SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

ここにいるよ・そばにいるね

2009年05月18日 03時33分33秒 | JAZZ・FUSION
★スピーク・ロウ
                  (演奏:ボズ・スキャッグス)
1.インヴィテーション
2.シー・ウォズ・トゥー・グッド・トゥ・ミー
3.アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー
4.スピーク・ロウ
5.ドゥ・ナッシング・ティル・ユー・ヒァ・フロム・ミー
6.アイル・リメンバー・エイプリル
7.セイヴ・ユア・ラヴ・フォー・ミー
8.バラッド・オヴ・ザ・サッド・ヤング・マン
9.スカイラーク
10.センザ・フィネ
11.ジンジ
12.ディス・タイム・ザ・ドリームズ・オン・ミー
13.アズール
14.サム・アザー・タイム~ウィ・アー・オール・アローン
                  (2008年録音)

タイトルと記事が一致しないとお思いの向きもおられると思うが、私がソルジャ氏やテルマさんの曲を積極的に聴く嗜好を持っていないことは、よくおいでくださるかたには自明のこと・・・なので許していただきたい。

この記事のテーマは過ぎた時間とノスタルジー。
解題のボズ・スキャッグスは、洋楽アーティストとして私にとってはかねてより別格の存在であり、その最新作“スピーク・ロウ”こそ今月採り上げようと思ったディスクである。

彼を知る人であれば誰しもが認める代表曲・・・人口にもっとも膾炙したした曲はやはり“ウィ・アー・オール・アローン”に止めを刺すだろう。
その曲が収録されたアルバム“シルク・ディグリーズ”のバックバンドから先ごろその活動を停止したTOTOが生まれたこと、AORの先駆と謳われ本来アーシーな魅力を振りまいていたところにソフィスティケートされた要素が絶妙な魅力で加わったオトナ向きのロックのヒーローとなっていったこと・・・そんな歴史も、同世代の洋楽好きならば基本的な知識なのだろう。
35歳以上限定の観客に正装を義務付けたコンサートなど、とても画期的だった・・・ことなども当時のニュースで騒がれていたことを覚えている。。。

個人的にはやはり“シルク・ディグリーズ”収録の“ハーバー・ライツ”こそが彼の最高傑作であり、アルバムとしてもっとも楽しめるのは網タイツの女性の腿を枕に紫煙をくゆらせるジャケットが衝撃的な“ミドルマン”なんだと思う。

“ミドルマン”にはデヴィッド・フォスターが全面的に関わり、ファンクな“Jojo”などのナンバーから車のCMにも使用されたサンタナのギターソロが絶品のバラード“ユー・キャン・ハヴ・ミー・エニイタイム”まで聴きどころ満載。
何度聴いたか判らない・・・大学時代、通学時にカセットテープのウォークマンでエンドレスでこればかり聞いていたわけだから、きっと高橋多佳子さんのショパンより聴いた数ではまだ多いんじゃないかと思う。
このアルバムにせよ最も好きな曲には変遷があって、いまでは“イズント・イット・タイム”“ユー・ガット・サム・イマジネーション”というおしまいの2曲にもっとも魅力を感じるようになった。
大学時代とはこの点も大いに異なっていて、なぜそのように感じるようになったか自分自身でも興味深いところだ。

ただ、その後離婚による精神的なダメージでフォスターとの次回作をキャンセルしたことで、いくつかのサウンドトラックに参加したことなどを除いては、新しい音源の提供は8年ものブランクが開いた。

そして結果として発売された“アザー・ローズ”は結論だけいえば力作・傑作ではあったし、野心作として成功だと思うが人口への膾炙はどうだったのか・・・という作品となった。
楽曲の途中に、カッコつけた受け狙いの小憎らしい仕掛けを散りばめて、それがまた(特に東洋の島国の人間には)かっこよく映ってしまうという作品、代表曲としてはかのボビー・コールドウェルとのコラボレーションによる“ハート・オブ・マイン”を所収する作品(ボビー・コールドウェルには新しい“ハーバー・ライツ”をこしらえてほしいとオーダーしたらしい)というのが私の印象。

そして私にとって、ボズがボズであった最後の作品であるとも言える。
甘酸っぱい絶品バラード“ヴァン・ゴッホの夜”(これもボビー・コールドウェルとのコラボだ)をもって、ボズ・スキャッグスは私のロックヒーローとして存在は歴史上の人物となった・・・。

ボズの作品で共通なのは、その『声』の魅力であることに異論を挟む人はあまりいないと思う。
たしかにサウンドも様々なティストを含んで、多彩で華麗なのだが、根底には彼でしか出せないヴォーカルの魅力が余人を以って変えがたい要素として保障されているからこそ、ボズの作品には唯一無二の価値が現われるのだ。

年を経て感じるようになったのだが“ミドルマン”でのボズについて、そのサウンドの多彩さに比して、どうしても声の調子が若干不調であると思えてならない。
“アザー・ローズ”ではまたまた全快となっているので、アルバム全体が気に入っているだけに余計に残念ではある。

その声について、ボズの歌をへたうまなどという人がいるがこれは当たらないと個人的には思う。
要するにうまいとかヘタとかいうレベルでなく、好きな人には抗しがたい魅力を持った声そのものであり、歌いまわし(フレージング?)なので比較のしようなどない・・・というのが妥当だと思う。
先の“アザー・ローズ”の発売時に音楽誌のニューリリース欄に、ボズの新譜を心待ちにしていた女性ライターが「あれさボズさま、どうなと好きにしてくだしゃんせ!」とそのヴォイスを讃えていたのもむべなるかな・・・である。

さて・・・
長々と文章を連ねたが、かくのごとくかつて若いパワーにあふれた時期にAORの神であったボズを慕い、崇拝し・・・といったその音楽と共に生活があった者にとっては、特に言語でその魂を共有することの難しい東洋の人間にとっては、アーシーな原点に回帰しようとしていたボズ、現代的なシンセ・サウンドを身にまとってエキサイティングに楽曲を展開するボズ・・・というチャレンジに対して、その意気やよしであるが、馴染めないものがあったのも事実。

そして初のスタンダード集“バット・ビューティフル”が発表された・・・。
このアルバムは当時お気に入りのピアニストを発掘したから制作したなどと報じられ、アメリカのジャズチャートでは6週連続トップを飾ったらしいが、やはり東洋の島国の人間にはイマイチすぐについていくことはできにくい作品であったのではなかろうか?

それはボズ流のジャズ・スタンダード演奏のメソッドを作ろうとしていたからではないのかと今になって思われる。
演奏にも聴かせどころを・・・歌い方にも独自の工夫を・・・という具合に。。。
だから、逆に伝わるべきものが伝わらないというところもあったのではないかと思う。

しかし・・・
その後、かつての最盛期の楽曲を中心にしたライブ映像がDVDで発売されたのに狂喜し、年を経て、さらに自らの楽曲に深みを加えて演奏している姿に接し、自分が若い頃同じ曲から勢いだけしか感じ取れなかったことを少し恥じ入りながら堪能するという機会を持った。
これは以前のこのバックステージ記事で紹介しているはずである。

そして、今回の“スピーク・ロウ”。
実際に聴いてみて実にさりげない、作ったところというか、意図的なところが殆ど感じられない。
“バット・ビューティフル”ではバックの演奏でサックスが絡んでいたところが、オーボエというか別の楽器に置き換えられていたり・・・ハデにならないようなバックに終始しているのだ。

確かに冒頭の曲など、隣で聴いていた家人が「かぐや姫の音楽みたい」と評する(当を得てると個人的に思ったが)ようなある意味斬新なアレンジが施されている。
しかし、全編を通じてバッキングはひとつのことに資するように出来ている。
すなわち、ボズの声を最大限に引き立てること・・・である。

そして、録音の秀逸さも伴って稀代の声の実在感をともなって、そこでヴォイスを操るボズがいる。
スタンダードを歌唱しているのだが、そうではなく、ただボズがそこにいるという空気が表出されている・・・そんな雰囲気なのだ。

これがこのアルバムの最大の勝因。
かつて青春を一緒に燃え、謳歌したスターと私個人が、いまや同じだけ年齢を加えて違ったシチュエーションにある。。。

当然に私もいろんな経験を好むと好まざるとに関わらず重ねて当時と少し異なった立ち位置にいるのだが、同じように違う経験を重ねて違う歌を歌うようになったボズ・・・その声だけはよりリアルに身近な存在として感じる・・・がいる。

ボズの歌を聴きながら学校を卒業して社会人になって・・・
上司や顧客とカラオケにいったら演歌ばかりを聴かされ、歌わされ・・・そんな曲を歌った人の魅力に気づくと共にそんな歌の魅力も少しだけ知って・・・そんな経験を誰しもがしているのだと思う。

その経験、時間を経てまたボズの音楽ではなく・・・ボズの声との邂逅を果たした。
日本盤のボーナストラックである最終曲に“サム・アザー・タイム~ウィ・アー・オール・アローン”なんてもってくるところは、エヴァンス好きであろう日本のジャズファン(ボズを聴いていた洋楽ファンの趣味が高じたところもあるであろう)にもウケルだろうし、ブリッジに自らの代表曲を織り込むなんていやらしいことこの上ないが、ボズなら許せるという特権を利用しているに違いない。

このアルバムでは声だけにフォーカスできることによって、同じ時間を加えたボズが「ここに・そばに・いる・・・」。
これだけの歴史を共にしてきた者たちにとって、これで至高の時間が約束されないはずはない。。。

このアルバムがでたことで、前回しっくりくるまでいかなかった“バット・ビューティフル”までが存在意義を持つものとなった。
時間を経てなお、やはり、ボズは進化して私の前にあり続ける・・・のか?

いや、進化ではないな・・・
懐かしさを感じさせる別人であってほしいと切に思う。