農家のようなもんじゃないか・・・という気もする。。。
曲の中に農薬みたいなものを混ぜたんだろうか、大量に耳から摂取すると麻薬中毒になるとか???


そういえば、そんな気もする・・・。
心地よい調をず~と聴いているからか、なぜかこんな木造建物ですらイタリアの陽光を浴びた小道具のように思えてきてしまったぞ。。。
これはやはり、ラッススの確信犯的精神操作の仕業に違いあるまい!(^^;)
                  

やりすごしてから振り返ると、新しい建物ではあっても単なる事務所兼物置なんだから・・・。

炎天下でボーっとしたせいか、ラッススの麻薬的声楽曲のせいかいろいろ考えながらも、万歩計のメモリを増やすことを目的にイタリア旅行を続けました。
よく聞いていると、このイタリアにはミンミンゼミが多いらしい・・・なぜかしらポリフォニーの綾にミンミンゼミの大合唱が入っても違和感がないことに気づきました。

戦国時代の武将もこんなミンミンゼミを聞いたんだろうなぁ~・・・なんて分けわからんこと考えてたりして、もはやヤク中状態の脳内環境でしたねぇ~。

同じように炎天下にやられたハトさんなんか、羽を地面に思いっきり広げてヘタってるものもいる・・・。
日陰に入ればいいのに。。。(^^;)

大汗かいてなんだかんだいいながら、とにかく私の6500歩あまりのイタリア新宿中央公園散歩旅行は楽しく幕を閉じるのであり・・・えっ、ラッススは今のベルギー生まれでフランドルっていういのはオランダ南部・ベルギーからフランス北部のことを言うんであってイタリアじゃないって?

知らなかった・・・。(>_<)

というわけで、イタリア旅行気分ではなく「異太利亜旅行気分」というタイトルに致しました・・・とさ。
ご勘弁!! (^^;)


★ラッソ:死者のためのミサ曲/巫女の予言
                  (演奏:ヒリヤード・アンサンブル)

1.死者のためのミサ曲
2.巫女の予言
                  (1993年録音)

ディスクの表記に準拠することに決めているので作曲家をラッソと書きましたが、ラッススのことです。(^^)/
ラッススは若い日にはいろんな国(よかった。イタリアにもいたらしい)で活躍したので名前の読み方がいくつかあるようですね・・・。


やはり蒸し暑い日に炎天下ほっつき歩いていれば、死んだように眠くなるに決まっております。
したがって、よく眠れるようにこの“死者のためのミサ曲”をかけてみました。
すると、最初の一声(器楽がまったくないモンで)すら聴いた覚えがないままに朝を迎えることができちゃったので、あらためて聴きなおすこととなりました。。。(^^;)

といっても、ヒリヤード・アンサンブルの数多あるディスクの中でも殊に最近の銘盤の誉れ高いこのCDに、ほとんど声楽を聴かない私が何の論評を加えることができましょう・・・。
カウンター・テナーが入っているとはいえ男声ばかりになっているので、品のよいコーヒーに溶け合おうとしている濃厚なミルクといった感じで、まろやかに落ち着いたテイストになっていることぐらいしか“ダヴィデ懺悔詩篇曲集”との感覚的な違いがわからない。

いや、もっとはっきり言っちゃえば

「違う曲かどうかすらわからない・・・。」(^^;)


私の勘ピューターによりますれば“いわゆるひとつの美の極致”!!
ここはうっとりして聴き惚れるのみしかできないということで許してつかーさい。

何事につけ“癒されたい”とおっしゃる方。
これを聴かれると多分ご満足いただけるのではないでしょうか?
珍しくご紹介だけじゃなく、結構自信を持ってお薦めしちゃいますよ。(^^)v

親愛なる敬虔

2007年05月09日 00時30分39秒 | 声楽・宗教曲関連
★フォーレ:レクイエム
                  (演奏:ミシェル・コルボ指揮 
                       シンフォニア・ヴァルソヴィア&ローザンヌ声楽アンサンブル)
1.レクイエム op.48(1893年版)
2.アヴェ・ヴェルム・コルプス op.65-1
3.アヴェ・マリア op.67-2
4.タントゥム・エルゴ op.55
5.ヴレヴィユの漁師達のミサ (フォーレ/メサジェ)
                  (2006年録音)

コルボにはフォーレのレクイエムの録音が4種あるそうです。
私は2番目の録音と4番目の当録音を持っています。
最初の1972年盤が最も有名であるかもしれませんが・・・。

この演奏に使用されている楽譜は1893年版といわれる版で、通常のフル・オーケストラの盤より幾分か小ぶりになっているようです。
サンクトゥスのヴァイオリンのオブリガートが一丁でなされているようであったり、そこここでオルガンのみの伴奏になっていたり、リベラ・メのディエス・イレの合唱部分でティンパニが地から湧き上がるように挿入されていたりする点が一聴して分かる違いでしょうか。

この録音は非常に鮮度が高く、残響も美しく取り入れられていますがくっきり感が強いので生々しい音楽に聴こえます。
それでも精妙なコーラス・アンサンブルが一糸乱れず展開されると言うのは、相当訓練を積んだとか、手の内に入った演奏なんだという証左であると思います。
かつてロバート・ショウが大編成の宗教曲では大家だと思っていましたが、コルボも大編成・小編成を問わず心を打つ名盤を作成してくれています。

小編成のオーケストラで生々しい祈りが展開されている聴きやすいディスクであるため「親愛なる敬虔」というコピーをタイトルにしました。
最も気楽に手に取ることのできる、この曲のディスクであると思います。

フィルアップの曲もチャーミングでありながら慎ましい、好ましい曲ぞろいです。 

ところで、このディスクの製造元、MIRAREレーベルは躍進目覚しいレーベルですよねぇ。
ピアニストではベレゾフスキー、ケフェレック、アンジェリッチ、チェンバリストではアンタイなど綺羅星のごときアーティストを擁していますが、ここへ来てコルボですか・・・。
スゴイもんです。

ヨランタ・スクラ女史がいらっしゃった頃のOpus111レーベルのようなものでしょうか?
そういえばチャネル・クラシックスなども頑張っているのでしょうか?

一方で、アイヒャーのECM、ハイペリオン、ハルモニア・ムンディなどももちろんメジャーレーベルではありませんが、10年以上前からお世話になっているものとしてはこれらは既に準メジャーと言って過言じゃないレーベルに成長したように感じます。
卓抜なアーティストに納得のいく環境を提供していることが共通した成功要因だと思います。それでありながら、レーベルとしてのカラーも明確に感じられる・・・これは卓越した経営手腕なんだろうと思います。

これらのレーベルにはさらに頑張ってもらいたいものです。

フォーレと言えば、「おかあさんといっしょ」の歌のお姉さんだった“りょうこおねえさん”がこのまえご出産されたというニュースを見ましたが、彼女がすごく生き生きと「フォーレが好き」と言っていたのを思い出しました。
私もフォーレは大好きなのです。


★フォーレ:レクイエム
                  (演奏:ミシェル・コルボ指揮 
                       ローザンヌ室内管弦楽団&ローザンヌ声楽アンサンブル)


1.レクイエム 作品18 
2.ラシーヌの雅歌 作品11
3.モテット集
4.小ミサ曲
                  (1992年録音)

上で紹介したとおり、コルボが録音したこの曲の2番目のものです。
私が始めてフランスから輸入盤を取り寄せた思い出深いCDでありますが、現在は同じ音源がヴァージン・レーベル扱いでバジェット・プライスで手に入るので頭にくるディスクでもあります。ただ、ジャケットはこっちの方がいいと思っているので、我慢できますが・・・。
パーソネルでは、バリトンがピーター・ハーヴェイを共通しているようです。

こちらは通常版での演奏ですが、私にとってはこの演奏こそが至高です。
あまりに気高すぎて、頭を垂れているばかりという感じ・・・深遠なる崇高さとでも表現したらよいのでしょうか?

やっぱりオケがフル・ヴァージョンだと、小編成では出来ないことも出来るような気がします。
大きい時は大きい時のよさを、小さい時はそれならではのよさを引き出すことが出来るコルボ偉し!!
ということでしょうかね。

何よりも素晴らしい曲を書いてくれたフォーレに、心からの感謝しておきたいキモチでいっぱいです。(^^)v
ここに収められている曲は、どれだけ褒めても足りないぐらいにいいものがかりですよね。

グリーグ没後100周年特集(その4 歌曲集編)

2007年02月15日 00時15分05秒 | 声楽・宗教曲関連
★グリーグ:《歌曲集》
                  (演奏:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(Ms)
                        ベンクト・フォシュベリ(P))
1.《山の娘》作品67 アーネ・ガーボルグの詩による歌曲集
2.6つの歌 作品48
3.ヘンリク・イプセンの6つの詩による歌曲 作品25から
   第2曲:白鳥
   第4曲:睡蓮に寄せて
4.ヨン・パウルセンの5つの詩による歌曲 作品26から
   第1曲:希望
5.オスムン・オラヴソン・ヴィニエの詩による12の旋律集 作品33から
   第2曲:春
6.ヴィルヘルム・クラーグの5つの詩による歌曲 作品60から
   第3曲:待ちながら
7.7つの子供の歌 作品61から
   第3曲:叫び声(農場の歌)
8.オスムン・オラヴソン・ヴィニエの詩による12の旋律集 作品33から
   第5曲:流れに沿って
9.ロマンス集 作品39から
   第1曲:モンテ・ビンチョから
10.アンデルセンの詩による《心の旋律集》 作品5から
   第1曲:ふたつの茶色の眼
   第3曲:きみを愛す
11.ホルゴ・ドラグマンの6つの詩による歌曲 作品49から
   第6曲:春の雨
                  (1992年録音)

ドイツ・グラモフォンの看板メゾのオッターですが、バルトリと並んで現代最高のメゾ・ソプラノ歌手なんでしょうね。
これはグリーグの生誕150周年を記念してDGが“グリーグ・エデイション”をして何セットか出したもののうちのひとつ(7番目)です。
このころまでのDGのジャケットは、イエローレーベルの名のとおり黄色い看板にタイトルとパフォーマーが書き込まれているもの。これはこれで統一が取れており私はとても気に入っておりました。
言いたいことは、グリーグエディションは“ムンク”の絵をジャケットにすることに決めていたので、トップが冒頭写真のような絵になっているということです。

まぁ、名画っちゃ名画なんでしょうから文句をつける筋合いではないのですがどうなんでしょうねぇ~?

ちなみにジャケ裏の写真は↓のとおりです。


ノルウェーって感じがするじゃぁありませんか!
まぁ生誕150年とかでもないと、メジャーレーベルがこのような選曲で看板アーティストのアルバムを作ったりしないのかもしれませんから、とことんまで“エディション”の作りになってしまっているのは致し方ないのかもしれません。
装丁の話はこれくらいにして・・・と。

私はいわゆるリートのCDを殆ど持っていません。なぜなら聴かないから!!
宗教曲は少しは聴くのですが・・・。
で、なんで持っているかというと、レコ芸の小林先生と菅野先生の“話題のディスクを最新のオーディオで聴く”のテーマディスクだから・・・です。

今回この記事のために5回周りぐらいこのディスクを聴いて思うのは、オッターは歌がうまい!
当たり前か・・・。
いつも聴かないと言いながら、これは少し聴き始めると“常習性”というか中毒になるかもしれないと本気で思いました。
これは媚薬なんてもんじゃありません。麻薬級ですね。

“山の娘”は8曲の連作歌曲集ですが、とくにその8曲目の一筋の光明にも喩えるべき透明な音楽、リリシズムというのは滅多に聴けるものではないと思います。
そしてオッターに勝るとも劣らないパフォーマンスを聴かせるのが、ピアノのフォシュべりです。
こっちはいつも聴いている楽器ですから、いきおい“チェックします耳”で聴いてしまいがちなのですが、リートの場の雰囲気を作りながら決してその歌の影に埋もれてしまわないというバランスは素晴らしいと思います。
また自己主張の意志はつゆほども感じさせないで、わずかなタッチのニュアンスの差でがらっと情景を変えてしまうところなどお見事であります。

歌手がいるからこそ、逆にそういうことが出来るのかもしれませんけどね。
共同でステキな時空間を創出するというのは、とても楽しい作業であるのかもしれません。

ところで、かのマルタ・アルゲリッチはあれほど多士済々の器楽演奏家と共演しているにもかかわらず、リートの伴奏をしているという話を聞いたことがありません。
もちろん私が知らないだけなのかもしれませんが・・・。
ブレンデルもコワセヴィチもシフだって伴奏をしているのにね。
オッターのパフォーマンスを聴いて思うのは、もしかしたらアルゲリッチも敵ではないかもしれないということ。

アルゲリッチは伴奏に甘んじることをよしとしないだろうし、グリッサンドも音量の漸増・漸減も自在で、意味ある言葉まで載せて奏でられてしまう“ヴォイス”には、さしもの彼女のピアノといえども旗色が悪いと思っているのかもしれません。
人格者ではあるけれども負けず嫌いの彼女には、ちょっと楽しみにくいジャンルなのかもしれませんね。

私の音楽殿堂(ロバート・ショウ)

2007年02月13日 00時00分01秒 | 声楽・宗教曲関連
★ラフマニノフ:晩祷(徹夜祷)
              (演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)
1.セルゲイ・ラフマニノフ:晩祷 作品37
                  (1989年録音)

私の音楽殿堂シリーズ、今回は声楽曲をこのように演奏できるのはこの人しかいないというロバート・ショウを特集します。

15年余り前だと思いますが、私はまだまだショパンさえ一部のピアノ曲しか知らないようなころ、そう、ミケランジェリのドビュッシーを初めて聴いたころ、クラシックの裾野を一渡りしたいと言う思いから、その当時現役盤であったクラシックのCDが全て網羅されているという触れ込みのレコードガイドを購入しました。

そういったガイドを買ったのは、後にも先にもあのときだけなのですが・・・。

さてそのとき「著名な作品はどのディスクがよかんべ」ってなノリで、ディスクの解説欄にある“特選”“推薦”などの一発評をまず確認し、全てのディスクの評を細かく読み比べました。

おいおい有名曲に関しては、本命と対抗馬の2種類ずつ揃えようという壮大な計画に発展していくのですが・・・。
振り返ってみるとまだ手出ししていない曲、対抗馬どころか大穴まで手に入れた曲、競馬場丸ごと買い取っちゃったような曲(!)までいろいろありますねぇ~。

でも全ての出発点はあのガイドなんです。
比較的最近の転勤の引越しの際、どっかへ行っちゃって残念に思っているのですが・・・。

そしてこのとき、クラシックの主要な作曲家や楽曲の名前を覚え、ディスクの数でその作曲家や作品が音楽史上どれくらいの重みがあるのかというおおまかな感覚を無意識のうちにイメージすることとなりました。

その作業の顕著な成果は、初めてシューマンの代表作が“流浪の民”でないらしい(!)と感づいたことでしょうかねぇ。
我ながらホント目からウロコでした。
フツーの学校では“クライスレリアーナ”や“幻想曲”は習いませんもんね・・・。
それまではなにせ“流浪の民”と、“トロイメライ”しか知らなかった私なのでした。

逆に、ラフマニノフの最高傑作がはこの“ヴェスペレ”に違いないという認識もおぼろげに感じ取った(!)のもその作業中でありました。(^^)v

シューマンはいいとして、このラフマニノフの無伴奏混声合唱曲をどのように評価するか・・・。
私にとって未だに悩ましい問題であります。

ラフマニノフの最高傑作は“ピアノ協奏曲第2番”だと私は思い、一般的にはそう発言しても違和感をもたれるかたは少ないと思うのですが、これが自信を持って言い切れない。。。
まぁ、コンチェルトなら3番だとか、交響曲第2番じゃないかとか、もしかしたらコレルリ変奏曲だと言う人がいらっしゃるかもしれませんが、それは好みの問題だっちゅーのってことで捨て置きましょう。

でも私が“2番コンチェルト”と言い切れない理由は、この“晩祷さん”がカウンターパートとしているからなんです。

ご存じない方もいらっしゃるかと思いますのでちょっとだけ説明しますと、“晩祷”は 正しくは“徹夜祷”と訳すべきらしいのですが、ロシア正教の典礼曲であります。要するに徹夜でお祈りするときの音楽って訳でしょうね。
この作品は合唱曲15曲から成ります。

教会音楽といえばモツレクにせよベートーヴェンのミサ・ソレムニスにせよ管弦楽が賑々しく入っていますよね。
後世のラフマニノフが作曲しているのに「なんでオケ無しなんだろう?」とずっと思っていたのですが、東方正教会では典礼音楽を演奏するとき楽器使用が認められていないんですって・・・。
だから合唱のみになるのはお約束なんだそうです。

この演奏については先ほどのガイドで“特選”扱になっていたのはもちろんですが、コメントがまた奮っていたのです。
よく覚えていませんが、大意は“これを聴かずして何を聴く”“これ一枚あれば他はいらない”“若し耳にしていない人がいたら何を措いても聴いて欲しい”とかどっかの回しモンかというぐらい入れ込んでた訳ですね。

それがやたら意識に残っていたので、カタログには1枚しかなかったのに実際の世評よりもずっと重要な作品ではないかと勝手に思い込んでしまったって言うわけです。
このブログでもよく触れているとおり、情報リテラシーの定石に照らせば、ガイドブックのサンプルが1つしかなかった訳ですから、そこに含まれている情報にはある程度の偏りがあるということをもっと気をつけるべきでしたね。

“晩祷さん”のひとつの熱狂的な批評が、コンチェルトが10種以上のカタログを有するという事実を覆い隠すほどに自分の腑に落ちてしまった。この点は反省です。

しかし本当に私の“決めきれない”という判断は間違いなんでしょうかねぇ?

ここでようやく真打登場なのですが、このロバート・ショウによる“晩祷”。
先のガイドの評にほだされて購入し、吸い込まれるどころか人声に飲み込まれるような錯覚を覚えるほどに感動しました。
今聴いても「これほどの芸術は他にそうはない!」と信じられます。

ことにこの演奏は「祈りの音楽」として聴いてもこれほど敬虔なものはないと思えますが、「コンサート・ピース」要するに演奏会用の演奏として聴いてもこれほど完成度の高い演奏はないと考えられるという、双方の要求を非常に高次元で満たした歌唱になっています。
それだけでなく非常に昇華されているというか、聴いていて癒されるのです。
ロシア正教のステンド・グラスのイコンの懐に抱かれて、心安らかに眠ってしまえるような充足感に満たされるのです。

インターネットのCDショップには輸入盤が主とはいえ、今や10種を越えるカタログが並んでいる曲(ガイドに1つしかなかったのがウソみたい!)なので人気曲の仲間入りをしているのかもしれませんが、この演奏に触れた私にとって最早対抗馬の演奏は必要ありません。

もしもショウよりもすばらしい演奏があったとしても、それはそれで構いません。
私にはショウ盤があれさえすれば、十分満たされるのですから・・・。
これまでもそうでしたし、きっとこれからもそうでしょう。

私にこのように思わせるディスクって、もしかしたらこれだけなのかもしれません。

おおらかで懐が深く、素朴かつ経験で慎み深く、スケールは大きめで潤いがあって美しい。そして人恋しいときには慰め癒されるうえに子守唄としても最適。
って、前半の曲は異様によく知っているのに、後半はどうも夢の中ばかりで聞いているような気もしないではない・・・。

★フォーレ・デュリフレ:レクイエム
                (演奏:ロバート・ショウ指揮 アトランタ交響楽団&合唱団)

1.フォーレ:レクイエム 作品48
2.デュリフレ:レクイエム 作品9
                  (1985年・1986年録音)

おなじみフォーレとデュリフレによるレクイエムのカップリング盤であります。

演奏の特徴は変わるはずもないので重複して申し上げませんが、器楽が入ったとしても懐の深い大きな(おおらかな?)奏楽はさりげない風格さえ漂わせているようです。

フォーレのレクイエムは冒頭の沈潜の仕方が尋常ではないことが特に印象に残りますが、あとは先の特徴に加えて美しく麗しく淡々と進んでいきます。楽園にてまでどこをどう押し出すと言うこともなく、祈りを感じさせながらもやはり「声楽曲(音楽)」であることを忘れない演奏です。

デュリフレは、曲が途中で合唱に対して非常な押し出しを求めるところがあり、激情を表出すれば解決できる問題なのでしょうが、どうもアクセルを踏みながらブレーキをかけているという感じなのが惜しい。
私にはこれはディエス・イレなどを激しく書きすぎた楽曲の問題であるように思います。
そうでなければ、ロバート・ショウ向きの楽曲ではないと言うしかないでしょうね。

全般的には先のショウの特徴を備えた、いい演奏なんですけどね。

★プーランク:ミサ曲 ト長調・クリスマスのための4つのモテット ほか
             (演奏:ロバート・ショウ指揮 ロバート・ショウ・フェスティヴァル・シンガーズ)

1.プーランク:ミサ曲 ト長調
2.プーランク:クリスマスのための4つのモテット
3.プーランク:悔悟の時のための4つのモテット
4.プーランク:アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り
                  (1989年録音)

この曲集も無伴奏です。
プーランクもフランス人、それも筋金入りのパリジャンでカトリック教徒であったようですね。
37歳のときに友人を事故で亡くしてショックを受けたことが元で、宗教曲の作曲に目覚めたらしいです。

ピアノ曲ではあのユニークと言うか、ユーモアがあるというより反骨精神があるというべき楽曲をも遺しているこのプーランクですが、ここに聴かれる4つの宗教曲は確かにウィットに富んだ音運びをすることもありますが、一瞬たりとも敬虔な祈りの音楽であることを忘れることはありません。

これもたいへん実効性の高い子守唄になっている・・・というのはナイショにしておいていただいて、ことある度に癒される奏楽です。

蛇足を承知で確認しておきますが、楽曲の素晴らしさと、それを余すところなく大きな空間のキャンバスに描き出すショウとその手兵の双方の功績であることは言うまでもありません。

私にとってロバート・ショウは合唱指揮の第一人者であり、敬虔な祈りと高度な芸術性を兼ね備えた癒しの音楽を創出してくれる、そんな芸術家なのです。

   ・・・だから最良の子守唄の指揮者だっていうのはナイショだってばぁ~~~!!

おっとぉ★

2006年11月02日 02時30分35秒 | 声楽・宗教曲関連
今日は森鷗外関連についてです。

高校時代の私の最もお気に入りの作家は中島敦でした。教科書で「山月記」を知り、代表作「李陵」はともかくとして、孔子の弟子の子路を描いた「弟子」にはまりました。漢文調のテンポ感がたまらなく心地よかったです。要は、けったいな、もとい「なじみのない」文章でも違和感なく付き合えたということです。

そして、今日の主人公(の父)森鷗外は、原文より素晴らしいと噂される「即興詩人」の翻訳をものし、それを読んだ私は単純に「いいジャン」と思ったわけです。
そして、鷗外をさらに読み進めようと思ったとき、「ヰタ・セクスアリス」という題名をみて「なんじゃらほい」と思いながらもタイトルの語感にピンと来るものがあり、発売後一週間で発禁になったという事実を知ったとき期待に胸を膨らませて読み始めました。
が、あえなく松田優作状態に陥り「なんじゃこりゃぁあ!」 よーわからんかったです。
確かに今でいう官能小説と同一視され発禁になったようではありますが。。。

さて、鷗外の子供の名前をご存知でしょうか?
彼の留学先だったドイツへの愛着が感じられますよ。
長男:於菟(オットー)、長女:茉莉(マリー)、次男:不律(フリッツ)、次女:杏奴(アンヌ)、三男:類(ルイ)ですって。。。
ちなみにお孫さんには、真章(マックス)、富(トム)さんがいるソーヤー。(さぶ!)

というわけで記事のタイトルがご長男「おっとぉ★」で、ご紹介のディスクはクレンペラーなのです。
おわかりですか?
本当は、さらに鷗外はオットーの「おっとう」というのも考えたのです。。。
ドサクサ紛れに書いちゃいますが。。。

☆ベートーヴェン ; 荘厳ミサ曲 (ミサ・ソレムニス)       作品123
            (演奏 : オットー・クレンペラー指揮 
                      ニューフィルハーモニア管弦楽団&合唱団)

巨きな演奏、人間味あふれる演奏と世評の高いディスクですが、私には肥大化しているように感じられてしょうがないところがあります。確かに厳しくやさしい透徹したまなざしが隅々まで通っている、と言われればそんなような気がしないでもない。へヴィーな演奏でも、人類の財産とまでいわれては。。。
ん~~、でもガーディナー盤の方がすきかも。軽くて。

さて、荘厳ミサ曲をご紹介したわけですからお墓の話もあながちずれてはいないかと。。。

家からチャリンコで30分くらいのところにある禅林寺(三鷹市)に鷗外の墓があります。ここは有名な「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」という遺書もあるところです。

確かに墓碑銘には本名の森林太郎の文字のみが刻まれています。
今のご時世、たいへんECOなお名前だなぁ~と感じ入ったりしています。

さて、このお寺の墓といえば実はこのハス向かいにある方のほうが有名ではないでしょうか?
太宰治です。6月19日の桜桃忌には多くの人が集まるようです。

このお墓の銘も太宰治と名前だけが記されています。しかし、太宰の本名は津島修治でありペンネームが銘になっていることが鷗外と反対です。
しかし、大作家が向かい合わせで眠っているなんて凄いお寺だこと!

私が学生のころ国語の教科書に「走れメロス」が掲載されていて、読んだときは感激の涙に咽んだ記憶があります。本当に、メロスとセリヌンティウスの友情の物語はすばらしいと思いませんか?

がしかし、この太宰治というひと。5回の自殺未遂の上に愛人と玉川上水で入水自殺しています。もっといえば未遂に終わったなかに、女性と一緒に心中しようとして太宰は死に切れず女性のみが亡くなったというものもあったようです。
今のご時世、いかに素晴らしい作品を遺していてもこれでは教科書から抹殺されてしまっていやしないか? 少し心配です。。。

いずれもさすが大作家だけあって「ECO」であり「自殺」であり現代の課題を背負っているなぁ。
ブログの文章が上達するようお参りしておこうっと。