SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

やはりこの人は・・・

2008年07月10日 22時06分33秒 | ピアノ関連
★リスト:ピアノ作品集
                  (演奏:シモーヌ・ペドローニ)
1.コラール:「われらに、救いを求める者たちに」 による幻想曲とフーガ
2.“巡礼の年 第1年 スイス” ~ オーベルマンの谷
3. "超絶技巧練習曲集” ~ 第4曲 マゼッパ
4.“6つのコンソレーション” ~ 第3番・第4番
5.演奏会用パラフレーズ:リゴレット
6.変奏曲
                  (2005年録音)

やはりこの人は私との相性がいい。
そう思わせられるペドローニの新作ディスクであった。

一昨年(!)の12月に、彼のシューベルトの最後の変ロ長調ソナタのディスクをここで紹介した。
レコ芸の海外盤レビューで喜多尾センセイが紹介していたのを何気に聴いて、打ちのめされるぐらい感動したことが記憶に新しい。
爾来、そのディスクが変ロ長調ソナタの最もお気に入りのディスクとして、私の心のうちではまさに『君臨』しているのだが、その彼の新作となれば期待はいや増すばかりである。

HMVのオンラインで未発表の新譜で紹介されていた時分に、なぜか新宿のタワレコの店頭にあったのでとっとと買って早4ヶ月・・・しょっちゅう聴いているのにいささかも期待を裏切られることがない。

すぐにアップしたいと思っていたのだが、何せ忙しいのと、べた褒めしたディスクを後々聴いたらチョッと違っていたということになってもなんだからと、いろんな理由をくっ付けて遅くなってしまった。

でも、もうハッキリいえる。
このディスクとは一生お付き合いできる・・・と。
つまり、一発屋としてではなく、私にとってコンスタントに『とびきり』フィーリングのピッタリ合う演奏を期待できるアーティストとして認知できた、ということである。

この『とびきり』がミソ。
これを付けるに相応しいアーティストは高橋多佳子さん、B=ミケランジェリのレベルにあり、きっと10人もいないと勝手に思う。

演奏はすっかり手の内に入っているばかりでなく、とても説得力のあるもの。
フレージングなどで少し作為のあとが見えるところもあるが、なぜそのように弾かれるのかすべてに納得がいく。
要するに、私にはとても自然に思えるのだ。

冒頭の“幻想曲とフーガ”ははじめて聴く曲だったが、キーシンのバッハ(ブゾーニ編曲)の“トッカータ、アダージョとフーガ”を聴いた時に感じた神々しさに勝るとも劣らない感激を味わった。
どちらかというと、キーシンの演奏は余りに神々しいのがまぶしくて御神体の本体が見えにくく感じられる・・・それもいい・・・のだが、ペドローニのそれはしなやかなうえに威厳が感じられ、神の実存が見て取れる。

“オーベルマンの谷”はさすがにアラウのそれに比するというわけにはいかないが、アラウのどうしようもなく動かしがたい存在感という路線以外の方法では、もっとも私にとってしっくり来る演奏といっていいだろう。
テンポとしても、表現としてもじっくり型だと思うのだが、先にも書いたとおりしなやかでいささかも不自然なところがない。
音楽は流れるし、そこに置かれた音がどんな心もちを担っているのかが、私にはクリアにつかめるような気がする。
全体の構成もしっかりし、ドラマ性も十分、精神性だってバランスよく配合されている・・・本当に感覚、感性が私と共通の部分が多いのであろう。

フロイト、ユングのいう無意識という意識の底に横たわる部分で普段意識していないところの構成とか、遺伝子の配列とか・・・なにかが決定的に似ているように思える。

“マゼッパ”のスケールの大きさ、これは高橋多佳子さんにも通じるのだろうが、無理しなくても音楽のスケールが大きく飛翔する・・・。
ムリしなくても、というところがミソで、ガタイを大きく取ってしまうと中がスカスカになってしまったりする演奏が多い中、見通しはよくても際限なく高揚させてくれるような展開を期待できるものはまれである。
思いっきり、鍵盤を叩いているように聞こえる箇所も多いのだが、普通だとそういうところが五月蠅く聞こえるのに、この人の場合はなぜかそういうことがない。

蒸し返すようだが“オーベルマンの谷”のクライマックスに於ける、表現、表情付けなども、思いっきり弾きあげていながらまったく五月蠅さを感じない、鳥肌立ちまくりの感動もの。
聴き栄えのする・・・否、むやみに派手な大曲をこのように続けて並べて、聴き手をひきつけずにはおかないという力量は目覚しい。

そして逆の意味でのクライマックスが、“コンソレーション第3番”の静謐な、そしてこれまたしなやかな美しさである。
ジルベルシュティンをはじめチッコリーニなど、テンポをじっくり取った聴き応えある名演奏もないではないが、どうしてもショパンの作品27-2の焼き直しみたいな解釈であったり、BGM風のかる~い流れていくだけの音楽に聞こえたりという憂き目を見がちなこの曲が、かけがえのない『なぐさめ』を与えてくれる看板に偽りのない曲、ショパンのそれとは趣を異にする佳曲であることを実証できる数少ない実例である。

プログラム上、この2曲の選曲は頷けるが、是非全曲を聴いてみたい・・・と思わせる内容。

そして、“リゴレット”は逆にこんなに地味に弾かれているものをはじめて聴いた。
それも、彼の演奏の特徴であるしなやかさがあるゆえなせる業。この曲の別の魅力全開と思わせられるところが不思議なくらいである。

そんな不思議な充足感を感じながら、まさに余韻を残すだけ・・・という趣の最後の変奏曲。
アンコールというか、アフターアワーズというか、深呼吸してクールダウンしかかったところで、小気味よくディスクを終える。

何回聞いても満足感を味わうことができる絶品、名盤!
ことしの私のレコード大賞ノミネート決定、ブラヴォーという声を上げることすら忘れそうなこの1枚。
高橋多佳子さんがディスクを作らなければ、受賞が確実視されるまでに気に入っている。


★バッハ:ゴルトベルク変奏曲
                  (演奏:シモーヌ・ペドローニ)

1.ゴルトベルク変奏曲
                  (2001年録音)

やや以前のこのディスクも求めてみた。
やはり前述のリストや先般のシューベルトほどの訴求力は感じられなかったが、それでもなお私との相性の良さを感じさせるものだった。

工夫・・・悪く言えば作為を感じさせるような解釈をところどころ取りながらも、絶妙に私においしいところを気づかせてくれる。
現在の彼の曲解釈に練られていく過程にあることが如実に感じられる演奏。

・・・ん、何だ今のは?
と思っても、思わず愛好を崩してしまうような演奏ってたまにある・・・。
ノー文句とは言わないけれど、どうして私がこのひとの演奏が好きなのか、それがわかるような演奏である。

演奏は、ややもちっとしていながら粘着かない感じの音色、個性的で工夫いっぱいでありながらイヤミは感じないというもの。
もっとも、これは私との相性が良いということだけなのかもしれないが。


それにしても、シューベルトのディスクも含めて、ジャケットが作曲家の顔の右前からのカットであるのはなにかポリシーがあるのだろうか?
どうでもいいことだが。。。